札幌に戻ったら「最強」とか考えなくなった――炎の漫画家・島本和彦さん【ここから生み出す私たち】

インタビューと文章: 前田久

島本和彦さん

創作しながら暮らす場所として、あえて「東京」以外の場所を選んだクリエイターたち。その土地は彼・彼女らにとってどんな場所で、どのように作品とかかわってきたのでしょうか? クリエイター自身が「場所」と「創作」の関係について語る企画「ここから生み出す私たち」をお届けします。

◆◆◆

今回の「ここから生み出す私たち」に登場いただくのは、『炎の転校生』『逆境ナイン』『吼えろペン』『アオイホノオ』など、オタク心をくすぐる数々の燃える作品で知られる炎のマンガ家・島本和彦さん。

北海道で生まれ育ち、高校卒業後は大阪芸術大学に進学。在学中に商業マンガ家デビューを果たし、卒業を待たずに拠点を東京へ。90年代半ばに北海道にUターンし、以降は札幌で旺盛な創作活動を続けています。2014年からは家業の経営にも携わるようになり、2019年には社長に就任。

マンガ家と社長業の両輪で、多忙な日々を過ごす島本さんに、熱い青春を過ごした大阪、マンガ家として怒涛の日々を送った東京、そして、地元・札幌への思いをたっぷりと語っていただきました。

※取材はリモートで実施しました

映画やおもちゃに憧れた十勝の少年時代

――今は札幌にお住まいですが、ご出身は同じ北海道の十勝だとうかがっています。

島本和彦さん(以下、島本):十勝の豊頃町ですね。駅前に家があったんだけど、当時はまわりに何もなくて。郵便局と、雑貨屋みたいなお店がひとつ。あとは駅(笑)。

――となると、自然は豊かだったのでは?

島本:もう、いくらでもあったよ(笑)。保育所に行く途中に牧場があって、いつも牛のそばを通ってた。車もないし、電車……うちら(※北海道民)は「汽車」っていいますけど、それにもほとんど乗らないから、どこに行くにしても、歩くしかないわけですよ。

だから、もう、歩いて近所のあっちこっちに行ってね。「風が強い日だなぁ」とか、「猫柳は猫に似てるんだな、ふさふさしてるんだな」みたいなことを感じていたのを覚えています。

北海道の風景自然豊かな北海道の風景(撮影:島本和彦)

――メディア環境はどうでしたか?

島本:白黒テレビが家に1台あったのが、すべてですよね。テレビは本当によく見ていました。「ウルトラQ」(1966年)は本放送が記憶にあります。

それ以外の娯楽だと、2カ月に1回ぐらい、お絵描きのための白ノートを買ってもらうんだけど、表紙に絵が描いてあるわけ。その裏に「塗り絵」といって、線画が載っているのが重要でした。その線画を紙に透かして描く……いわゆるトレースをやったんだけど、当時から「これはホントの絵の実力じゃない……!!」と、悪いことをしている気持ちがあったんです。まだ4歳や5歳なのに(笑)。

――早熟ですね。子どものころに描いていたもので、よく覚えているのは?

島本:当時はよく「パーマン」の絵を描いていて、初めてコマを割ってマンガを描いたのも「パーマン」。一度近所に住んでいた同い年の女の子が、そのマンガを見て「〜のまき」っていうタイトルをつけたんだけど、「『まき』はタイトルじゃなくて、サブタイトルだろう! そんな簡単なこともわからないのか!」と子ども心に思ったのを覚えてる(笑)。

――島本先生のご両親は、テレビやお絵かきには寛容だったんですか?

島本:親は木材の仕事で失敗して、私が小学1年生のときに札幌に移って、ダスキンの仕事を始めるんだけど*1、生きていくため、生活するために忙しすぎたんだね。何も言われなかった。

――親からかまってもらえないことで、寂しさを感じることもありました?

島本:比べる対象がないので、「こんなもんだ」と思ってましたね。……ああ、ただね、「寂しい」とは違うけど、小学校時代にはいろいろ思うことはあった。「ガメラ対◯◯」の映画が次々と公開される記事を雑誌で見ると、あれが子ども用につくられていることは、なんとなくわかるんですよ。だけど自分は見に行ったことが一回もない。「なんだろう、この世界は?」と。

なんで子ども用につくられているものが、子どもである自分のまわりにはないのか? それは不思議で、だから、そういうものに対する憧れがすっごい高くなったのかもしれない。

――『アオイホノオ』で、テレビ特撮は通っていたけど、特撮映画は通らなかった……というセリフがあったのは、そういうことだったんですね。

島本:そういうことです。あとそう、おもちゃのカンヅメだ!! なんなんだろう、あれは!? ってさ。チョコボールを買っても、金のエンゼルどころか、銀すら見たことなくて。

世の中ってどうなっているのか、あのころはまったくわからなかったですよね。欲しいものにはまったく手が触れられない、見ることができない。子どもだから、自分の住んでいるところが田舎だからというのもわからないでしょ? 当時はね、ひたすら不思議でした。

アオイホノオ月刊漫画雑誌「ゲッサン」にて連載中の『アオイホノオ』。1980年代初頭、大阪にある大作家芸術大学に通いながら漫画家を目指す若者・焔燃(ほのおもゆる)の熱き青春を描いた自伝的作品
(C)小学館

――そうした環境で想像力が鍛えられた側面もあったのかなと。

島本:想像力はねえ、鍛えられますよね。雑誌に載っている広告で欲しいおもちゃがあると、どうやってできているんだろう? 遊んだらどうなるんだろう? みたいにさまざま考えました。

マンガにキャンディーズに生徒会長に……「伝説」を生み出した学生時代

――札幌では小学校から高校まで過ごされます。どんな環境にお住まいだったんですか?

島本:貧乏だったから借家だったんですけど、一軒家に住んでました。すぐそばに幼稚園があって、その50メートルも離れていないところに、子どもたちを集めてやっている絵画教室があったので、そこで絵を習ったりしてね。

あとは、近所の工場に行くと、西洋紙の分厚い束を20円で売ってくれたので、それでコマを割ってマンガを描いたりもしてました。当時から自分でも思っていたけど、鉛筆と西洋紙の束があれば1カ月以上過ごせるわけだから、安上がりな子どもだったよね、私は。

――一緒に絵を描くようなお友達はいました?

島本:当時ウルトラ怪獣のソフビがすごく流行っていたので、同級生と写生する会を開いたりはしてました。「誰がいちばん009を描くのが上手いか?」を競ったこともあったなぁ。

近所に住んでいた“白鳥のお兄ちゃん”って人が上手くてね。私が小学1年生のときに、彼は3年か5年だったんだけど、もう、「なんとかしてあの人を超さなきゃいけない」と思ってました。今、その人とゼロゼロナンバーサイボーグを描いて競争してみたいな(笑)。「あのときは負けたけど、今はどうだか。ちょっと戦おうぜ!」って。

――中学時代はどうでした? 思春期に差し掛かると、またモードが違いそうですが。

島本:小学校のころからノートにマンガを描いてたんだけど、中学時代に描く内容が発展して、「宇宙戦艦ヤマト」になったんです。それまでは、ウルトラマンAの息子を勝手に考えて、そいつが活躍するマンガとかを描いていたのに。ここがね! マンガ家としての重要な発展ポイントですよ!(笑)

あと、キャンディーズが好きだったんだけど、野外公演を見に行ったとき、本番前の音響テストか何かで、仮で曲に合わせて踊っている男性スタッフがすごく面白くてね。一緒に行った友達と、「これ、うちの学校でもやろうぜ!」と盛り上がって、文化祭かなにかのイベントでキャンディーズの曲をかけて男3人で踊ったら、ものすごい大反響だった。その年の卒業生を送る会に出演オファーが来るくらい。あんまり威張れるようなことでもないんだけど(笑)。

――いやいや、すごいじゃないですか。

島本:男3人が、本気で大熱演するのがよかったんだろうね。あのときに、人前でワーッと盛り上がることの快感を知ってしまいました。あ、キャンディーズといえば、中学にはミキにそっくりな女の先生がいてね。朝、登校するときに、ずっとバスが来るのを待っていて、先生が来たら偶然を装って「あっ……おはようございます!」と挨拶をしてから登校してた。

――もしかして、初恋はその方ですか?

島本:初恋って……意味がわからない。男の子なんて、最初に見た女の子が初恋の相手じゃん!! 初恋の相手を選べるの!? 女の子は登場順に好きになるもんですよ!!

島本和彦さん

――失礼しました(笑)。その後、高校では演劇部と陸上部に入られて、さらにはマンガも描き続けておられると。多忙ですよね……。

島本:しかも生徒会長もやってたからね。生徒会長の対立候補になってくれといわれて、おもしろいから引き受けたら、当選しちゃって、2年、3年と生徒会長をやっていたんですよ。

――えっ!?

島本:あれは誤算でしたね……。その年、1年生が生徒会長に立候補したんですよ。あとにして思えば、そいつは優秀だったので、そのまま生徒会長にすればよかったんです。

でも、頼まれたし、壇上で演説するのが楽しそうだったので、対立候補を引き受けてしまった。それで演説のとき、「生徒会のことを……誰もわかっていないっ!!」と、ぶちあげてね。いや、俺もわかってなかったんだけどさ(笑)。「誰も何をやっているのか……わかってないんですよっ!!」とか、でっかい声でいったら、バカ受け。

――まるっきり、先生の作品のノリですね(笑)。

島本:あと、広川太一郎さんの声マネで「無限に広がる生徒会……」とやったり、古代進っぽく「このままでいいのか……違う! 断じて違う!」とかもやったなあ。ちょうど映画の『さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち』が公開された年(1978年)だったから、どっちのネタもブワァーッ! と盛り上がった。

そうしたら、あくまで候補が一人しかいなくて、白紙投票が増えることを避けるために出た対立候補だったのに、大差で生徒会長になってしまった。そういう馬鹿なことばっかり、昔からやってますよね。で、生徒会長になったら、防衛大学校の推薦が貰えたんですよ。普通の親だったら、そこに行けというに決まってますよね?

――お給料をもらいつつ学べる、親としたらありがたい立場ですよね。

島本:なのに、大阪芸術大学の受験を許してくれた。そんな親、おかしい!!(笑)

都会・大阪でのホノオの日々

――(笑)。そもそもなぜ進路は大阪芸大だったんですか?

島本:『高3コース』(※学習研究社刊行の学年誌)を読んでいたら、記事で大阪芸大が取り上げられていて、「アニメのためにビルの模型をつくる学生」という写真が載っていたんです。バカじゃねえの!? と(笑)。その写真がバカすぎて、こんなことに時間を使っていい大学には是非行くべきだ!! と思った。

――「一度、札幌を出てみたい」といった気持ちはなかったんですか?

島本:高校に進学するとき、中学の同級生がほとんど進まない高校を選んだんです。そこで中学までとはキャラを変えようと一大決心をして、「中学時代、いちばんバスケがうまかったやつ」というキャラ設定を自分につけて、そのとおりに行動したんですよ。

そしたら、これが思った以上にうまくいってしまった。そこで、誰も知らないところに行くって、めちゃくちゃ変身できるなと思ってはいました。そういう意味では、地元にいるのが嫌だったんですよね。

――ちなみに、東京に行く選択肢はなかったのでしょうか? 当時からマンガ家かアニメーターを志望してらっしゃったわけで、それを考えると東京に出る道もあったのかと。

島本:そこはなぜか一切考えなかった。東京って優秀なやつばっかりいるから、私が行っても埋もれると思ったし。あと、天王寺に親戚がいて、ちょっと街になじみもあったから。

――お住みになられてからは、大阪のご印象はいかがでした?

島本:「都会だな」と思いましたね。大学自体は田舎にあるんですけど(笑)。当時はよく、土曜日に梅田でオールナイトの映画を見て、日曜日に帰って来ていました。若い学生らしく無茶なことをしたいんだけど、ホントの無茶をするのは怖いので、そのぐらいの冒険をやっていたんです(笑)

梅田の阪急ファイブ(現・HEP FIVE)に同人誌を売っている書店(※駸々堂書店。現在は閉店している)があってね。そこを覗いてから、地下に降りて、真っ直ぐずっと梅田の地下街を歩いていくと、キディランドというおもちゃ屋さんがあって、そこが最終地点。キディランドにはいろんなおもちゃがあって、それを何時間でも見るのが楽しみでした。2週間に1回ぐらいのペースで、そんな週末を過ごしていました。

――地元とは品ぞろえに違いがあったのでは?

島本:いやあ、プラモデルのそろいは違いました。『あしたのジョー』で言えば、札幌にはジョーも力石も売っていなくて、買えるのは段平だけ!『スペクトルマン』で言えばスペクトルマンも宇宙猿人ゴリもなくて、あるのはラーだけ! 私が買いに行くのが遅かったのかもしれないけど、なぜか3番目のものしか売っていなかったんですよ、当時。だから、梅田で最新のおもちゃを買うのは快感だったよね。

――大阪時代は、基本、下宿・大学・週末は梅田……の三角形で行動するイメージ?

島本:そうですね。ちなみに『アオイホノオ』では混乱しないように下宿をひとつにしてますけど、本当は途中で一回引越しているんです。最初は民家を下宿に改造したところに住んでいて、いろんな先輩に酒を買いに行かされたり、夜中に叩き起こされたり、先輩の入ったあとの真っ白な垢が浮いた風呂に入ったりしていたのは、そこでの話。

それが1年で嫌になって、大学最寄りの喜志駅の近くにあるコーポに移り住みました。大学の近くに住むと、友達とワイワイやれて楽しいんですよね。寮も学校のそばにあったりするから。大学生は学校の近くに住んだ方がいい……いや、あまり関係ないかなぁ? どうなんだろう?

――私は大学に片道一時間半かけて通っていましたが、やはりどうしても、そうした交流は薄くなりましたね……。

島本:そうか。私はそういう人がよく家に泊まりに来ていたなあ。そのころは、部屋も綺麗にしていたから(笑)。

――『アオイホノオ』の魅力的なヒロインたちは、よく主人公である焔燃の下宿に来て、マンガを読んだり、一緒にアニメを見たりしますよね。トンコさん然り、津田さん然り。実際の先生の部屋にも、モデルになった女性の方がよくいらっしゃっていたんですか?

島本:……ヒロインは来ないよ! 何を言ってるんだ!!(笑)。女友達でも、ヒロインじゃない知り合いは来る。ヒロインは来ない! ……いや、たまには……1回や2回はあったかもしれない。

――あんな、ことあるごとにくる感じはない。

島本:そう。あれは妄想です!!

アオイホノオ(C)小学館

――で、在学中にプロデビューをされて、1982年の『風の戦士ダン』の連載開始からしばらくして上京される。それは編集さんからの言葉も大きかったそうですが、先生としてはどんなことを考えておられたのでしょう?

島本:同年代のマンガ家もどんどん出てきているし、もう行くしかないという感じでしたね。あの当時って、「誰が先にやるか」というのが非常に重要だという感覚があったんです。私の頭がおかしかったせいかもしれないけど(笑)、とにかく「先にやられたらおしまいだ!」と考えていたので、焦ってはいましたよね。

あと、大学に4年間通っても……今考えたら、卒業までいればよかったと思うんですけど、当時は何か、別の刺激が欲しくなっていた。2年ちょっとでも、すごく学生生活が充実してたんですよ。やりたかったことを、いろいろやれた。やり残したことといえば、自分が監督した実写の8ミリ映画を撮らなかったことくらい(笑)。

ーーちなみに、『アオイホノオ』の最新巻(23巻)で作中時間がその時期に差し掛かっていますが、連載はどうなるのでしょう? 一区切りを迎えるのか、それとも、上京編に突入される?

島本:『アオイホノオ』は、もう自分の過去の話というよりも、あの時代の文化の空気を伝える作品として手ごたえを感じているので、その路線でもうしばらく続けたいなと思っています。

「編集者に会いたくない」都心から外れた上板橋での生活

――上京以降のお話もうかがいたいのですが、先生の東京時代の仕事部屋というと、高田馬場の印象が強いです。最初からそこに?

島本:最初は札幌の知り合いがアニメーターになって同じ時期に上京するということで、西武新宿線の新井薬師前駅のところに下宿を借りたんです。でも、「まだ身分としては学生だしな……」と思っていちばん安い物件を借りたら、非常に壁が薄くて、マンガの打ち合わせや仕事を夜にやると怒鳴り込まれるんです。だから3カ月くらいで出ました。私、実は引越しが好きなんですよね。

――そうなんですか。マンガ家さんのようにモノが多い方だと、引越しを避ける方が多い印象がありますが。

島本「違う環境に行っても耐えられる自分」が好きなんです。で、その次が高田馬場ですね。戸塚警察署の近くの、明治通りと新目白通りの交差点のあたりにあるマンションを借りました。「東京ってこんなところなんだ!」と初めて思ったのはそこだなぁ。深夜の2時でも車の音がうるさくて、交差点の近くだから、信号が赤になった、青になった……というのが、窓越しにわかるの。交通量が半端ないから。最初のうちは、寝られないくらいだった。

で、その後、同じ高田馬場で、前のマンションとは駅を挟んで反対側にあるマンションを、住む所兼仕事場として借りました。こっちのマンションは駅の近くですごく都合が良くて、そうしたら上京した藝大の友達だとか、あるいはマンガ家の友達だとか編集者だとかが、みんな泊まりに来るんですよ。

――山手線沿線で、交通の便がいいですものね。

島本:でさ、泊まりに来るのは別にいいんだけど、一時期、私が全然売れなくなったころ、編集者が来ては文句を言っていたの。徐々にそれが耐えられなくなって、上板橋の方に移るんですよね。編集者に会いたくない一心で、都心から外れた駅の、それも歩いて13分ぐらいかかるマンションにわざわざ住んだ。上板橋まで電車で来て、13分かけて歩いて来てくれる編集者にだけ会おうと思ったわけ(笑)。

上板橋のマンションはすぐ隣が公園で、それが結果的にはすごくよかった。子どもたちの遊ぶ声がときおり聞こえて来るのが、癒やしになりました。まあ、たまに裸で歩き回る変質者も出たらしいんだけど(笑)。

気分転換にキャッチボールとかもできたし、東京で住んだ物件では、そこが一番好きだったかな。道を挟んですぐ向かいにスーパーがあって、そこで買ってきた魚を、テレビショッピングで買った遠赤外線グリルですぐに焼いてね。「なんて美味いんだ!」って感動したり、そういうことがひとつひとつ楽しかった。

――大阪の梅田のように、東京の遊び場で思い出深い場所はありますか?

島本:「太陽にほえろ!」が好きだったので、新宿の高層ビル街は夢の場所でしたね。何かあれば新宿駅の西口から出て、高層ビルのまわりを歩いたりしていましたよね。

――ああ、東京の魅力のひとつは、ドラマのロケ地巡りがしやすいというのはあるかもしれませんね。

島本:そうそう。あと咲き乱れる桜がうれしかったな。北海道に住んでいると、カブトムシもいないし、内地の自然に憧れるところがすごくあったので。テレビに映る四季って、基本的に内地の四季なんですよね。

東京で過ごしていたときは、「これが噂に聞いた桜であり、梅雨であり、蛍か」と、有名な四季を楽しむ……みたいな感じがありました。とにかく、良いことも悪いことも含めて、東京の四季は楽しかったです。「上野の花見の混みようはこれか! 座れねえな!」とかね(笑)。

札幌に戻って地に足がついた

――上板橋の次は、もう今お住まいの、札幌ですか?

島本:その前に一回、高田馬場に戻ってます。ただそのころからね……風俗営業のビラが、電話ボックスに大量に貼られたりしていた時期があったじゃない? あれを見て、もうここは厳しいなと。踏切にまで貼ってあるのを見た瞬間、「もう本当に駄目だな」と感じたんです。

東京は東京で、今でもとても好きなところもあるんだけど。そのころ、ちょうど子どもも生まれたし、自分が幼少期に育ったところで育てたいなと思って、札幌に戻りました。両親も札幌にいましたしね。

――以前、テレビ番組の取材で「なぜ札幌で仕事をされているんですか?」という質問に、「生まれ育ったところだから」と手短にお答えになられていましたが、お子様の存在が背景にあったんですね。

島本:もちろん、他にも理由はあって、私のマンガの人気が出なくなってきて、仕切り直したいという気持ちもあったし、心機一転したかった。

――実際、札幌に移ってみて、いかがでしたか。移ってからしばらくして、代表作のひとつである『吼えろペン』の連載が始まるわけですが。今にして思う、札幌に帰ったことで創作に与えられたポジティブな影響は?

島本:東京で上板橋に移ったときも同じだったんだけど、それまでは考えるマンガが全部、「地上最強」「世界最強」みたいなアイデアばかりになってしまっていたんです。地に足がついてないぞ、俺は……と。

上板橋で公園の横に住んだのは、それが気になったからでもあったんです。子どもが遊んでいる声を聞くと、地に足がつくんですよ。「この子たちに見せるマンガを描くべきだな」と。

札幌は空が東京よりもものすごく広いし、ここで最強とか考えてもな……みたいな気持ちに、もっと自然となれる。地上最強とかそういうことじゃないよな、四季折々の自然だよな。札幌の冬なんか、雪が降ったらもう、人間にはどうしようもない。そういうのがいいよね……と。

北海道の風景晴れた日の札幌の風景(撮影:島本和彦)
北海道の風景雪が降り積もる札幌の風景(撮影:島本和彦)

――深いです。

島本:あとね、編集の人と、頻繁に会う必要もないなと思ったんです。しょっちゅう会える環境にいると、編集の人も仕事だから会いに来るし、こっちも会わなきゃいけない。それって、すごく気疲れするんですよね。

それよりは電話で打ち合わせをしたほうが、私にとっては気楽で、良かったのかなと思います。北海道に来た当初は、保険をかけて宅配便で原稿を送るのが大変でしたけど、今はもう全部デジタルでデータのやり取りができますしね。ますます仕事をするのはどこでもいい感じになりましたよね。今のコロナの状況で、リモートワークでのマンガ執筆が世の中の主流になったら、もっと変わるんでしょう、このあたりは。

札幌では「有名じゃない」漫画家だから

――コミュニケーション疲れをしたら物理的に距離を取るというのは大事なのかもしれませんね。2014年からは、家業である株式会社アイビック/株式会社アカシヤ*2のお仕事も始められて、マンガ家業と両立されています。両立のために心がけていらっしゃることはありますか?

島本「休むときは休む!」ですね。マンガ家一本でやっていたときって、常にアイデアを考えていないと落ち着かないし、仕事をできるだけ増やして、やれるだけのことをやっていた。だけど、それと同じ状態で会社の仕事もしていたら、2年間でおかしくなってしまった。

そのとき、初めて「マンガの連載を休ませてください」と言ったんです。自分でも、休めたことにびっくりしてね(笑)。マンガって休めるんだ、連載を途中で止められるんだと、私としては初めて経験して。それだったら、もっと若い内にも休んで、家族で旅行に行ったりしておけばよかったですよ。

――四六時中、仕事意識にならず、オンとオフを切り分けることが大事。

島本:そうですね。仕事のことをどうしても考えられないときもある。そういうときは、考えようとしない。……それがいいのか悪いのか、まだわからないですけどね。

――中断している連載といえば、『ヒーローカンパニー』の続きを気にされている読者も多いかとは思いますが。

島本連載の中途で止めるのも、石ノ森章太郎っぽくていいかな……という気持ちもあるんだけど(笑)、終わらせずに次の連載を始めたら、それは仁義に反するかなとも思うんですよね。ちゃんと終わらせてから、次の連載を始めようかなと思っています。

ヒーローカンパニー「月刊ヒーローズ」創刊号より連載の新卒ヒーロー奮闘アクション『ヒーローカンパニー』。現在、ヒーローズコミックス1〜10巻が発売中。また、コンビニ向けコミックスとして「ヒーローカンパニー入社試験!編」「〜巨大ヒーロー!編」も7月13日より発売中
(C)島本和彦/ヒーローズ

――楽しみです。とはいえ、しばらくは『アオイホノオ』と社長業の両立という形でしょうか。最後に、マンガ家であり、地元企業の社長でもある立場として、札幌という土地と今後、どう付き合っていこうとお考えなのかをうかがえれば。

島本:社長の集まりだとか地域の集まりに行くと、他の社長たちはみんな、もっと若いときに社長になっているので、この歳になって新参者の立場というのは結構キツい(笑)。

でもまあ……去年、58歳で社長になって、そこから2年もしたら定年を考えるような年齢になってしまうんだけど、 マンガばっかりやっていたときには見えてこなかったものが見えてくるし、いっぱいいっぱいなところもあるけれど、もっと対外的に知り合いを増やして、がんばって行きたいですね。

私は、東京ではそこそこ有名なマンガ家かもしれないけど、札幌に来ると全然有名じゃないマンガ家なんですね。少なくとも、マンガ家であることを売りにして会社をうまい方向に行かせるのは無理です。だからまあ、「それはそれ!! これはこれ!!」な感じかなぁ。駆け出し社長としては、それぐらいしか言えないです。

――先生はご謙遜されますが、長いキャリアを誇り、今なお現役のマンガ家さんが、拠点を地元に構えておられるというのは、地域にとっては大きな財産ではないかと思いますが……。

島本:そういう意味でいうと、地元にあるSTVラジオで、約7年間も番組(「島本和彦のマンガチックにいこう!」)をやらせてもらえたのは楽しかったね。あれは地元じゃなきゃ、ローカルラジオ局じゃなきゃできないことだから。どんな形になるかわからないけど、いつかああいうことをまたちょっとやれたら、うれしいですね。


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お話を伺った人:島本和彦

漫画家。北海道中川郡池田町に生まれ、幼少期を豊頃町で過ごす。1982年、「週刊少年サンデー」増刊号にて『必殺の転校生』でデビュー。主な著作に『炎の転校生』『逆境ナイン』『吼えろペン』『アオイホノオ』など。2014年より家業を手伝うようになり、2019年より社長に就任。現在は漫画家と社長業どちらもこなす。

Twitter:@simakazu

聞き手:前田久(まえだひさし)

前田久

1982年生まれ。ライター。通称"前Q"。アニメ、マンガ関連のインタビュー・コラムなどを各種媒体で執筆。主な寄稿先に「月刊ニュータイプ」(KADOKAWA)。作品の公式サイト、パッケージ付属ブックレット、劇場パンフレットなどの仕事も多数。著作に『オトナアニメCOLLECTION あかほりさとる全書〜“外道"が歩んだメディアミックスの25年〜』(洋泉社、オトナアニメ編集部との共編著)、原稿構成を担当した本に『声優をプロデュース。』(納谷僚介著、星海社新書)がある。

Twitter:@maeQ

ブログ:「前Qのほめぱげ」という名のブログ

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編集:はてな編集部

*1:島本の父親は札幌でダスキンのフランチャイズ事業を手掛ける株式会社アイビックの創業者

*2:アイビックと同じく、島本の父親が立ち上げたTSUTAYAのフランチャイズ事業などを手掛ける企業