ジンクス【坂の記憶】

著: TUGBOAT 麻生哲朗

「都心に住む by SUUMO」で、2009年10月号~2018年1月号まで連載されたTUGBOAT・岡康道氏と麻生哲朗氏による東京の坂道をテーマにした短編小説「坂の記憶」をお届けします。

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 土曜の午後、リニューアルしたばかりのキャピトルホテルのラウンジは、けっこうな混み具合だった。窓の外は青空で、日だまりになった僕たちの窓際のテーブルは、柔らかい光がまわっていて温かい。『ORIGAMI』という名のこのラウンジは、改築以前のこのホテルの看板だったと何かで読んだことがあるけれど、当時のことはよく知らない。今のこのラウンジも、これはこれで心地よい空間だと思った。

 隣に座っている僕の彼女は、仕方ないけど、やはりどこか落ち着かないみたいで、頼んだ紅茶にもあまり口をつけてはいない。「先に注文しちゃいました、でいいじゃない」と、来るまでは先にオーダーする訳にいかないという彼女を制して頼んだその紅茶は、結局少し冷めてしまった。僕はもう、二杯目のコーヒーを飲んでいる。
 午後二時。父と母を待っている。

 父が大学の同窓会に出席するので月末に東京に出てくるというのを、母との電話で聞き、おそるおそる、もし母さんも時間があるなら一緒に来ないかということ、そのときちょっと会ってもらいたい人がいるということを切り出したのが十日前。母はことさら詮索するわけでもなく、「あら、じゃそうしてみようかしら」とさらりと答えた。母らしくてホッとする答え方だった。

 母からこういった話を聞いて、僕に直接は何も言ってこないものの、緊張してしまうのはきっと父で、母はいつだってなぜだか悠然としている。
 後日、東京ではキャピトルホテルに滞在することにしたからという連絡を受けて、そのホテルのラウンジで会うことに決めた。調べてみたらホテルはリニューアルしたばかりの老舗で、そして、場所は日枝神社の隣だった。

 僕は父と母の遅い子どもで、一人っ子だ。定年退職後、父と母は小淵沢に小さな家を買って引っ込んでしまったが、定年まではずっと東京暮らしだった。日枝神社は、そんな東京でずっと子宝に恵まれずにいた、共に三十半ばを過ぎた父と母が参拝に訪れた場所で、そして僕は確かに、その参拝の後、ほどなくしてこの世に生まれた。参拝したであろう数々の神社のなかで、わが家においては決め手になった、大仕事をやってのけてくれた、ありがたい神社ということになる。子どものころ、父から時々、そんな話を聞いた。日枝神社には、男坂と女坂があって、そんなこと誰にも言われてないし、おそらくそういうしきたりもないのだけど、念のため、お父さんは男坂を、お母さんは女坂を別々に歩いて、境内で落ち合って参拝したのが、きっとよかったんじゃないか、という思い出話も、併せて何度も聞いた。

 半ばあきらめかけていたふたりにとっては、少しでも気になることはやっておきたかった、あるいは気になることを残しておきたくなかった、そんな気持ちでいたんじゃないだろうか。女坂は御成坂のなまりで、そもそもが男女という分類ではないという説もあるらしいのだが、たとえその説を当時の父と母が知っていたとしても、やはりふたりは男坂と女坂を、念のために別々に上って、別々に下りておいたんじゃないだろうか。

 僕はとても大切に、そしておそらく比較的上手に育てられたんじゃないかと、思っている。特別な才能はないけれど、あまり卑屈にならずに生きてこれている気がするし、これからもそれは変わらないだろう。あるとしたら、僕もまた子どもに恵まれにくい体質なんじゃないかという漠然とした不安なのだが、彼女に一度、家系的に自分は子どもに恵まれにくいのかもしれないという話をしたら、大丈夫、つくる時間はたっぷりあるじゃないと彼女は笑って、なんだか救われた。どこかまじめすぎる一方で、こんなことはあけすけなくらい笑って言ってしまえる彼女が、僕は好きだ。

 父と母は彼女のことを気に入ってくれるんじゃないかと思う。今日これからも、父が一生懸命盛り上げようとして、彼女がそれに必死で答えようとして、僕は手助けをし、母はそれらを見ている、多少の空回りも含めて、そんなに悪くない時間が流れる気がする。

 日枝神社の隣。両親が今日の場所をここにしたのは、偶然じゃないだろう。

 母は母で、東京時代の友人と夕食の約束をしているらしく、今日は軽くお茶を飲んでお開きだ。そういう予定をあえて入れておくところは、きっと母の、母らしい気遣いだ。お開きになったら、彼女を日枝神社に誘ってみよう。僕たちにはまだ時間がたくさんあるけど、早くて悪いことはない。僕は男坂を上り、彼女は女坂を歩こう。三十年前の父と母と同じように、念のために。

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男坂・女坂(おとこざか・おんなざか)
住所:千代田区永田町、日枝神社の表参道
アクセス:各線溜池山王駅徒歩約3分、各線赤坂見附駅・千代田線国会議事堂前駅徒歩約5分

男坂・女坂は全国各地に存在し、その多くが神社や霊山など神域に至る2つの坂道に命名されている。傾斜がきつく、険しい坂が男坂、傾斜がゆるく比較的登りやすい坂が女坂、というのが一般的だ。山王権現の名で知られ、江戸三大祭りに数えられる山王祭でも有名な日枝神社の男坂(写真)、女坂(右ページ写真)もまた然り。ただし、こちらの女坂にはひとつ「いわれ」がある。山王権現には、江戸時代、徳川幕府の将軍もしばしば参詣した。その際のみ使われたのが現在の女坂だというのである。「将軍がやってくる=将軍がお成になる=御成坂」、それがなまって「女坂」となったという説である。

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著者:麻生 哲朗

あそう・てつろう/株式会社TUGBOAT CMプランナー。1996年株式会社電通入社(クリエーティブ局)。1999年「TUGBOAT」の設立に参加。主な仕事にライフカード「カードの切り方が人生だ」シリーズ、NTTドコモ「ひとりと、ひとつ。」、モバゲーなど。CM以外にも作詞、小説、脚本などに活躍の場を広げている



写真:坂口トモユキ

都心に住む by SUUMO」2011年1月号から転載


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books.spaceshower.jp