乃木坂N.R.【坂の記憶】

著: TUGBOAT 麻生哲朗

「都心に住む by SUUMO」で、2009年10月号~2018年1月号まで連載されたTUGBOAT・岡康道氏と麻生哲朗氏による東京の坂道をテーマにした短編小説「坂の記憶」をお届けします。

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 午後4時。ハンザワさんは、オフィスのボードに「乃木坂N.R.」とマーカーを走らせ、鞄と紙袋を抱えて駅に向かう。N.R.はnoreturn、今日はもう戻りませんという意味だ。東銀座から日比谷線、日比谷で一度乗り換えて千代田線。会社から乃木坂まで、思うほどはかからない。ハンザワさんの勤める会社はセールスプロモーション…というと難しいが、業績の大半をグッズの制作でまかなう、いわゆるオマケ屋さんだ。乃木坂、赤坂、六本木辺りは、芸能事務所、レコード会社が散らばっていて、それらの会社のいくつかは、ハンザワさんのお得意さんだ。

 デザインの専門学校を卒業後、社内デザイナーとして採用されたが、10年をすぎた頃「そろそろ下の連中を取りまとめる役割を頼む」という上司の進言で、営業にまわった。体よく「まわされた」ことはハンザワさんもわかっている。でも自分自身がちょっとデザインに限界を感じていた頃で、渋ることもなくその言葉に乗る形で営業にまわった。もう5年以上前だ。

 デザイナー時代はラフな格好で、昼前に出勤し明け方までパソコンの前という生活だったが、今はすっかり仕事着はスーツだ。転属になった時、余計な出費で奥さんが少しは愚痴るかとハンザワさんは思ったが、デザイナーを卒業させられる夫の複雑な気持ちを思ったのか、奥さんは案外何も言わずに冬のボーナスからスーツ代を出してくれた。ただ正直なところ、奥さんが慮るほどハンザワさんの胸中は複雑ではなくて、少し気持ちが楽になったというのが本音だった。このまま続くのかな…という自分ではどうにもし難い漠然とした不安に、他の人が決着を付けてくれた、「続かないよ」と言ってくれたことに、どこかでホッとしていた。

 乃木坂という駅はあるが、乃木坂という地名はない。乃木神社の前の緩い坂道が正しい乃木坂らしいが、乃木坂という単語を使うときは、その坂を指している訳ではない。みんながその周辺をなんとなく乃木坂と呼び、それでなんとなく成り立っているのだから妙だなとハンザワさんは常々思う。

 乃木坂は、赤坂ではないし、六本木でもない。ミッドタウンができたがミッドタウンはあくまでミッドタウンであって、だから乃木坂はミッドタウンでもない。赤坂周辺の、六本木周辺の、ミッドタウンの近くの…乃木坂だ。

 和歌山出身のハンザワさんには、乃木坂は昔父親が歌っていた歌謡曲の歌詞に出てきた…くらいのイメージしかなかった。そして不思議なのは、こうして仕事で散々乃木坂に通っても、今も乃木坂のそのぼやけたイメージは変わらない。あるようでないようである、ここが乃木坂、というところが見つからない、乃木坂はハンザワさんにとっては今もまだそういうところだ。

 ハンザワさんはどうも正直な人であまり秘密を持たない。奥さんとも意外と仲がいいから比較的何でも話せる。デザイナーとしてやや煮詰まっていた頃、一度だけ奥さんに出張と嘘をついたことがあるが、それもレンタカーを借りてひとりで茨城の方までドライブをした…くらいのことだった。生え抜きの営業ではないし、元がデザイナーだからかお得意さんに対しても駆け引きなどできない。こっちの意見にも先方の意見にも正直。お得意さんの泣き言は真摯すぎるくらい真摯に受け止めてしまう。相手が正直だとなお弱い。

 ハンザワさんはお酒が飲めない。会社もその辺は心得ていて、いわゆるそういう仕事のやり方で、ハンザワさんに新規の客を取ってきてほしいとは思っていない。今のお得意さんとうまくやっていてくれればと思っている。少し飲みにいきましょうかという夜は、ハンザワさんはニコニコとウーロン茶を飲む。接待という名の豪遊もない。「男にはいろいろあるんだよ」と奥さんに妙に誇ったりもしない。

 乃木坂N.R.

 そう書くとき、ハンザワさんは少しだけドキドキする。実体のない街。夜。消えていく男…そんなベールに包まれた演出の効いたフレーズだとハンザワさんは思う。急に自分が謎めいた感じがする。実際は何のことはない夜である安心感が前提なのだが。

 乃木坂を降りて、得意先の会社まで歩く。途中、犬を連れた女性とすれ違う。乃木坂に住んでる女性?そう思うと、ハンザワさんの乃木坂ベールはさらに色濃くなる。この街で、一体どんな暮らしをしてるんだろう?そんなことを少しだけ考えて、また少しだけドキドキしてしまう。

 でもそれも本当に少しだけだ。ハンザワさんは、乃木坂の、いつもの辺りをいつものように歩いていく。ずり下がった紙袋を、脇に抱え直しながら。


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乃木坂(のぎざか)
住所:赤坂通りの港区赤坂8丁目と9丁目の境界、乃木神社前付近
アクセス:千代田線乃木坂駅よりすぐ


乃木坂の名の由来は、坂の側に建つ乃木神社である。乃木神社は、日露戦争最大の激戦、旅順攻防戦の司令官として名を挙げ、明治天皇崩御の後、妻とともに殉死を遂げた陸軍大将・乃木希典を祀った神社。かつて乃木邸があった場所に1923年(大正12年)に建てられた。よって、「乃木坂」の名称自体は比較的、新しいものであり、それ以前は「なだれ坂」「行合坂」「膝折坂」「幽霊坂」などと呼ばれていた(現在でも一応、別称とされている)。ちなみに、この場合の「なだれ」とは、「勾配が強くはないが斜めに傾いている状態」を示す。今も変わらず緩やかな乃木坂らしい命名といえよう。


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著者:麻生 哲朗

あそう・てつろう/株式会社TUGBOAT CMプランナー。1996年株式会社電通入社(クリエーティブ局)。1999年「TUGBOAT」の設立に参加。主な仕事にライフカード「カードの切り方が人生だ」シリーズ、NTTドコモ「ひとりと、ひとつ。」、モバゲーなど。CM以外にも作詞、小説、脚本などに活躍の場を広げている



写真:坂口トモユキ

都心に住む by SUUMO」2010年3月号から転載


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books.spaceshower.jp