著: 田中裕子
毎日帰ってくる街だからこそ、おいしくて敷居の低いお店があるとうれしい。住んだことのある人ならではの視点で、普段着でひとりでもかろやかに通える街の名店をご紹介します。
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2000年。椎名林檎が大ヒット曲『罪と罰』で「頬を刺す 朝の山手通り」と歌ったとき、鹿児島の実家すぐそばを走る国道3号線くらいしか知らなかったわたしは静かに撃ち抜かれた。「いったいどんなイケてる道なんだろう……!」とドキドキした。「東京の道」って、ちょうかっこいい。
そして時は流れ、上京して10年。三軒茶屋で見つけたマンションの内見へ向かう車中でハンドルを握る不動産屋さんから「茶沢通りって知ってます?」とたずねられたとき、首をかしげつつ忘れかけていたミーハー心がむくむくとよみがえった。
「三軒『茶』屋から下北『沢』へとつづく、歩いて30分弱の一本道なんですけどね。駅からマンションへは、この通りを歩いていくことになります」
もともと三軒茶屋には、うっすらと「リア充な若者の街」という偏見を持っていた。そんな街と、お芝居と音楽とサブカルの街・下北沢をむすぶ通りがあるなんて!
渋谷から2駅という便のよさだけで選んだ三軒茶屋にて、思わず出会った「東京の道」。しかし、リア充感もなければサブカル感もない人間がそこに住んでも許されるのだろうか……?
日曜祝日にはホコ天に。毎週お祭り気分になれる
結論から言うと、まったくの杞憂だった。浮ついた気持ちも勝手なビビりもどこへやら、キッチンが小さいことを言い訳に外食に明け暮れたのが功を奏し、食べる店を通じてあっという間に茶沢通りになじんでいった。そして年々、愛は深まっていった。
茶沢通りを歩く人が必ず目にするゴリラビル。「ゴリラを右に入る」「ゴリラより向こう」など目印にも使われる
このエリアはとにかく、飲食店のバラエティが豊かだ。ひとりでもグループでも、のんべえでも下戸でも、それこそリア充っぽい人から老夫婦まで、それぞれたのしめる店がみっちりと並んでいる。
わたし自身、三軒茶屋に夫婦+柴犬一匹でやって来て、しばらくして妊娠し、子どもを迎えた。それらどのシーンでも茶沢通りに並ぶ「食べる店」はわたしを受け入れ、心と胃袋を満たし、もっともっとこの一帯を好きにさせてくれた。
奥の円泉寺に聖徳太子を祀る堂があり、一帯の住所は「太子堂」。でも薬局は「大志堂」。元気な居酒屋みたい
「ちょっと外食しすぎかな」と思っても、「茶沢通りにお金が落ちるなら本望」と思い直せるくらい。
もはや「『食べて応援』できてよかった」と誇らしい気分になるくらい。
つまりちょっとアホになるくらい好きになった三軒茶屋・茶沢通り一帯、その「食べる」をシーンごとにご紹介したい。
夫婦ふたりで、平日カウンター飲み会ごはんと週末休肝ランチ
「結婚って、毎日が好きな人との飲み会みたいなもんですよ」
独身のとき仕事で知り合った人がそんなふうに言っていて、「なにそれたのしそう」とがぜん結婚に前のめりになった記憶がある。単純か。
この「夫婦飲み」にうってつけなのは、カウンターのあるお店。今日のできごとを報告しながらサクっと一杯するときは、真正面より横に並びたい。
「とりあえず塩レモンサワーとポテサラ」が合言葉
ニューマルコは、カウンターのみ10席の小さな居酒屋だ。味も盛りつけもひと工夫してあり、お客ひとりひとりのことをちゃんと見てくれている。「ちゃんとおいしい居酒屋」が近所にあるだけで、生活の質がなんと向上することよ。
店内に流れる「選曲がいちいちエモい」と評判のJ-POPは店主オリジナルのプレイリストらしく、気づけばみんな口ずさんでいたりするのがおもしろい。甘さとさっぱり感が同居する名物の塩牛すじ煮込みを食べながら聴くJUDY AND MARYは、「控えめに言って最高」というやつだ。
ちなみにマルコ系列は三軒茶屋の北口に3店舗という地元愛しかない展開をしていて、一方的にこの街を担う同志のような気持ちになっている。
茶沢通り一帯からやや外れてしまうけれど、カウンターのあるお店でどうしても紹介したいのが立ち飲みの采(さい)。
ここのお通しは、なんとお粥。ほかほかと胃を守ってくれる気がして心置きなく飲めるし、行くたびに味つけが違うので「今日は何味かな」とワクワクする。「質素の代表」みたいな食べ物でこんなに心おどるなんて、子どものころは思いもしなかったよ。
メインは1杯500円均一の日本酒で、新酒からレア酒までいろいろそろっている。ふたりで行けば、2倍飲み比べできるのがうれしい。酒盗や厚揚げ焼きなど定番の肴はどれもこれも外れナシだけど、もし迷ったら刺身をぜひ。びっくりするくらい新鮮だから。
……と、こんな感じで平日夜ごはんは基本的にお酒とおつまみオンリー。休日前は飲み過ぎて、翌日グロッキーになることもあった。
そんなときの定番は、三茶カリー ZAZA。すぐ裏の通りにはカレー界では知らぬものはいないシバカリー ワラがあるけれど、二日酔い気味のときは断然「ZAZA」派。我が家のやや遅い「ウコンの力」である。
メニューはチキン、ポーク、ドライの3種類。でも、二日酔いにはドライカレーが効くと思い込んでいるので、だいたいいつもドライに。スパイシーさが特徴的だけど、ピリっとするだけじゃなく鼻いっぱいに野菜やレーズンの甘みが広がる。芳香、はーはー、スプーンが止まらない。
チーズ or 卵トッピングでスパイスとまろやかさの緩急をつけるのもよし
あと、ZAZAはなんといってもお米がおいしいので注目してほしい。むっちりふっくらした千葉県産。カリーライスのライスは、脇役ではないのだ。
スパイス効果でじわりとにじむ汗に化粧を崩し、冷え冷えのラッシーを飲み干したら、ほらもうすっきり。お酒を迎え入れる準備は万端だ。
妊婦時代。謎の食欲を支えた「三茶パン屋大戦争」
妊婦になると、なぜか異常にパンを欲するようになった。ふつうに「好き」だったのが常識外に振り切れた感じ。寝ても覚めてもパン。パン、パン、パン。
そんな小麦中毒を支えるだけのパン屋が、三茶には……いや、茶沢通りにはある。なんとこの一帯に8店舗のパン屋がひしめき、しかもどれもレベルが高い。嗚呼、仁義なきパン屋大戦争。激戦すぎてハラハラしてしまうのは、三茶を愛しているからこそ。「だれにもこの街で失敗してほしくない」と思ってしまうのだ。
茶沢通りに合流する細い裏通りにある。フォントが好き
その中でもミカヅキ堂とnukumukuの2店は、わが子の細胞のそれなりの割合を占めているのでは……というくらい通った。
ミカヅキ堂のパンは、もはやガチの「料理」だ。ソースもカレーもいちいち完成度が高く、「えっパンに使っちゃうの、これ?」とこちらが狼狽してしまう。もちろんパン自体もおいしいので、トータルで戦闘力がめちゃ高い。オープンして少し経ったころ、地元民が日夜集うはす向かいのイタリアン、ヨーロッパ食堂がはじめた店だと知って深く納得した。
茶沢通りはそこそこの坂道
一方のnukumukuは小麦の香りが強烈で、とくに食パンはほかの店とは一線も二線も画していると思う。全体的にかためのパンが多く、ときどき口の中を切っては己の粘膜のひ弱さにうちひしがれる。それでも傷の癒えぬうちにまた食べたくなるほど、滋味深さには中毒性がある。
パンの盛り合わせセット。この量を一人でたいらげていた妊婦時代。こわい
しかし……nukumukuでいちばんおいしいのは2階で食べられる和牛バーガー(1ドリンク付1500円)だと、密かに確信している。つなぎなし、肉厚、レアでジューシー。なんとマヨネーズやケチャップまで手づくりで、ひと口食べるだけで「店主、相当こだわり屋さんだな?」と察してしまう。「専門店のグルメバーガーに負けてなるものか」と、ものすごい気迫を感じる一皿だ。
アメリカンヴィンテージの博物館みたいな店内も必見
はじめてオーダーしたときはその価格を見て「パン屋なのに」とややひるんだけれど、いや、食べてみるとまったくぜいたくじゃない。価格ではなく価値でものごとを捉えられるのが、大人になるということだ。たぶん。
子連れでもおいしいものが食べたいならこの2店
ぶじお腹からリリースした赤子を連れての外食には、いくつものハードルが設けられている。ベビーカーで入れるか、持ち込みでベビーフードをあげてよいか、そもそも幼子が滞在できる雰囲気か……などなど。でも、「おいしい」を犠牲にして妥協したくはない!
そんなワガママを叶えてくれるのが、先ほどのミカヅキ堂の2軒となりにあるCLARK JACK PARLOR。おそらく三茶唯一のシンガポール料理屋だ。
1階にあるためベビーカーでも入店しやすく、ベビーチェアもあり、メニューにも「辛くないのでお子様にも」といった説明文がある。カインドネス!
しかしこの店、やさしいだけじゃない。めっちゃうまい。「もうシンガポール行かなくていいな」と思ってしまう。
ときどき「次はあれを食べよう」と思っていてもまた同じものを頼んでしまう病にかかってしまうことがあるけれど、この店ではラクサヌードルがまさにそれ。「海老のだしとココナッツミルクのビーフンヌードル」の文字だけで香りが口の中で泳ぎ、心を乱す。この日もまた抗えなかった。
夫の海南チキンライスを1歳半の娘にお裾分けしたところ、おいしさのあまり両手を振り回していた。鶏、ぷりっぷりだもんね。
そして、子連れごはんのワガママを叶えてくれるもうひとつのお店がここ。茶沢通りからのびる太子堂商店街、その先にある下の谷商店会にあるほていやは、大正時代からつづく家族経営のおそば屋さん。
ガラガラと音を立てる引き戸。ホール担当三姉妹のなごやかな接客。おしゃべり担当の大女将おばあちゃん。大繁盛ながらせかせかしていない空気。わたしが三茶で——いや、東京でもっとも愛するお店だ。
ビールで喉を潤したら、そば焼酎そば湯割りを片手に田楽を食む。現世の楽園がここに
ほていやは「お子様OK」というより「だれでもOK」な感じがする。おそばをすすりながら競馬新聞を読むおじさん、AIについて議論する若者、「ちゃんと食べなさい!」とてんやわんやの家族連れ——あらゆる人間が等しく気持ちよく共存している感じ。そんな店内を見回すと、「ほていやこそ三軒茶屋である」なんて言葉が浮かんでくる。
納豆そばは、歯ごたえしっかりめのやさしい味。そばも具もたっぷりでなんだかホッとする。気取ったそば屋にありがちな、数口で食べ終わって悲しい気持ちに……ということはないので安心してズルズルすすろう。周りを見るとカレーを食べている人も多い。きっと、だしたっぷりなんだろうな。
常連なんて名乗るのは恥ずかしい。けれど、この街で約100年続くこの店の「これから」に家族全員で参加したい。そう素直に思えるマイ名店だ。
母になっても、ひとり酒
「母であり、飲んべえである」——このふたつは矛盾しない。
子の寝かしつけを夫に任せた日は気が済むまで仕事して、飲む。このひとり時間が明日への活力。三軒茶屋は宵っ張りの街なので、終電近くで帰っても気軽に入れる店が多いのも素敵ポイントだ。そばりあんも、そのひとつ。
おつまみ盛り合わせ。いろんなものをちょっとずつ、は女心をくすぐる
名物の創作ポテトサラダをはじめ、お酒のアテがたのしい。定番メニュー「だし昆布とドライフルーツの佃煮」は、日本酒が向こうから走ってくる逸品。
「大人のエビマヨ」は衣に酒粕を使い、マヨには紹興酒を混ぜて火を通しきらずに仕上げているので子どもはNGかも、と店主談。正真正銘、オーバー20歳のためのエビマヨだ。「おとなのふりかけ」とは違うのだ。
どうしてこんなメニューを思いつくのか尋ねると、「勘ですよー」と謙遜しつつ試行錯誤のプロセスを教えてくれる朗らかな店主。桐谷健太似の声&大阪弁のファンになりそう。
〆は、おそばのカッペリーニ風。だれかの知恵と工夫の結晶をいただくのが、外食の醍醐味のひとつだと思う。
子連れ犬連れ。コーヒー片手にどこまでも
子どもと愛犬。世話のかかる小さきものたちと一緒でも、ふっと一息つくおとなの時間をつくってくれるのが、三軒茶屋と下北沢の中間くらいにあるBeastie Coffee Clubのコーヒーだ。
ピカピカのロースターが目印
深めで香ばしいブレンドを淹れてもらったら、おまけでくれる小さなチョコレートをポケットに忍ばせ歩いて10分、地元ファミリーと犬たちの集まる公園「三宿の森」でまったりするのが定番コース。
汗ばむ季節はエスプレッソ・トニック片手に木陰をさがし、芯から冷える日は、特製シロップのホットコーヒー牛乳で手と口をあたためながら家に帰る。ともかく年中、おじゃましている。立派なClub会員と言えよう。
ここに行くのはコーヒーがおいしいのはもちろん、マスターと交わすちょっとした会話が目的でもある。人生哲学から三軒茶屋ゴシップまで話題は幅広い。洒脱だけど人情派、かっこいいんだけどほのぼのという絶妙なバランスは、このお店の雰囲気そのもの。「店柄」というものがあるとすればそれは人柄なのだな、と毎度しみじみしてしまう。
茶沢通りは、これからも
三軒茶屋は、休日遊びに来たい街とも、住みたい街とも、ディープな街とも言われる。それらがすべて成立してしまうのが、この街のいちばんおもしろいところ。どんな人もまるっと包み込む街、いろんな表情を持つ街。その真ん中を貫いているのが茶沢通りだ、と言わせてほしい。
三軒茶屋は、再開発によって情緒ある(カオスな)街並みが失われてしまうかもしれないと聞いている。それは悲しいし、できれば今のまま雑多な場所であってほしい。
でも街全体がどんな姿になっても、茶沢通りはきっといままでどおり。だれのどんなシーンでも、どんと受け止めてくれるはず。
そう信じて、今日もこの「東京の道」で心と胃袋を満たすのだ。
登場した店一覧
夫婦ごはん
・ニューマルコ
・采
・三茶カリー ZAZA
妊婦パン
・ミカヅキ堂
・nukumuku
子連れ
・CLARK JACK PARLOR
・ほていや
ひとり
・そばりあん
家族全員
・Beastie Coffee Club
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著者:田中裕子
note:https://note.mu/tanakayuko
Twitter:@yukotyu
編集:ツドイ
イラスト:おくやまゆか