家賃5万円弱のワンルームに住みつづけてうん十年。誰よりも「まち」を愛し、そこで生きるふつうの「ひと」たちを描く千葉在住の小説家、小野寺史宜さんがいちばん住みたいのは銀座。でも、今の家賃ではどうも住めそうにない。自分が現実的に住める街はどこなのか? 条件は家賃5万円、フロトイレ付きワンルーム。東京23区ごとに探し、歩き、レポートしてもらう連載です。
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かつて親戚が住んでいたので、荻窪という地名は知っていた。
ガキのころの僕にとって、東京は、正月に日劇でドリフを観た有楽町と、電気街がある秋葉原と、荻窪の伯母ちゃんが住む荻窪だった。
そんなわけで、第3回の杉並区。
訪ねる町の候補として、荻窪はすんなり出てきた。そこよりは少し家賃が下がることを期待して、西荻窪に決めた。
西荻窪は、JRでは23区西端にある駅だ。
西荻窪、という地名は今はない。西荻を冠する町名は、西荻北と西荻南があるのみ。それがもう何だか愛らしい。西なのか北なのか南なのか。僕は今どこにいるのか。とりあえず、東ではない。それしかわからない。
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駅から徒歩5分。西荻北にある物件を選んだ。5.5畳で4万9000円。条件は無事クリア。
千葉県に住む僕は、正直、23区西部に疎い。西荻窪についても、荻窪と吉祥寺のあいだにある駅、との認識があった程度だ。
でもそこは天下の中央線。降りてみると人は多かった。北口も南口も、駅前にロータリーがない分、にぎわいがダイレクトに迫ってくる。
町全体を知るべく、まずは南口側を歩いた。
区画整理されていて、くねくね道はない。
西荻南の端を直進して二度左折。三度めで少しなかに入って、今度は右折。あとはまた直進で、JRの高架をくぐり、西荻北へ。
そのまま北上し、この企画で初めて図書館に寄った。西荻図書館だ。決して大きくはない。住宅地にあるごく普通の図書館。
3回めにして、何となくわかってきた。23区のいいところはまさにこれ。どこに住んでも図書館が近いのだ。人口が多いので図書館も多い。だからそうなるのだろう。
ちなみに。そこに僕の本は1冊しかなかった。文庫化の際に『東京放浪』と改題された『それは甘くないかなあ、森くん。』だ。といっても、現物はなし。ちょっとうれしいことに、借りられていたのだ。
その執筆のために僕は東京の各町を歩いた。以後、作品によっては町を具体的に書くようになり、そのたびに歩くようにもなった。結果、今もこうして楽しい企画で歩かせてもらっている。その『森くん』が西荻図書館にあったのも何かの縁。
だとしても、1冊。まあ、僕レベルならそんなもの。がんばらなきゃいけない。
図書館を出ると、すぐ先に川があった。善福寺川だ。前回の小岩の江戸川にくらべると細い。川幅は10メートルくらいだろう。橋の長さもそのくらい。
そんな橋にも名前はある。そこは真中橋。東隣にかかる橋は城山橋で、西隣にかかる橋は社橋だという。名前を知れば、その橋への親しみも湧く。親しみが湧けば、風景も変わって見える。町のおもしろいところだ。
さらに北上し、桃井原っぱ公園に着いた。
原っぱって。区立の公園にしては思いきった名前をつけたなぁ。
と思っていたら、本当に原っぱだった。広~い緑地。遊具なし。
人々がそれぞれに好きなことをして遊んでいた。凧揚げをする親子がいた。一人でサッカーのドリブルをする小学生くらいの男子もいた。三人でバレーボールをする中学生くらいの女子もいた。レシーブ、トス、拾える強さのアタック!
前回は川だったが、今回は公園だ。この杉並区立桃井原っぱ公園と、東京都立善福寺公園。方角はちがうが、どちらも物件からは歩いて15分くらい。
その範囲に二つも広い公園があるのはいい。その二つをちょうど一時間くらいでまわれる。ならばまわりましょう。ということで、まわっている。
都市部の公園がいいのは、ある程度まとまった空を見られるから。これは第1回の神保町のときに言った。そして今回は思った。もう一つ公園がいいのは、ある程度大きな木を間近に見られるからだと。
緑もそうだが、僕はさらに茶もほしい。木の幹や枝の茶色だ。木がそばにあると何故か落ちつく。だから喫茶店のテーブルも木がいい。木のテーブルに置かれたカップでコーヒーを飲みたい。
しみじみと木に思いを馳せながら、公園を出て、南下。善福寺川のところへ戻り、物件の場所を確認した。
そう。物件は川の近く。せっかく川が流れているのだから近くに住もう、と考えたのだ。もし部屋の窓から川が眺められるのだとしたらそれはこの上ない贅沢だし。
今回は公園、と言ったそばから川にも触れておく。
この善福寺川がくねくね流れているので、西荻北にはくねくね道もある。川沿いに、歩行者だけが通れる小道があるのだ。自転車は、通れるところもありそうだが、通れないところもありそう。
一応、舗装はされている。川とのあいだにその道を挟み、家々が建てられている。
道は細いが、車は絶対来ないので散歩には向いている。悪くない。23区の道は、歩道がなかったり信号が多かったりで、散歩コースを組むのが大変なのだ。
僕が映画監督なら、犯人追跡シーンにここをつかうかもしれない。犯人は走って逃げ、刑事は走って追うのだ。そこへ通りかかった自転車なんかもうまくつかいたい。二人の刑事に挟まれた犯人が柵を乗り越えて民家を横切る、なんていうのもいい。
と、そこで前半が終了。駅のほうへ戻ってランチとなった。
とんかつ、の文字に誘われて、布袋さんというお店に入った。
が、誘われたはずなのに、メニューを見て、ついカキフライに流れてしまった。生でも揚げてもおいしいカキ。カキに出てこられたら敵わない。
朝4時に起きて3時間書いてから2時間かけての西荻遠征。次いで1時間半の徒歩探索。ご飯は大盛にしますか? と訊かれ、はい、とつい言ってしまった。歳なのに。
揚げものも久しぶりならタルタルソースも久しぶり。大盛でも余裕だった。
食ったからには動く。『ホケツ!』という小説に出てくるみつば高サッカー部員の郷太に僕はそう言わせている。
言わせたからには、著者として動いた。そうはゆっくりせず、後半開始。
また北上。また善福寺川に戻り、そこに沿った小道をくねくねと歩いた。
そして善福寺公園へと到着。
ここも広い。先の原っぱ公園とはちがい、細長く広い。上の池と下の池という二つの池がある。遊具もある。何と、貸ボートまである。冬季休業らしく、この日はやっていなかったが、ボートはいくつも置かれていた。
前回は河川敷の野球場を見て大学生のころにソフトボールをやったことを思いだしたが、今回は大学生のころに河口湖でボートに乗ったことを思いだす。
手漕ぎボートはそれが初めて。僕はうまく漕げなかった。はっきり言えば、ド下手だった。女子の前なのでムチャクチャ恥ずかしかったが、まあ、初心者はこんなものですよ、と全力で平静を装った。
こう漕げばこう進む。それがようやくわかってきたころ。友だちの男二人が乗ったボートが目の前で転覆した。一人が急に立ち上がったせいで、バランスを失ったのだ。
あらま~、と服を着たまま河口湖に落ちていく二人。その光景は今も頭に残っている。おとなしくボートに座っていただけのHくんが、落ちたあと、転覆したボートが底に沈まないよう、どうにか支えながら犬かきふうに泳いでいたその姿も覚えている。
懐かしい。Hくん。いい人だった。そう親しくはなかったが、あまりにも人が好いために気をつかいすぎていつも硬くなるその笑顔と善良という言葉は僕のなかでセットになっている。まさか30年後に杉並区でHくんのことを思いだすとは。もしかしてHくん、この辺りに住んでるとか?
なんてことを考えつつ、善福寺公園を出た。
あとで調べたところによると。善福寺川はこの善福寺池が源だという。杉並区をくねくねと縦横断し、杉並区和田と中野区弥生町の境で神田川と合流する。つまり、杉並区に始まり杉並区に終わる、実に潔い川なのだ。
大きな灯籠と大きな鳥居がある井草八幡宮の小さな富士塚を横目に見ながら、駅のほうへ向かった。
富士塚というのは、富士登山まではできない人たちの信仰欲を満たすためにつくられたものだ。見た目には、地面がこんもりと盛り上がっているだけ。でもそうだと知れば、なるほど富士を模したのか、と思える。そう思えれば、やはり風景は変わって見える。
駅の近くまで来て、どんぐり舎さんという喫茶店で休憩。
店に入ると、僕の好きなセロニアス・モンクのジャズピアノが流れてきて、またもこの地との縁を感じた。
今日はいつものマンデリンでなく、グァテマラを頼んだ。おいしかった。ついでに言うと、テーブルも木だった。
杉並区のこの辺りも、実は僕の小説に出てくる。登場人物が住んでいるわけではない。『今夜』の坪田澄哉(すみや)が制服警官として近くの交番に詰めているのだ。
駅から少し離れると住宅地。でも個人でやっているようなお店がいくつもある。歩いている途中で豆腐屋さんも何軒か見た。専門店で買った豆腐。ノー調味料で食べたい。住んだら買っちゃうだろうな。
西荻窪。穏やかな活気に満ちた町。
好き。
『銀座に住むのはまだ早い』第4回は「北区」へ。2月末更新予定です!
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著者:小野寺史宜(おのでら・ふみのり)
千葉県生まれ。2006年、『裏へ走り蹴り込め』でオール讀物新人賞を受賞。2008年、『ROCKER』でポプラ社小説大賞優秀賞を受賞。『ひと』で2019年本屋大賞2位を受賞。著書は『ひりつく夜の音』、『縁』、『食っちゃ寝て書いて』など多数。エッセイ集『わたしの好きな街』(監修:SUUMOタウン編集部)では銀座について執筆した。
写真提供:著者
編集:天野 潤平