あの夏休みの続きを、松本で暮らした。|文・岡部ベイコ

著者: 岡部ベイコ

「あれ? これから夜勤だったっけ?」

今から6年前の深夜2時。関東のとある駐輪場で自転車に跨ろうとして、私は思考停止した。

この日は朝から18時間働いて家に帰るところだった。

看護師という職業を選んだのは、学費が安かったから。

いま思えばそれ以外にも生きる術はあったのかもしれないけれど、親が言う「資格があれば食いっぱぐれないんだから」という言葉に半分諦め、半分納得しようとした。

修行のため、と自ら希望した外科病棟は悲惨なくらい多忙な部署だったけど、先輩方と同期たちには本当に恵まれた。お金をそこそこ稼いで、休みの日は思いっきり好きなことをする。看護師経験が私という人間の「核」になっていることは間違いないが、当時の私はこの「余暇」のためだけに仕事をしていた。

当時は同期みんな同じ寮に住んでいた

休みの日にはひらすら映画を見たり、喫茶店でのんびり過ごした。文字を書くことが好きで、カバンには常に本と日記を忍ばせていた。ペンを握って自分の言葉を書きたい。カルテに並ぶ文字は単刀直入で、潔いほど明瞭で、どれもよそよそしい顔をしていた。

 

連休があれば旅に出て、長野県の松本市を訪れたのは23歳の時。

新宿からの夜行バスに乗り込み、朝の4時には上高地の大正池に到着した。真夏にもかかわらずひんやり冷たい空気に、霧がかった水面が絵画のよう。上高地のトレッキング中に出会った人と、旅の話をしながら一緒に歩いた。病院の床を駆け回るのとは違い、日差しの下で土を踏みしめるのはなんて気持ちがいいんだろう。誰もいない松本城の天守閣で昼寝をすると、汗ばんだ身体を風が撫でていく。買ったそばから溶け始めるソフトクリームを持て余しながら信号待ちをしていると、駅前の温度計が35度を超えていた。空を覆い尽くすほどの入道雲が印象的な日だった。

私にとって長野は憧れで、非現実的で、遠い夏休みのような存在だった。「いつか長野に住みたいなぁ」と頭に浮かんではナースコールの音で現実に引き戻され、「あの夏休み」は雲のようにふわりと霧散する。

この仕事は食いっぱぐれないけど、残りの人生全てを捧げるのはなんか違う。そんな小さな違和感も忙しさの濁流に飲み込まれ、呼吸して、寝て起きて、毎日が過ぎ去って、そうして冒頭に戻る。

「岡部、笑い話じゃなくてさすがにやばいやつだよ」

親友にそう言われてようやく内側からのSOSに気がついた。7人いた同期は結婚や引越しで全員退職し、気づけばもう30歳。コロナ禍に突入し、病院はどこもかしこもヒリついている。私はストレスに強いのだと思っていたけれど、実際には壊滅的なほど鈍感だったらしい。

「主任になってもらえない?」上司にそう言われたとき、もう「なんとなく」でここにいちゃダメなんだと思った。食いっぱぐれないための「看護師」は、人と話すことが好きなのだと気づかせてくれ、いつしか誇りを持ってナース服を身にまとっていた。なのに、いつからこうなっちゃったんだろ。今は「看護師」というラベルを付けて人と関わることが苦しい。

私が本当にやりたいことはなに?

思い出したのは松本で見た入道雲だった。それから1年後の春。新卒から勤めた大学病院を退職し、2022年の5月に長野県松本市へ移住した。あれだけ遠い存在だったのに、心が決まってしまえばあっという間に駅のホームにいた。

「ま〜つもと〜、ま〜つもと〜」

独特の間延びした到着アナウンスがやけに耳に残る。引越し当日の夕方、積み重なる段ボールもそのままに、スーパーへ行きがてら河川敷を散歩した。看護師を辞めてしまって、これからどうなるんだろう。大きな太陽がアルプスの山々に消えていき、西日が反射して水面がきらきら輝く。この土地に知り合いは一人もいなかったけど、不思議と大丈夫だと思えた。

引越して2週間後、ゲストハウスtabi-shiroで開催された「移住者交流会」に参加することにした。そこで知り合った子と仲良くなり、山好きの輪も広がった。

「なあ、早朝にカモランしようや」市中の川で泳ぐカモを見ながらランニングすることを、その子はそう呼んだ。ランニングのゴールは松本城だ。6時30分になるとお城の広場にさまざまな年代がぞろぞろ集まってきて、最後にチャリで現れたお爺さんがラジカセのボタンを押すと、ラジオ体操第一が流れ出す。名前も知らない松本市民と輪になって、ジャンプしたり腕をブンブン振り回した。なんだこれ。漆塗りの天守閣ごしに、雪の残る北アルプスが悠々と寝転んでいた。

朝晩は比較的冷え込むので初夏も気持ちがいい

久しぶりに訪れた上高地で山小屋アルバイトという選択肢を知り、人里離れた山奥の小屋へ9年ぶりの履歴書を書いた。とにかく自然の多いところへ行きたかったのだ。履歴書を送って数カ月。入山予定日が近づくなか、待てども待てども返事は届かない。ダメだったら喫茶店でバイトでもしようかな、なんて考えつつも、思い切ってオーナーに会いにいったら「わざわざ来てくれたの〜! じゃあ採用!」と眩しい笑顔で言われ、拍子抜けしたのを覚えている。こうして標高2,500mに位置する山小屋が夏の間の職場になった。

自然に癒やされたい、と思ってやって来た山小屋だったけど、想像以上に「人間まみれ」の環境だった。従業員部屋に個室はなく、シングルの煎餅布団だけが自分の空間で、ペラペラの布で仕切っただけの両脇には同僚が寝息を立てている。朝昼晩と大家族さながらの人数で食卓を囲み、同じ湯に浸かり、同じメンバーで働き、そして飲み明かす。何せ周囲は山、山、山なのだ。

太陽が昇る前には起きて、働いて、飯を食って、大笑いして、疲れて眠る。これだけ過酷な自然まみれ人間まみれの環境で四六時中過ごしていたら、その人の職業だとか年齢だとか全てがどうでも良くなった。残るのは、その人がどんな時に喜びと怒りを感じるのか。それだけ。看護師として医師や患者と接しなくていい。あの山の中で私はただの私だった。

山小屋が営業している7〜10月の間。年によって期間はさまざまだったけど山の上で働き、それ以外は松本で過ごす生活を4年間続けた。

松本には外からやってきて何かを始めている人がたくさんいた。自らDIYしてゲストハウスを経営したり、カフェを始めたり、よく分からない店をやっていたり。「ここに行けば誰かに会えるだろう」という飲み屋もあった。「薄川(すすきがわ)アンダーザブリッジ」と称する初夏の集いでは、平日にもかかわらず大人たちがわらわら集まり、薄川の橋の下でのんびり過ごす。山小屋でもそうだったけど、松本で出会った人たちには「普通はこう生きるべき」という概念がなかったように思う。

松本の農家「ふぁーむしかない」のお手伝いをして、野菜をたくさんいただいた

山小屋の営業していない秋〜春にかけては、派遣看護師として食い繋いだ。山小屋は通年雇用が難しく、かといって会社員になると山小屋で働けないのだ。派遣の更新を気にして生きるのは地味にストレスだった。山小屋での生活はかけがえのない大切な時間だったけど、夏の間の3カ月間を山で過ごすためだけに、私はそれ以外の時期を生きながらえているのだろうか?

松本という町は水に恵まれている。松本城のすぐ南には女鳥羽(めとば)川が流れ、湧水がそこかしこから汲めるのでマイボトルを持ち歩く人も多い。石段を下りた河川敷、人の少ないそこは私の休憩スポットだった。水流に乗ったカモの親子が凄いスピードで流れていくのを眺めつつ日記をひらく。看護師を辞めてから出会った人たちは、みんな自分の「好き」に真っ直ぐに行動していた。カメラに夢中な友人、登山道整備に情熱を注ぐ同期、スパイスを愛するチャイ屋の友人。じゃあ、私は? 答えのない問いばかりがぐるぐる回り、ため息は川音にかき消された。

家の壁には、かつての患者さんが描いてくれた私の似顔絵が飾ってある。絵を描くのが趣味の人で、「入院してると暇だからさ」と毎日毎日描いていた。「私が続けていることといえば日記くらい」と言うと、「十分立派だよ。下手くそでも何でも続けることが大切だから」と鉛筆を動かし続けながら答えた。

患者さんは患者である前に、それぞれの人生を持つ人間だ。私たちが出会うのは彼らが病気を患ってからだけど、みんなそれぞれ過去があって、大切な人がいて、趣味もある。忙しすぎてゆっくり世間話をする時間はなかったけど、どんな人生を歩んできたのかを聞く時間が好きだった。

麻績村の低農薬りんご園「はなうた家」へ手伝いに行く時間が癒やしだった

この気持ちは移住してからもっと強くなり、山小屋や松本で出会う人たちから話を聞くのが大好きになった。彼らはみんな世間の普通よりも「自分の声」を大切にしていた。「普通」とか「常識」なんて本当はないのかも。

みんなの人生や背景を、自分なりに取材をして文字にしたい。取材先は、普段から利用している大好きなお店にした。名刺もない私は、見よう見まねでつくった企画書を差し出して「私の経験のために取材をさせていただけませんか?」と頭を下げた。発表媒体は誰が見てくれるのかも分からない私のnoteで、謝礼も出せない。おぼつかない自己流取材にもかかわらず、松本の人たちは快く協力してくれた。細々とWebで記事を書きつつ、相変わらず看護師をメインに続けていた。

町の東側には「美ヶ原温泉」や「浅間温泉」、町中にも多数の銭湯があるので湯には困らない。移住者交流会で知り合って4年。「ねえ、お風呂いこ」が合図で、時にはのぼせながらも湯船で色んな話をした。自転車に乗った爺ちゃんに轢かれただの、めっちゃ綺麗にオナラが鳴らせるだの、大抵がくだらないことだったけど、身体の不調も、進路の悩みも共有した。助産師の友人は「女性に寄り添うケアをしたい」と植物療法士の資格を取り、パン屋の友人は「器のセレクトショップをしたい」と走り始めていた。真剣な悩みもバカな雑談も唇から湯気に乗って排水溝に流れていく。みんなそれぞれの道をもがきながらも進んでいるんだ。汗を出してしまったら、また歩ける気がした。

そんな時、壁画のようなイラストに惹かれて手に取った長野県信濃町で暮らす人たちを取材したガイドブック『A GUIDE TO SHINANO-MACHI』。土地と人を大切にしている姿勢が文章から滲み、「究極のローカルは個人に宿る」という一文に、ズガーンとシビれた。こんな言葉を、届ける仕事がしたい。

帰りのバスで出版社を調べてみたが、求人はないようだった。でも、もしここで働けたとしても、松本を離れなくちゃいけない━━そう思ったら画面を閉じるしかなかった。

それから3カ月後、山小屋4シーズン目のある夜。スタッフ数人でワインを飲んでいると「来年も看護師をしていたら本当に許しませんよ」と声を震わせながら低い声で言われた。文章を書く仕事をしたいと宣言して一年、結局ずるずる看護師を続ける私を見守ってきた人だった。求人がないから、松本を離れるから、それだけの理由でやりたいことを諦めていいんだろうか。

山にはいい風が吹きわたる

くだらない不安はいくつもあったけど、結局「やりたい」が勝って編集会社へ手紙を書くことにした。なぜか「今日のうちに投函しなくちゃ」という思いに突き動かされ、出先にもかかわらずわざわざコンビニで便箋を買って投函した。あの日、なぜあんな衝動に溢れていたのか今でも分からない。

その日の夜、驚くことに求人募集が出て、少しのあいだ放心してから慌てて正式にエントリーした。しばらく経った年末、編集会社の代表から「今度会って話しませんか?」とメッセージがあった。

新人看護師の頃、登山が好きになってきたと母に話すと「あら、お母さんは昔登山部だったのよ」と答えた。え、初耳だよ。どうりで旅行先にもかかわらずわざわざ里山を歩きたがるわけだ。

編集会社で働かせてもらえることになったんだ、と報告すると「お母さんは若い頃出版社で働きたかったの。でも大学出てないからダメだと思って諦めたわ」と遠くを見つめた。それも初耳なんだけど。一番身近な親の人生を、知っているようで意外と知らないのかもしれない。

松本の家にはツバメが巣を作り、すぐ近くの川ではカモが産卵し、雛の巣立ちまで見届けるのが毎春の恒例だった。松本から見る常念岳はピラミッドのようにどっしり佇み、天気が良ければ常念岳の左肩から槍ヶ岳の先っぽがちょこんと見える。今頃は田んぼに水が張りめぐらされ、山からの風が吹いていることだろう。上手くいかなくて立ち止まる日も、川辺に座り込む日も、いつも変わらずそこにある。遠い夏休みのようだった松本は、いつしか私の日常になっていた。あの景色を、私は何度でも思い出す。

著者: 岡部ベイコ

1991年、宇都宮育ち。2022年に松本市へ移住し、北アルプスの山小屋で4シーズン働く。ライターを志し、現在は編集会社で働いている。映画と珈琲、木陰で昼寝をする時間が至福。人様の玄関先に広がる無造作なプランター植物が大好き。

Instagram:@bee___ko/ 
note:https://note.com/iwashi_oishii

編集:荒田もも(Huuuu)