祖母【坂の記憶】

著: TUGBOAT 麻生哲朗

「都心に住む by SUUMO」で、2009年10月号~2018年1月号まで連載されたTUGBOAT・岡康道氏と麻生哲朗氏による東京の坂道をテーマにした短編小説「坂の記憶」をお届けします。

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 地下鉄本郷三丁目で降りて通りに出る。朝から横浜で降っていた雨が、東京でも降っている。ビニール傘を広げ、東大本郷キャンパス内の福武ホールに向かう。日曜日の午後2時前。

 40を過ぎて俳句を始めた。住まいの横浜を拠点とする中堅規模の俳句の会に入った。始めて10年を過ぎたがさしてうまくはならない。それでも続いているのだから、好きは好きなのだろう。今日は合同句会という年に数度の大きい句会で、場所は幹事が東京の会ということもあって、著名な建築家が建てた、その福武ホールの一室ということだった。

 本郷通りを歩き始めてほどなく、左手にはっきりと見覚えがあるような、しかし面影はすっかり薄れているような、雨模様も手伝った、滲んだ景色が見える。私は立ち止まった。道の名前は覚えている。忘れるはずもない、菊坂だ。

 三十数年前、この菊坂から入った路地の一角に、父方の祖母が住んでいた。帰省というのは田舎に帰ることだが、わが家で実家に帰るというのは、この祖母の家を訪ねること、つまり小さな上京をすることだった。

 僕の父はこの菊坂の路地で育ち、東大ではない東京の大学を出た後、親戚のつてで横浜の飲食関係の企業に就職し、そのまま結婚し、家を構えた。だから私も横浜で生まれ、育った。東京よりは大船や逗子が近い、人から聞かれて横浜と答えるのはややはばかられる、かなり奥まった横浜の片隅だ。

 菊坂の祖母の家は借家だった。結局その会社を継いだ父は、おいそれと横浜を離れるわけにはいかず、代わりに何度も横浜で同居するよう祖母に勧めたが、祖母は最後まで首を縦に振らず、戦後からずっと祖父と暮らし続けた菊坂を離れようとはしなかった。

 早くに祖父と死別し、父を筆頭に3人の子どもを育てあげた後から、祖母の青春は始まった。私が物心ついたころの祖母は、コーラス、生け花、ボランティアの朗読、古文書、俳句と、毎日それはそれは忙しく過ごしていた。一度だけ祖母のコーラスの発表会を見に連れて行かれた記憶がある。祖母はどの集まりでもたいがい最年長かそれに次ぐ高齢で、どの人も祖母がまだ元気に参加しているのが励みになるんだと口をそろえた。そんなつながりを大事に、楽しみに生きていた祖母が、たとえ家族と一緒だとしても、またご近所と赤の他人から始めなくてはならない横浜への転居を疎んだのは、なんとなく分かる気がした。祖母はほとんどわが家に遊びにきたことがなかった。いつも祖母は菊坂にいたのだ。

 私は高校卒業後、地元の市立大学に1浪を経て入学したが、高校から大学にかけて、私は時々ひとりで祖母の菊坂の家を訪ねた。祖母の面倒を見るなどの立派な理由はない。高校から浪人にかけては、息子の進路のことでピリピリしている両親の視線から逃れるため、大学生のころは、すっかり横浜の片隅に閉じ込められた生活からしばし抜け出すのに都合が良かったからだ。受験生時代は、都内で模試があり、その前後は祖母の家のほうが集中できると言えば、親は文句を言わなかった。

 実際には、祖母の家を拠点に友人と後楽園でナイター観戦だったり、たまに運任せの馬券を買ってみたり、およそ建設的な過ごし方はしていなかった。

 祖母は僕を特別歓迎する気配もなかったが、煙たがるわけでもなく、終始いたければいつまでもという距離感だった。実際祖母も自分の時間で忙しそうにしていた。ただ夜だけは、ふたりでずっとテレビを見た。祖母はテレビが好きだった。そして私たちは驚くくらい、番組の好みが似ていた。

 やがて私自身が父から会社を受け継ぐことになり、足は菊坂から遠のいていった。それからしばらくして祖母は心筋梗塞で亡くなった。倒れたのはコーラスの練習中で、仲間に囲まれていたことは僕ら家族にはせめてもの救いだった。それはつまりいつもどこか後ろめたかったということだ。

 私にとって祖母はどんな存在だったのか。あるいは祖母にとって、遅れを取り返すように、後半の人生を奔走した祖母にとって、私の存在はなんだったのか。答えは分からない。ただ父から聞いたことがある。初孫だった私が生まれたとき、その報告を電話で聞いた祖母が電話口で「バンザイ」と叫んだのだと。

 祖母はずっと萌黄色の雨傘を大事に使っていた。あのくすんだ黄色を萌黄色というのは、俳句を始めて知った。

 雨の先の菊坂の路地に、萌黄色の雨傘は揺れていない。それを確かめて、二十数年ぶりの菊坂を背にした。

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菊坂
住所:本郷四丁目と五丁目の境界
アクセス:地下鉄各線本郷三丁目駅徒歩すぐ

菊坂は東京の坂のなかでもポピュラーな部類に入るであろう。もとは菊畑だったというこの坂、知名度を上げたのは文豪たちである。東大が至近距離ということもあり、この坂周辺には、過ごした時間には差があるが、明治から大正にかけて実に多くの文士たちが住み、多くのエピソードを残しているだ。例えば石川啄木、宮沢賢治、梶井基次郎、二葉亭四迷、島崎藤村、谷崎潤一郎、樋口一葉……と列挙するだけで日本の近代文学史ができそうなほどである。なかでも樋口一葉については本人が使用していた井戸や通った質屋の建物がいまだ残っているなど、その歴史が大切にされている。

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著者:麻生 哲朗

あそう・てつろう/株式会社TUGBOAT CMプランナー。1996年株式会社電通入社(クリエーティブ局)。1999年「TUGBOAT」の設立に参加。主な仕事にライフカード「カードの切り方が人生だ」シリーズ、NTTドコモ「ひとりと、ひとつ。」、モバゲーなど。CM以外にも作詞、小説、脚本などに活躍の場を広げている



写真:坂口トモユキ

都心に住む by SUUMO」2012年9月号から転載


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books.spaceshower.jp