時間が、止まる【坂の記憶】

著: TUGBOAT 麻生哲朗

「都心に住む by SUUMO」で、2009年10月号~2018年1月号まで連載されたTUGBOAT・岡康道氏と麻生哲朗氏による東京の坂道をテーマにした短編小説「坂の記憶」をお届けします。

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 オーバカナルのホットドッグは想像より一回り以上大きくて、昼食を食べそびれてはいたものの、小腹を満たすには十分すぎて困った。
 
 妻、正確にはかつての妻との約束の時間は五時で、ホットドッグをなんとか食べ終えてもまだ少し時間はあった。

 冬の終わりのウィークデイ、ランチタイムを過ぎたオープンカフェは有名店とはいえ閑散としていて、誰かと一緒だったり、それなりの装いでプライベートな雰囲気を醸し出せていればまだよかったのかもしれないが、四十に近い、よれたスーツ姿の男が一人でコーヒーをすする姿は、葉を落とした街路樹とその脇の静かなオープンカフェという、スカスカの風景を埋め合わせるには、ずいぶん力不足じゃないだろうかと思った。

 それでも元妻に見つけられやすいことを考えると、やはり屋内よりはテラス席の方が都合はよく、幸いテーブルの脇に置かれたガスストーブのほのかな温かさは心地よく、なにをするでもなくそこから通りを眺めた。鞄の中の文庫は、今朝の通勤電車の中でちょうど読み終えてしまっていた。

 弁慶橋と清水谷を結ぶ目の前の通りの人影は少なかった。向かいの公園は樹木整備の工事中で、重機の騒音が周囲に響いていたが、それがないとむしろもの静かすぎるという気もした。

 時おり目の前を通り過ぎていく人たちは、なんとなく誰もがゆっくりゆっくりと歩いているように見える。人の流れは定かではなく、アトランダムに人影が右左どちらかからふと現れる。赤坂プリンス付近につけられた空車のタクシーの列は、弁慶橋に向いている。 そういえばさっき下ってきた紀尾井坂では、オータニにつけるタクシーが四谷方向を向いていた。どちらが出口でどちらが入り口でもない空間の中にぽつんと置かれた感覚になる。

 近くの空いたテーブルに雀がとまった。都会に雀はたくさんいるのだろうが、こう間近で今の自分と同じようにたたずむ雀は妙に新鮮だった。

 なんだか時間がゆるくかき混ぜられている。人の流れも明快ではない。渋谷や新宿は、駅を背に街に消え行く人の流れと、駅に向かう人の流れがわかりやすい。紀尾井町のこの近辺は、四谷と赤坂どちらの駅の磁場もちょうど弱まり緩くなって、いつの間にか動線が消失し、時間が滞留しているような一画、雀すらそれを感じているような一画なのかもしれない。元妻の都合で、今日の場所はここになった。先週末、珍しく彼女からかかってきた電話で会う約束をした。

 離婚して4年。小学2年生だった娘は来春から中学生になる。離婚の原因はきっと自分にあるのだが、些末な要素をあげつらえても仕方がない。彼女の気持ちは、ほったらかしたコーヒーのようなもので、ただただゆっくりと冷めていき、もう一度温める方法はなく、最後に「もうすっかり冷たいよ」と告げられた、そんなものだった。

 仕事をなぞりながら、同僚との休日と、ひとりの休日と、定期的に会う娘との約束を淡々とこなしているうちに、この4年はすぐに過ぎた。それはつまりその4年間がほとんどなにも動かない、ただ同じ場所で同じ出来事がゆっくりと撹拌されただけの時間だったということなんじゃないだろうか。

 今日の話の内容はもうなんとなくわかっている。おそらく彼女は再婚をする。異論などないし、あっても唱える気などない。この4年、彼女の時間はちゃんと動いていたのだろう。

 この景色の、どこから彼女は現れるんだろう。話はそんなに長くないだろう。こういう話を切り出した時は、あまり長話をすると相手を傷つける、彼女はそう思うタイプの人だ。いつも少しだけ余計に深刻にしたがる。それは優しさと呼べないと僕は思うが、いまさらその価値観を掘り下げるのも無粋だ。僕はそんなことでその場にいるのがつらくて席を立ちたくなるような、デリケートな男ではないのに。

 話し終えた後、彼女はまたこの景色のどこかに消えていく。もちろん僕もだ。まっすぐ帰るには早過ぎ、今日は会社に戻る必要もない。もしかしたらそのままこのカフェで少し飲んでいくかもしれない。帰り道も定かではないこの一画なら、悲しい背中もないだろう。

 久しぶりの会話に、随分似合った場所を選んだものだと思う。彼女はなにかと僕よりセンスが良かった。出会った頃は、彼女のそういう感じが好きだった気がするなと思い出し、笑えた。

 にわかに冷たい風が舞って、雀はもういない。冬空にさらされていつの間にかゆっくりと冷たくなっていたコーヒーを少しだけすすると、工事終了の五時のチャイムが鳴った。

 

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紀尾井坂(きおいざか)
住所:千代田区紀尾井町、上智大学とホテルニューオータニの間の坂道
アクセス:中央線四ツ谷駅徒歩約7分ほか

 

江戸時代、現在の紀尾井坂の周辺には、徳川幕府の御三家のうち、紀州と尾張の両藩、さらに有力大名である彦根藩・井伊氏の屋敷があった。坂の名は、その三氏三藩の頭文字「紀」「尾」「井」が由来である。しかし、坂の名を高めたのは、日本史上に残る「紀尾井坂の変」であろう。1878年(明治11年)、明治維新で活躍した時の内務卿・大久保利通が紀尾井坂下で暗殺されたのだ。実は当時、火災の影響で坂上の赤坂離宮に皇居が移っていたため、紀尾井坂は一時的に政府高官たちが頻繁に通る道となっていた。さらに坂の石垣や木立が暗殺に適していたため、紀尾井坂が襲撃の場所に選ばれたといわれている。

 

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著者:麻生 哲朗

あそう・てつろう/株式会社TUGBOAT CMプランナー。1996年株式会社電通入社(クリエーティブ局)。1999年「TUGBOAT」の設立に参加。主な仕事にライフカード「カードの切り方が人生だ」シリーズ、NTTドコモ「ひとりと、ひとつ。」、モバゲーなど。CM以外にも作詞、小説、脚本などに活躍の場を広げている

 

写真:坂口トモユキ

都心に住む by SUUMO」2010年5月号から転載

 

※特別書き下ろしが2編収録された単行本もSPACE SHOWER BOOKsより発売中。

books.spaceshower.jp