「公平」よりも「上品」よりも、粋なものが大阪・三国にはあった

 著:太田尚樹

 

「みんな違って、みんないい」という言葉は、個性を平らな更地にならすようで嫌いだ。

なかなか埋め方が分からず、長く呆然と見つめ続けてきた心の穴も、これだけはと育ててきた自分の持ち味も、「それもありですよね」と一蹴された気になる。

 

「てか、みんな違って、みんなキショくない!?」

 

ある日、みしぇうという悪友が言った。

僕と彼は、LGBTエンタメユニット「やる気あり美」なるものに所属している。

この言葉を聞いたときは、笑ったし大きく膝を打った。

 

その日僕らは、要は「ゲイなんて気持ち悪い」ということが書かれた、巻物みたいに長いヘイトメールを受け取ったところで、先の言葉は、それを受けてみしぇうが何気なく言った一言だった。

 

当然「ゲイはキショい」なんて思っていないし、言いたいわけではない。

ただ、そもそも人間なんてろくでもないわけで、その考え方は、僕の性に合った。

誰もが人には言えないズレを持っていたり、それ以前に、自分のズレを自覚することが難しかったりする。

 

でも、だからこそ人間は他人のもつ些細な光が希望になる日があるわけで、手を取り合い、補い合うことの価値を実感できるのだ。「みんなキショい」は、逆説的に僕らの尊さ、なんなら美しさまで表現しているんじゃないか、とさえ僕は思っている。

 

 

 

町内対抗戦をしがちな街に生まれて

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ただ、こんなヒリヒリする言葉がすぐに身体に馴染んだのは、僕の骨肉が大阪「三国」という、雑多な下町で育ったからだと思っている。

大阪の中心部から電車でたった7分のこの街には、大阪を支える淀川から分岐した神崎川があり、大正時代には、水利・交通の便がよかったことから工場が立ち並んで第二次産業が栄えた。

そこで働く工夫たちが多種多様な商店を建てたことがこの街の活気の源流となり、長くそのにぎわいが受け継がれてきた。僕がこの街で過ごしたのは、小6の春までだ。

 

家は、スナックがひしめく通りにあった(僕は酔ってうかれたおじさんの歌声を子守唄にして眠った)。

そのすぐ隣は、夕方子どもでごった返す駄菓子屋通りで、二つの通りの間には、朝イキイキと開く魚屋がある。当時の三国は、異世界が隣り合わせることが当たり前だったのだ。

魚屋を背にして15秒細い筋を走れば、活気づいた商店街にもぐり込める。

 

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商店街は、地面のタイルの色がそうだったからか全体的に黄色い印象で、街の雰囲気をよく表していた。

八百屋のおじさんが元気に客引きをし、肉屋は看板メニューのコロッケを売りに集客していた。豆腐屋の大きな水槽には子どもたちがみなワクワクしたし、たこ焼き屋は好みで選べるほど店舗数があった。

夕方には行き交う人でごった返す商店街には、よれよれの身なりをした人もいたし、見るからにお金持ちそうな人もいた。

 

三国には、あんな人もこんな人も、みんなが暮らしていた。

 

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「花と緑と水、どこにあんねん」と何万回つっこんだか分からない。「サンティフルみくに」こと三国新道商店街

この街がすごいのは、そんなみんなが一堂に会して行われるイベントがたくさんあったことだ。

年に一度、商店街のみなさんが子どものために開催するお祭は、子どもながらに僕らを楽しませようという気概を感じたし、町内対抗綱引き大会は、うちの町内会が僕が小5のときに優勝して、親たちが抱き合ってあまりに泣くからひいた。

 

とりわけ僕が覚えているのは、町内対抗運動会での一コマだ(どれだけ対抗するんだよ)。

運動会だけに顔を出し、毎年無料の弁当を食べまくる家族連れがいたのだが、「まあまあ、お腹すいてる人が食べたらよろしいやん!」と笑って周囲を宥(なだ)めるおばさんがいて、とてもかっこよかった。

 


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「町内対抗」は、いつも三国中学校のグラウンドで行われた

あの日々を思い出すと、「不公平」とか「非常識」という言葉を掲げ、日々自らの手で怒りのスイッチを押してしまっている今の自分がアホくさく思えてくる。本当に許せないことなんて、実はそんなにないのだ。

バラバラな人が共に暮らし、「まあまあ」というかけ声なしにはやっていけなかった三国という街は、ちょっとやそっとで人を非難するべきではないという、人生の基本を僕に教えてくれた。

 

きっとそこには、都会に慣れきってしまった今の僕では驚いてしまうような面倒くさい付き合いとか、妥協がたくさんあったのだろう。けど僕はもし子どもを持つことがあれば、我慢してでもああいう街で育てたいと思う。

三国で大きくなったから、僕は人と過ごす楽しみを知り、また誰かと出会いたいと、期待して生きる大人になれたのだ。

 

 

 

「下品」のやさしさ

僕が約12年の三国ライフで一番刺激を受けたのは、ゆきという同級生だった。ゆきは両親の離婚を機に、小4のとき母親について遠くから引越してきた女の子で、黙っているとキリッとした色白の美人だが、喋るとしわをつくって笑う、活発な子だった。そして見るからにヤンキー予備軍だった。

 

あのころクラスのみんなはまだ幼かったため、進路がヤンキーであるかどうかは分からない子がほとんどだった。

その中でいち早く確定させたゆきは、つまり大人びていたのだ。

背がすらりと高く、髪は茶髪。

彼女には、ことある毎に「かっこいいお母さんになるねん」と宣言する癖があって、遠くを見ているその目からは孤独感のようなものを漂わせることに成功していた。

そして極めつけに、ゆきは小5になるころには、いちはやくエッチな話に明るかったのだ(なんてことだ!)。

 

のちに「ジェンダー」という脅威になって僕を苦しめることになる「性」というテーマは、まだすんでの所で男女の分断を生んでおらず、当時は、先んじて興味をもった者たちだけが知る、宝島伝説のようだった。

ゆきはその伝説をまるでご近所さんの噂話かのように扱う、何もかも一歩先を行く子だった。

 


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よくゆきと行った三国公園。僕らもタイヤにまたがっておしゃべりした

僕には彼女の忘れられない所作がある。「おおたぁ〜♡」と駆け寄り、僕の袖を掴む一連の動きだ。

彼女はだいたい昼からしか登校してこず、教室に着くと入り口で僕の名を呼び、走ってきた。

大抵つまらない報告がセットだったが、別にそれさえない日もある。

ちなみに「おおたぁ〜♡」のアクセントは、二個目の「お」があがり、最後の「たぁ〜」はとてももったいぶった言い方が正解だ。

 

「おっそ!」

「え、今日って昼からじゃないん!?」ゆきは袖をグイグイと引っぱり身を寄せる。

「それ昨日も言うとったやん!」僕は振り払い、ゆきは大きく口をあけて笑う。そして他の友達に絡みにいく。

 

これが毎日繰り広げられた。

ゆきは、誤解を恐れずに言ってしまえば、”オネエ”みたいな所がある子だった。

小4にして「ませている」という雰囲気を飛び越えて、色気の気配があり、なのに色気を徹底的に排したところで笑いをとれる子だった(例えば、男子と流行りの漫才師のマネをしておどけたり、しかも絶妙に声が枯れていた)。

そんなゆきの「おおたぁ〜♡」は、ハッキリ言うととても下品だった。

 


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あんな同級生も、こんな同級生も、この校舎に入れば一緒だった

でも彼女には、下品だからこそ、上には決して立たない、だれも蹴落とさないような温もりがあった。

事実、彼女はクラスの誰に対しても優しかったし、つまらないことを囃し立てたりもしない人だった(たとえば「うんこ」なんて、自分から「行ってきま〜す」と言うタイプだった)。

そんな彼女は、当然のようにみんなから愛されていた。

 

僕はこの歳になっても、なにかと上品であることを良しとし、結果、上品”風”なだけの人がはちゃめちゃに嫌いだ。

だって「品」の正体を見極めることはとても難いうえ、見極めたところで、何の役にも立たないことがあるからだ。

「下品」も「上品」も大事なのは使いどころだ。僕はあの決してキレイとは言えない街から、そしてゆきから、そのことを教わった。 

 

 

 

「みんな」のいた街が、「男と女」の街になって

話は変わるが、僕は日々「笑い」を大事にして生きている。自分自身、できればガハハといつでも笑っていたいし、隙あらば人を笑わせたい。

それはもちろん単純に「笑い」が肌にあって楽しいからなのだが、ただ消費するだけではなく、できれば生産する側でもいたいと思うのは、「笑い」への憧れと敬意があるからだ。僕には「笑い」に救われた経験がある。

 

それは小5の秋だった。これまでも話してきた通り、三国にはいろんな人がいて、みんながうまく手を取り合っていた。

例えば僕の幼なじみの一人であるゆっくんは、お父さんがどこかの銀行の偉い人で、いつもボタンダウンにベストという出で立ちだったが、もう一人の幼なじみの木原は、年中Tシャツな上、そのどれもが伸びきっていて、どちらかと言うとTシャツ型をした布切れだった。

まったく違う僕らは、「みんないる三国」という多様性共生社会に所属し、ときにはケンカもしながら、三国を楽しみつくす同士だった。

 

でも小5の秋ごろから、明らかに空気が変わった。

それは決して分かりやすいものではなく、そして誰かが意図的につくり出したものでもなかった。

自然とみんなの雰囲気が変わったような、匂いが変わったような、ハッキリとは説明しがたい風向きの変化が起きたのだ。

 

なんとか分かりやすい変化をあげるならば、女子たちが「リョウオモイ」ではなく「ツキアウ」という形態を望むようになったし、男子たちは、やたらと“カマキリ”と呼ばれた自転車に乗りたがるようになった(あれはなんだったんだ)。

 

つまり、今まで「みんな」でしかなかったクラスメイトたちが、続々と「男と女」になり始めたのだ。

男子の中では声変わりが始まった子もいたが、それを弄るようなこともなく、みんな「そろそろっすもんね」とでも言いたげな顔をしていた。

その反応からは戸惑いが漏れ出ていたが、彼らのそれは、これからの期待感を感じさせるような、高揚感をはらむもので、僕の戸惑いはまったくピンときていない、右往左往する人のそれだった。

 

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「男と女の街、三国」の誕生以降、僕は誰といても居心地が悪いような、相手にされていないような気持ちを抱えるようになった。

どちらかというとクラスの中心にいた僕は、そのことに人知れず傷つき、これからどうすればいいのか、不安を感じた。

はたして僕は「男」というものを通れる日がくるのだろうか。通りたいと思えるのだろうか。もし通れないとしたら、僕はどうやって大人になれるのだろう。どうしたらいいんだろう。そう静かに途方に暮れているとき、「ごっつええ感じ」に出会った。

 

 

Laughter in the Dark

紹介してくれたのは、「男と女」が増殖しはじめた街で、僕と同じく変化がなく、そしてそのことを何も気に留めるそぶりを見せていなかった、まさきだ。

 

思えば彼も、ずっと中性的な男の子だった。僕は男性的とされがちな側面(ケンカをする、ケガするような遊びをする等)と女性的とされがちな側面(おままごとが好き等)が同居するタイプだったが、まさきはどちらからも距離が遠い結果、中間に立っているようなタイプ。

目が大きく鼻が高い美形の顔立ちをしていた彼は、とても気が弱く、ケンカは決してしなかった。でもだからと言ってなよなよとしているわけでもなく、いち早くパソコンにハマるような「文化系」という表現がぴったりの子だった。

 

その日僕らは、久しぶりに公園で落ち合ったのだ。

 


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当時のまま変わらない、三国西公園のブランコ

「最近は何してるん?」

「最近?『ごっつええ感じ!!』観てるわ」

「ごっつええ感じ…?」

知らない言葉を前に、背筋がキュッと緊張する。

 

「ダウンタウン分かる?」

「分かるよ」

「ダウンタウンさんが前にやってたコント番組なんやけど、駅前のビデオ屋の兄ちゃんに教えてもらってん。僕、あの兄ちゃんと仲いいねん」

まさきは優雅にブランコをこいだ。

 

(ダウンタウンさんて……!!!)

 

まず僕の中で、「さん」付けであることに衝撃が走った。ブランコなんて漕ぐ気は起きない。

しかもまさきは、ビデオ屋の兄ちゃんとまさきが仲がいいらしい……! 僕の興奮はみるみる内に膨らんだ。

 

(大人やん……!)

 

そのとき、バカな僕はそう思ったのだ。

「男を通らずとも大人に近づけるのかもしれない、それならば今すぐにでも観たい……!」そんな、すがるような気持ちを抱えて「ごっつ」の門を叩くことになった。

 


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黒くて妖しいレンタルビデオ店は、白くてクリーンな不動産屋に変わっていた

そのバカな期待は、運良くいいほうに転んだ。

初めて一本観終えたときは、「笑い」よりも断然「衝撃」が勝った。でもその衝撃は、初めて口にいれた香辛料のようにジワジワと快感に変わり、二本、三本と観て行くうちに、僕を虜にしていった。

一番気に入ったのは『記者会見』だ。

 

一言で言うならあれは、「なんのこっちゃ分からへん」コントなのだが、でもその「なんのこっちゃ分からへん」が、僕の大きな救いになり、笑いの原体験となった。

松本人志のつくる、意味のない、もしくは意味のありすぎる笑いは、日常生活で変えようのないうねりにのまれ、方向感覚も光も失った僕にとって、暗闇で小さく光るマッチの火のようだった。

 

「ごっつ」を観て、「ワケ分からんやん」と笑うとき、僕は浮かばれない生活から一歩外に出られた。ときにそこには、モラルの背筋をブルブルと震わせるような、狂気に近い笑いもあったが、それさえ救いになることもあるのだと、僕はあの1年間の、地味で、スパークした日々から学んだ。

 

あの経験がなかったら、僕は「やる気あり美」とかいう、トンチンカンな団体を始めていなかっただろう。

(ちなみに三国での最後の1年、笑いを追求するようになった僕とまさきは、「イチ!ニ!イチ!ニ!」の要領で「おっぱい!おっぱい!」と叫んで規則正しく真顔で走ることが一番おもしろい、という深夜のテンション的結論に至るのだが、そのネタは転校先で活きた。運がよかった)

 

 

 

また新しい街ができる

今回この原稿を書くために、久しぶりに三国に足を運んだ。

三国は多くの商店が閉店し、ガラリと姿を変えていたが、まだなんとか僕の知っている三国だった。

駄菓子屋はなくなり、魚屋も閉まり、スナック通りの看板は色あせてしまっていたけど、「天佑(てんゆう)」のコロッケの味はまったく変わっていなくて、思わずうなったし、豆腐屋の水槽は大人の僕が見ても大きかった。

 

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昔よく行った喫茶店に入ると、おばちゃんは当然僕のことを覚えていなかったけど、ずっと三国に住んでいたと言うと珈琲のおかわりをサービスしてくれたり、ずいぶんとよくしてくれた。

 

「キレイな建物ふえましたよね」

「再開発やねえ」

「そうなんですね」

「このお店も、来月しめることにしたんよ」

「そうなんですか」

「まぁ、また新しい街ができるんやわ」

 

おばちゃんの目は、やさしかった。

 

これからきっと5年で、三国はすっかり規則ただしい街になる。それはまた新たな三国の形が生まれるということで、そこにはそこの遊びが生まれ、子どもたちの青春があり、決して悲観することではない。

 

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ただ僕は、あの時代の三国で、自分の基礎をつくり上げることができて本当に良かったと思っている。

『やる気あり美』は「世の中とLGBTのグッとくる接点をもっと」という、とんでもなく図々しいスローガンを掲げている。

それは簡単なことではないし、きれいごとばかりでうまくいく話でもない。

 

yaruki-arimi.com

 

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ノンケと映画に行く。第二回|素敵なダイナマイトスキャンダル / 佐伯ポインティ | やる気あり美 - 世の中とLGBTのグッとくる接点をもっと

 

でもだからこそ楽しいのだと、期待していいのだと、そう思えるのは、僕の中で商店街の人々が、ゆきがまさきが、そして松本人志が、「まあまあまあ」と言い合って笑っているからだ。

べつにみんな良くなくたっていい。キショくていい。僕らが理解し合えるはずだという理由は「人間だから」でことたりるのだ。 

 

ちなみに帰りは駅前のそば屋に入った。ここは外観も味も全然変わっていなくて感動……と思ったが、「いや、そばの違いとか分からんかもしれん……」とバカ舌を呪った。最後はもう一回コロッケを食べるべきだった。

 

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著者:太田尚樹(おおたなおき)

太田尚樹

1988年、大阪生まれのゲイ。いくつかのメディアで編集者・ライターとして勤めながら、LGBTエンタメサイト『やる気あり美』の編集長を兼任。「ソトコト」にて『ゲイの僕にも、星はキレイで、肉はウマイ。』を連載中。
Twitter:@ot_john
note:Naoki Ota

編集:Huuuu inc.