Hi-STANDARD 難波章浩が歩んだ街──中野で生まれ、下北沢で鳴らし、いま浅草と新潟の2拠点へ

インタビューと文章: 榎並紀行(やじろべえ) 写真: 小野奈那子

1990年代に日本のパンク・ロックシーンを牽引し、今も絶大な影響力を誇るHi-STANDARD、そしてNAMBA69のフロントマンである難波章浩さん。東京の中野で生まれ、ある日突然、家族で移り住んだ新潟。そこでパンクロックと出会い、音楽の道へと進みます。

下北沢のライブハウスを拠点に、自ら立ち上げたイベント「AIR JAM」で数万人を熱狂させた難波さん。その後、沖縄での休息を経て、現在は浅草と新潟の2拠点生活へ。新潟と東京を行き来しながら、音楽活動、ラーメン店オーナー、新潟市西蒲区のPR大使と、さまざまな活動を続けています。

車に乗せられて降り立った新潟でパンクに出会い、下北沢で時代をつくり、今は浅草と新潟を行き来する──。過ごしてきた街の記憶をたどりながら、走り続ける難波さんの原動力に迫りました。

カエルが友達だった少年時代。東京・中野から新潟へ

── 難波さんは東京の中野区でお生まれになったそうですね。

難波章浩さん(以降、難波):そうですね、中野区の鷺宮(さぎのみや)というところです。当時の鷺宮はまだそんなに都会でもなくて、僕の住んでいた近所には畑もあったりして、のどかな感じだったと思うんですよ。景色自体はそこまで鮮明には覚えていないんですけど、でもやっぱり新宿とかも近いですし、親に連れられてそれなりに都会をプラプラしていたイメージはありますね。

── そこから小学校1年生になるタイミングで、新潟県の田上町へ引越しされたと伺っています。東京から急に環境が変わって、ギャップも大きかったのではないでしょうか。

難波:実は、親から前もって「引越すぞ」って告げられていなかったんですよ。ある日突然、車に乗せられて……。新潟の地名なんてわからないし、行き先も告げられないまま、気がついたらすごくのどかなところに行ったんです。そこが父の生まれ育った新潟の田上町で、着いたのは祖母の家だったんですよ。

── なんとも急な展開ですね。

難波:それまでの友達にさよならも言えないまま、いきなり田上小学校に入ることになりました。訳がわからなかったですね。田上町を嫌いではないけど、景色が変わること、環境が変わることのショックがでかくて。しばらくは友達もできなかったんじゃないかな。新しい土地に慣れるまで結構時間がかかった気がします。

しばらくは一人で遊んでいました。裏山で池のおたまじゃくしを見つけたり、木になっている木苺みたいなものを採ったり、カエルやモグラの穴を見つけたりして。そういう自然の生き物に直接触れることが初めてだったから「すごいなー!」って、めちゃくちゃ興味が湧いたんですよ。

(カエルやモグラ以外の)新潟で初めての人間の友達は、近所に住んでいた足の不自由な車椅子の男の子。田上町は起伏が激しかったから一人で学校に行けない彼を毎朝迎えに行き、車椅子を押して一緒に学校へ通うようになったんです。そこからだんだんと土地に溶け込んでいきましたね。

ただ、田上町にいたのは1年だけで、小2でまた新潟市内へ引越しをします。

── せっかく慣れたのに。

難波:そうなんです。今度は新潟の海側の小学校に行くことになりました。しかも、クラスに数名しかいなかった田上小学校から、1クラスに30人ほどもいて1学年10クラスくらいあるような、ものすごい人数のところにいきなり行くことになって。

そこからはいろいろ活発になって、友達もたくさんつくりましたね。それまで友達だったカエルたちがいなくなっちゃったんで(笑)。

新しい学校ではスポーツに目覚めました。「運動で目立てるんだ」と気づいて走り回っていたら、小3の時にサッカー部の顧問の先生からスカウトされたんです。

「君は足が速いし、サッカーやった方がいいよ」と言われて小4からサッカー部に入り、そこからはサッカー漬け。『キャプテン翼』の全盛期だったから「ボールが友達」状態でした。サッカーチームの仲間だけでつるむようになって、小学校時代が一番面白かったですね。

音楽が人生を変えた日。パンクに衝き動かされ上京、そしてハイスタへ

── そこから高校までずっとサッカーを?

難波:中学生になって少しサッカー熱が冷めたんですけど、他にやることがなかったから続けました。でも、中3の文化祭で大きな転機があったんです。学校の体育館でギターを弾いて演奏する機会があって、それがめちゃくちゃ面白かった。

サッカーは毎日走って頑張らないといけないのに、ギターはちょっとジャーンって弾いただけで、一瞬にして周りのみんなが「うおーすげえ!」って喜んでくれた。衝撃でしたね。「音楽ってこんなに人を喜ばせることができるんだ」って。

その後、進学した高校がグラウンドのない学校で、アスファルトのテニスコートでサッカーをやらなきゃいけなかったので「これはもうサッカーはないな」と思って高2で辞めました。

── パンクロックに出会ったのも、その頃ですか?

難波:サッカーを辞めて「これから人生どうすんの」ってなっていた時に、やっぱり「音楽は楽しかったよなぁ」って。そこで目覚めたのがパンクロックでした。

友達に3つ上のお兄ちゃんがいて、セックス・ピストルズやザ・クラッシュをリアルタイムで聴いている“パンク世代”だったんです。彼の家が溜まり場になって、学校も行かずにみんなで入り浸って楽器を弾いていました。

当時の情報源は『宝島』と『DOLL MAGAZINE』っていう雑誌だけで、インターネットもない時代ですから、雑誌を見てみんなでレコードを取り寄せたりして。僕らバイカーでもあったんで、バイクを改造しながらバンドもやる仲間たちでした。傍から見たら金髪にブーツ履いて、いかにも「ヤバい奴ら」だったと思うんですけど、あの環境があったのは僕にとってラッキーでした。

当時、新潟のライブハウスにはブレイク前のX(X JAPAN)やLAUGHIN' NOSE(ラフィン・ノーズ)、KENZI & THE TRIPSなんかがツアーで来てくれて、その度に足を運びましたよ。そのうち自分たちでもバンドを組んで、「WOODY」(現Live Spot WOODY)っていう地元のライブハウスに出るようになりました。高3の頃には地元で100〜150人くらい呼べるようになっていて「このままバンドやりたい」と思うようになっていましたね。

── 実際、高校卒業後は音楽をやるために東京へ上京されました。

難波:名目上は「進学のため」だったんですけどね。高校は進学校でしたが、僕は「バンドで東京に出たい。勉強しないで生きていきたい」って思っていたんです。でも周りにそんな奴はいなかったし、母親に相談したら「バンドで生きてけんのか!」って一晩中泣かれちゃって。

それでも、「大学に進むなら東京へ行ってもいい」と言われたので、高3の夏休み以降からガーッとめちゃくちゃ勉強して。なんとか引っかかるところに受かって、東京に行くことになりました。

── 大学に入ってしまいさえすれば、音楽に思いっきり没頭できると。

難波:気持ちとしてはそうでしたね。実際、上京して大学の音楽サークルに入って、そこで出会った人たちとの繋がりでライブハウスに出られるようになったんです。

「東京でバンドでいい感じになるには、ライブハウスでバイトするのが一番いいんじゃないか」と思って、下北沢の「屋根裏」ってライブハウスでバイトも始めました。そこで同じくバイトをしていたのが、横山健です。その頃ちょうど自分のバンドが解散したタイミングだったこともあり、一緒にやろうかと。そして、Hi-STANDARD結成へとつながっていきました。

結成当時の写真(難波章浩 Instagramより)

結果的に、大学に行ったことは正解だったと思います。大学生で時間がたっぷりあったからこそ、いろんなバイトをしていろんな人と出会えた。

当時、一緒に新潟から出てきたバンド仲間は、いきなり就職したり働くことで精一杯になっちゃってバンドができなくなり、新潟に戻っていく人が多かったので、僕は本当にラッキーだった。進学を進めてくれた母には感謝しかないですね。

「下北沢こそ世界の中心」。中野での再会からAIR JAMの熱狂まで

── 上京後に住んだ街はどんなところでしたか?

難波:埼玉と板橋にあった大学のキャンパス近くに2年ずつ住んだあと、卒業して中野に移りました。一度、自分が生まれ育った街がどうなっているのか、この目で見てみたくて。ワンルームのアパートに3年くらい、ちょうどHi-STANDARDが始まる頃です。

昔あった畑が全然なくなっていて、「こんなに変わっちゃうんだ」と思いましたね。でも、「あ、この公園よく行ったな」とか、家族で住んでいたアパートの場所に行ってみたりしながら、子どもの頃を思い出していました。やっぱり育ったところってなんかいいですよね。いまだに中野にはたまに行きますよ。

── 中野時代のエピソードで印象に残っていることはありますか?

難波:中野で相当いろんなアルバイトをしたんですけど、とんかつ屋さんでバイトしていたおかげで、ツネちゃん(Hi-STANDARDドラムスの恒岡章)と仲良くなれたんです。

── ドラムの恒岡さんとは、この中野時代に出会われたんですね。

難波:そうです。最初、ツネちゃんはあまりバンドに入りたがらなかったんですけど、当時お金を持っていなかった彼にとんかつを食べさせて“餌付け”しました(笑)。

それから家がなく、ボロいワーゲンに住んでいたツネちゃんにシャワーを貸して、寝泊まりもさせてあげた。そしたらだいぶ懐いてきて、リハーサルにもちゃんと来るようになりました。

── Hi-STANDARD結成後は、バンドの拠点だった下北沢に移られたんですよね。

難波:ハイスタが始まってからはずっと下北沢周辺でしたね。僕らは「屋根裏」のバンドだったんで、上の階のスタジオで曲をつくってリハーサルをしていました。

ただ、ライブに人を集めようにも当時はネットがないからフライヤーを配るしかなくて、他のバンドのライブから出てくるお客さんを狙って配っていました。打ち上げはお金がないから「餃子の王将」か、「にしんば」っていうおいしい居酒屋によく行っていましたね。

当時の下北沢には、THEE MICHELLE GUN ELEPHANTとか同世代のバンドがたくさんいて、とても刺激的で。下北沢こそ世界の中心だと信じて疑わなかった。

「CLUB251」や「SHELTER」といった、キャパ250〜400人くらいのライブハウスがいっぱいになれば、自分たちの中では「成功した」「全国区になった」って思えるような、ものすごく熱い場所でした。実際はアンダーグラウンドだったかもしれないけど、あの時、あそこにいたことが本当に大事なポイントだったと思います。

── 実際、そこからHi-STANDARDはどんどん大きくなっていきました。そして、1997年にはハイスタが中心となって、音楽とストリートカルチャーを融合させたライブイベント「AIR JAM」を開催します。ライブハウスを中心に活動していたバンドだけが出演し、初回から回を重ねるごとに規模を拡大させ、2000年には約3万5千人を動員しています。

AIR JAM 2000の様子 Photo by TEPPEI KISHIDA

難波:AIR JAMを始めたきっかけは、当時スタンディングでできる大きなライブハウスが赤坂BLITZくらいしかなくて、ハイスタのチケットが早い者勝ちで瞬殺になっちゃったからなんです。

チケットが取れずにダフ屋が現れて、ライブハウスの周りに「チケットください」って紙を持った人が溢れる光景を見て、「これ、みんなに見せるにはどうすればいいんだろう」と。

でも、席があるホールではやりたくない。だったら野外で1万5000人集めれば大丈夫だろう、どうせなら友達のバンドも見てもらいたいなって。それがAIR JAMの始まりです。でもそれもすぐチケットがなくなっちゃって、最終的には倍のキャパになっていくんですけど。

でも、そのあたりからメンバーみんなが疲弊していきました。当時はCDの制作も興行も自分たちでやっていたし、目まぐるしい変化にもついていけなくて、3人とも疲れ切っちゃったんですよね。

絶頂での休止。たどり着いた下町・浅草

── 売上も動員も頂点にありながら、限界が近づいていたんですね。そして2000年、絶頂期のさなかにハイスタは活動休止となり、難波さんは30歳で沖縄へ移住されます。

難波:僕にとって東京は「バンドをやるための街」だったから、活動休止になってバンドができないのに大都会にいても面白くなくて。

「じゃあどこに行こうか」と思った時、新潟に戻るのは「東京でうまくいかなくてUターンするやつ」みたいで嫌だったんです。僕は前進したかったし、いつかファンの前に戻ってくるつもりだったから、日本にいながら海外っぽく客観的に距離を保てる場所を探して、沖縄に行きました。

── 沖縄では8年過ごされた後、38歳で新潟と浅草の2拠点生活を始められます。そのきっかけは何だったのでしょうか。

難波:沖縄には長くいるつもりはなかったんですが、ハイスタの活動休止が長引いちゃって。そろそろ戻りたいなと思っていた時に、新潟にいる父から母が病であまり調子が良くないと。父も弱音を吐いていたので、「だったらそばにいてあげたいな」と思いました。

その頃、ちょうどデジタル革命というか、ネット環境が整い始めていたので、「地方に住みながら東京で仕事をする」というのをやってみようと思ったんです。先駆者になって、どこに住んでも仕事になるんだという希望をみんなに持ってもらえたらいいなって。

── 東京側の拠点を馴染みのある下北沢ではなく、浅草にされた理由は?

難波:下北沢や新宿方面に戻ってしまうと、また同じことを繰り返して疲れてしまう気がしたんです。沖縄に行って価値観が変わった自分が、のびのびいられる場所を探してふらっと浅草に行ってみたら、すごく空気が良くて。

浅草っていわゆる下町で、地域で子どもを見守っているような温かさが心地よかった。観光地だと思っていたけど、住んでみると病院も学校もスーパーも全部歩いて行ける距離にギュッと詰まっていて、ものすごく住みやすかったですね。

浅草の三社祭にも参加(難波章浩 Instagramより)

あとは、祭りも大きな魅力ですね。僕も三社祭に参加したんですが、古くからある伝統や文化を街の皆で大切にしているのも暮らしていて感じています。

新潟の食を継ぎ、苗場へ凱旋。難波章浩が地元に返すもの

── 新潟では、「新潟ラーメン なみ福」というお店も始められました。その背景には、高校時代から通われていた地元のラーメン屋「楽久」さんへの思いがあるそうですね。

難波:はい。新潟には「あっさり醤油ラーメン」というジャンルがあって、「楽久」はその名店の一つでした。僕は高校時代からバンド仲間と週に2、3回通っていて。「楽久」の女将さんが19年かけてつくり上げた、あっさりしているのに深みのあるスープは唯一無二の味だったんです。

女将さんも音楽好きで、ハイスタのライブにも何度も足を運んでくれました。お店のカウンター越しに音楽の話をするくらい、仲良くさせてもらっていましたね。

ただ、ある日、「後継ぎがいなくてお店を畳もうかと思ってる」と言われて、「マジか! このラーメンがなくなったら俺もヤバい!」と。それで半年後くらいに「僕にやらせてください。料理できる人を連れてくるので味を伝授してもらえませんか」と直談判したんです。最初は「あんたバンドがあるんだから無理よ」って断られましたけど、とにかくお願いし倒しました。

── そして、新潟の角田浜という場所に「なみ福」をオープンさせます。街の中心部ではなく、海辺の人通りが少ない場所にお店を開いたのはなぜですか?

難波:角田浜は昔、海水浴客でにぎわっていた場所です。ただ、徐々に人が減り、海辺にたくさんあった「浜茶屋」という海の家も継承者不在でどんどんなくなっているという状況でした。

新潟ラーメン なみ福 角田浜本店(難波章浩 Instagramより)

そういう文化や建物を残したいという思いもありましたね。そこで、もともとは浜茶屋だった建物を使って、ラーメン屋をやろうと。

なみ福のラーメンと半チャーハン(「なみ福」提供写真)

── 難波さんは新潟市西蒲区のPR大使も務めていらっしゃいますが、浜茶屋のような新潟の古くからの文化を継承したのも「地元を盛り上げたい」という思いから来ているのでしょうか?

難波:そんな大層なことではないんですけどね。ただ、僕らより下の世代の人たちが今、新潟の農作物や産業を守ろうとすごく頑張っているんです。僕は街のシャッター街問題までは手が回らないけど、そういうのどかな地域のいいものを残そうとしている人たちを応援する側に回りたいという気持ちはあります。

── では、あらためて難波さんが思う新潟の魅力を教えてください。

難波:まずは「食」ですね。新潟の人っておいしい食材を食べて育っているから味覚が鋭くて、どのお店に入っても大体おいしいんですよ。農作物のレベルもすごく高くて、世界に通用するものがたくさんあります。特にお米と果物。桃もスイカもル レクチェ(西洋梨)も、めちゃくちゃおいしい。

難波さん自ら桃を収穫(難波章浩 Instagramより)

ちなみに、「なみ福」のチャーハンには田上町産のコシヒカリなどを使っていますし、佐藤農園さんの桃をスイーツにして出したりもしています。

ただ、新潟の人はPRがあまり得意じゃなくて、そのおいしさが全国に知られていないんですよね。だからこそ、僕がPR大使などを通じて少しでも恩返しができたらと思っています。

── ちなみに、浅草と新潟以外に住んでみたい街はありますか?

2025年6月9日ロックの日に「なみ福 浅草店」をオープン

難波:うーん、ないですね。今の新潟と東京の距離感がちょうどいいんです。新幹線で2時間、あの山を越える瞬間に僕の中で毎回「スイッチ」が入れ替わって、どっちの街にいてもすごく楽しく過ごせる。

新潟で見つけた食材や作物を浅草に持っていって提供したり、新潟でつくった曲を東京のライブハウスで披露したり。そういうのも、なんかいいですよね。これからも、この行ったり来たりをずっと繰り返していきたいと思っています。

(難波章浩 Instagramより)

── この夏(※2026年7月に取材)には、Hi-STANDARDとして27年ぶりに「FUJI ROCK FESTIVAL」へ出演されます。会場は新潟県湯沢町の苗場。難波さんにとっては地元への凱旋ということもあり、特別な思いがあるのではないでしょうか。

難波:フジロックって最初は山梨でやっていたから「フジ(富士)」なんだけど、1999年からはずっと苗場。だから僕にとっては「ナエバロック」なんですよ(笑)。だからこそ、思い入れも強くて。

27年前に出た時は一生忘れない1日になりましたし、今こうして新潟と東京に住んでいる僕が、復活したハイスタとしてまたあのステージに出られるのは本当に感慨深いです。勝手に「新潟代表」のつもりで、いいライブをしたいですね。

お話を伺った人:難波章浩(なんばあきひろ)さん

1970年6月9日生まれ。パンクバンド Hi-STANDARD、NAMBA69のボーカル・ベース担当。東京都中野区で生まれ、新潟県新潟市で育つ。地元新潟市の閉店するラーメン店の伝説の味を仲間と共に継承し、西蒲区角田浜の築60年の浜茶屋を甦らせ、2022年9月にラーメン店をオープン。

聞き手:榎並紀行(やじろべえ)(えなみ のりゆき)

榎並紀行さん

編集者・ライター。水道橋の編集プロダクション「やじろべえ」代表。「SUUMO」をはじめとする住まい・暮らし系のメディア、グルメ、旅行、ビジネス、マネー系の取材記事・インタビュー記事などを手掛けます。
X(旧Twitter): @noriyukienami
WEBサイト: 50歳までにしたい100のコト

編集:はてな編集部
撮影:小野奈那子