
俳優の安藤玉恵さんは、東京都荒川区西尾久の出身。2025年5月には、とんかつ屋を営む実家とご家族、育った商店街について軽妙に綴った初エッセイ本『とんかつ屋のたまちゃん』(幻冬舎)を発表しました。安藤さんに、幼少期の記憶や尾久のお気に入りスポット、そして下町の魅力についてお話しいただきました。
「長屋」のような商店街が世界のすべてだった

―― 東京に住んでいても、尾久という地名に聞き馴染みがない人も多いのではないかと思います。安藤さんは荒川区西尾久のご出身ですが、「尾久ってどんなところですか?」と聞かれたらどう答えていますか?
安藤玉恵さん(以下、安藤):「上野の近くです」って言ってます。尾久(おぐ)って西と東があるんですけど、私が住んでいた西尾久は「あらかわ遊園」もある、都電荒川線の小台とか宮ノ前場のあたり。東尾久は、日暮里・舎人ライナーの熊野前駅とか赤土小学校前駅あたりのエリアです。
―― JRの尾久(おく*1)駅や田端駅からも歩ける距離ですよね。
安藤:そうそう、どこに行くにもそこまで遠くなくて。自転車があれば上野や王子にも行けて、生活には全然困らないです。
―― 安藤さんのご実家は、西尾久の宮前商店会にあるとんかつ屋さん「どん平」。幼少期を振り返ってみて、やはり商店街で過ごした時間が特に印象に残っていますか?
安藤:そうですね。尾久って都電の各停留場を起点に、並行して商店街が3つ並んでるんです。宮ノ前から延びる宮前商店会と、小台から延びる小台大通り商店街、それから熊野前から延びる熊野前商店街。
この中で、商店街界の王者といったらもう、ダントツで熊野前商店街なんですよ。ここは田端のほうまで繋がる長い商店街で、私が子どもの頃からお店もすごく多かったし、何といっても毎月5・15・30日には縁日の屋台が出るんです。
―― (地図を眺めながら)今も人通りもお店も多そうなエリアですね。
安藤:小台大通り商店街もその次くらいには大きいんですけど、私が育った宮前商店会だけ百数十メートルくらいしかなくて、すっごく小さいんです(笑)。ただ、うちはこの商店街の真ん中だったから、子どもの頃の私には、ここが世界のすべてでした。
―― 小学校からご実家までも、かなり近かったそうですね。
安藤:三業通り、いわゆるかつての花街が通学路だったので、小学校の帰りにちょっと見番(三業組合の事務所)をのぞいたりして。当時は見番が、浅草の演芸場に出ていく前の芸人さんたちの練習場になってたんです。私は勝手に座敷に上がり込んで、芸人さんたちの漫才を見て「つまんない」ってヤジを飛ばしたりしてました(笑)。「あっち行きなさい」って叱られたこともありました。そんな子どもだから、「かわいいね」なんて誰も言ってくれない(笑)。
―― 芸人さんにヤジを……! 昔から物怖じしない性格だったんでしょうか?
安藤:いやいや、単に生意気だったんですよ。やっぱり実家がお店で親がふたりとも働いてると、自分も自然とお店で過ごすことになるじゃないですか。お店で宿題やったり、テレビでお客さんと一緒に野球を見たり。
そして、うちの商店街は道も狭いから、家のすぐ目の前にまた別のお店屋さんがあるわけです。全員の顔が常に見えてるような状態だと、まあ、目が合った大人には話しかけにいきますよね。「ねえねえ」って(笑)。
―― コンパクトな商店街だからこそ、物理的にも周りの大人と距離が近い環境だったんですね。
安藤:そうだと思います。宮前商店会全体が、長屋にも近い雰囲気だったかもしれないですね。
洋食屋さん、銭湯、あらかわ遊園──下町の暮らしの記憶

―― 地元で特に思い出深いお店や、子どもの頃によく通っていたお店はどこですか?
安藤:たくさんあるんですけど、熊野前の「レストラン山惣」っていう老舗の洋食屋さんには家族とたまに行ってましたね。いまは改装して外観が変わったかもしれないんですけど、日本家屋を洋風にしたすごくすてきな建物だったのもよく覚えてます。
あとは「洋菓子セキヤ」さん。カルピスバターを使ったバターケーキがとにかくおいしいんです。リング型の「グルノーブル」もオススメだけど、私が子どもの頃からずっと食べてたのは「セキヤロール」。これ、中に何も入ってないクリームだけのロールケーキなんですけど、あっさりしてるから意外と2~3人くらいで食べきれちゃうんですよ。……なんか、しゃべってたら興奮してきたな(笑)。ちょっと高座にのぼるみたいにしゃべってもいいですか(身を乗り出しながら)。
―― ぜひぜひ。
安藤:あとね、子どもの頃、うちの周りって銭湯が信じられないくらいたくさんあったんです。私はもっぱら家から近い「宮の湯」に行ってたんですけど、お休みの日はどこに行こうかって悩むくらいだったんですよ。宮の湯は20年くらい前に閉業してしまったけど、いまでも銭湯は多いエリアです。「梅の湯」という老舗の銭湯なんて、リニューアルしてすごくきれいで快適になったし、なんとサウナが無料ですから!
―― サウナが無料とは、通いたくなりますね……! 商店街以外の遊び場は、どのあたりだったんですか?
安藤:桜の季節になると王子方面まで出て、「飛鳥山公園」にもよく行ってました。あと、夏場は「足立の花火」があるので橋を渡って荒川土手まで行ってましたね。土手の目の前で上がるからすごく迫力あるんですよ、あの花火大会。
あとはもちろん、あらかわ遊園にもしょっちゅう行ってました。当時、子どもは入園料無料だったので、広い公園として使ってましたね。いまはふれあいコーナーがあって動物もいる。私、あらかわ遊園が荒川区の中で一番楽しい場所だと思ってます。
―― いまもあらかわ遊園に行かれる機会があるんですね。
安藤:友達の子どもも連れて、ときどき行きますよ。さすがに入場料は上がったけど、アトラクションも小さい子向けで安全だし、未就学児がいる方には本当にオススメです。1日中遊べますから。しかもカピバラともふれあえるんですよ、すごいですよね!
現在は図書館と公園も充実している穴場のエリア

―― いまの尾久は子ども時代と比べて変化を感じる点も大きいですか?
安藤:もう、本当にガラッと変わりました。商店街もどんどん建て替えが進んで、「どん平」の周りが一軒家になったときはさすがに「ああ……」って。知っているお店屋さんがなくなっちゃうのはやっぱり寂しいですけど、いい変化もありますしね。
―― 変化というと、日暮里・舎人ライナーの開通もリアルタイムでご覧になっていたんでしょうか?
安藤:そうですね。東尾久のあたりはもともと、バスしかないエリアだったので、日暮里・舎人ライナーができたのはすごく画期的で。開発に伴って、スーパーとか病院も増えてきて、いまはかなり生活しやすいエリアだと思います。
―― 「住む街」という観点からも尾久はオススメですか?
安藤:特にファミリー層にはすごくいいんじゃないでしょうか。荒川区って、いい図書館が多いんですよ。区内で一番大きい「ゆいの森あらかわ」なんて最高です。イベントができるスペースもカフェもあるし、空間の設計がすばらしくて。「尾久図書館」もすてきですよ。「ひぐらしベーカリー」という、日暮里に本店がある人気のベーカリーカフェも入っていて。そこのスコーンが本当においしいんです。子どもたちがおしゃべりしながら本を読める部屋もあるんです。
あと、「ゆいの森あらかわ」の向かいにある「荒川自然公園」もいいですよ。下水処理施設の上につくられている公園だからすごく広いし、緑地があってスポーツもできて。
―― 公園でいうと、東尾久には「尾久の原公園」もありますよね。
安藤:あそこもよく行ってました。広いからランニングするのにちょうどよくて。お休みの日はシートを敷いてのんびりしてる人たちも多いですよね。いまは「シダレザクラ祭り」で名所にもなってるみたいです。
―― 飲食店もどんどん新しく生まれているエリアですが、お気に入りのお店は?
安藤:新しいお店でいうと、もともと「三角八百屋」の愛称で知られていた八百屋さんの跡地に「おぐセンター」という食堂ができましたね。ここは東京芸大の学生さんの発表の場としても機能しているみたいで、すごくすてきなお店です。
……あと、そのすぐ近くには「天ふじ」という持ち帰り専門の天ぷら屋さんもあるんですけど、私、ここの天丼が大好きで。「天ふじ」の斜め前がさっきお話しした銭湯の「梅の湯」なんですよ。ここの銭湯と同じ敷地内にある「梅京」っていう焼き鳥屋さんもすばらしいですから、ぜひ行ってみてください。
雑多だけれど安心感がある、ディープ東京の魅力

―― 改めて、安藤さんは尾久というエリアの魅力はどこにあると感じていますか?
安藤:何ていうんだろう……私はたぶん、東東京のあの感じが好きなんでしょうね。高校生のときは荻窪の高校まで通っていたので西東京の雰囲気も知ってるんですけど、どうしても東に惹かれちゃうんだと思います。
東ってディープなので、「何がいいの?」って聞かれてもなかなか説明できないんですよね。でも、東東京に長年暮らしてみると、街の雑多な感じとか整いすぎていない感じにだんだんと安心感を覚えるというか。
―― たしかに東東京は、いわゆる下町エリアの空気が色濃く残っていますよね。
安藤:そうそうそう。少しゴチャっとしててね(笑)。上京してくる人に最初にオススメするなら、やっぱり東京の西側なんですよ。生活の便利さはもちろん、いろんな文化的なイベントがあって。世田谷区や杉並区などの公共劇場に行くと、舞台やワークショップなどいろいろな試みが充実していて「うらやましすぎ!」って思います。荒川区にもああいう施設があったらいいなとも思うんですけどね。
でもやっぱり、私は下町の雑多な感じが好きなんです。東東京って他のどの街とも違う、とても個性的な場所だと思います。
―― お話を伺っていると、安藤さんは幼少期から現在に至るまでの尾久の風景を、とても鮮明に記憶しているんですね。
安藤:子どもの頃から20年以上、ずっとしゃべり続けてきたからなんですよ。演劇サークルに入って演劇を始めた大学生の頃から、友達がうちのお店に来てくれるたびに話してたし、お酒が飲める年齢になったら、商店街のスナックにもよく連れていってたし。
演劇の友達に「このお店にこういう人がいたんだよね」「ここでこういう事件があったんだよ」みたいな話はずっとしてきたから、よく覚えてるんです。ひとりで尾久のことを語り継いできました。
―― エッセイ『とんかつ屋のたまちゃん』で尾久の街について書き残せたことについては、どう感じていますか?
安藤:尾久のことを書き残せた、とは自分ではそんなに意識してなかったんです。でも、本の担当編集さんが「この時代の街の風景を個人が書き残すのはすごく大切だし、歴史的にも意味のあることだと思います」と言ってくださって。もしかしたら、数十年後にはけっこう貴重な資料になってるのかもしれないなと思いましたね。
―― ちなみに安藤さんが今後、尾久の街を舞台にした作品をつくるとしたら、どんな作品にしたいですか?
安藤:やっぱりスナックと焼き鳥屋さんは絶対に出したいですよね。当時の商店街の光景を、できればそのままのスケールでリアルに再現したいな。街の様子を当時の私……7歳ぐらいの女の子の視点で描いたら、もしかしたらおもしろいかもしれないですよね。

お話を伺った人:安藤玉恵
東京都出身。Eテレ「未病息災を願います」レギュラー出演中。Bunkamura Production 2025「リア王」東京:2025年10月9日(木)〜」11月3日(月・祝)THEATER MILANO-Za、大阪:2025年11/8(土)~16(日)SkyシアターMBSに出演予定。
Hair&Make up:Eriko Yamamoto / styling:Kei(salon de GAUCHO)
編集:ピース株式会社
*1:※地名としては「おぐ」 JRの駅名は「おく」
