著者: 夜衰
私は大学の学部入学から大学院(修士課程)修了まで、京都で過ごした。年で言うと2004年から2010年初頭までの話だ。いまのところ、人生の中で、もっとも長い期間住んでいた場所になる。だから京都について紹介しようと思うのだが、ここSUUMOタウンでも、そうそうたる面々が京都について語っているから、まだ未読の人がいたら、まずはそちらを読んでもらうとよいのではと思う。
特にphaさんの記事は素晴らしく、京都の魅力を私の少なくとも1000兆倍は上手に語っている。というか、ほぼ私の言うことがなくなってしまって途方に暮れているのだけど、とりあえず自分なりに体験したことを書きたいと思う。
私が京都で過ごした6年間の記憶は、ほぼ冴えない学生バンドマンとしての記憶だ。所属していた京大の軽音楽部は、西部講堂(知る人ぞ知るロックの聖地とされる)のごく近くに部室を構えていて、そこでバンドの練習をしたり、自主製作音源をつくったりというのが日常だった。西部講堂では「ボロフェスタ」「P-hour」といった音楽イベントが多く催されていて、その中でも、学生が主催する「みやこ音楽祭」というイベントにはスタッフ兼出演者としてがっつり関わり、そこで知り合った仲間とは今でもいろいろな縁でつながっている。
京都の一番の魅力として、phaさんも指摘していたことだけど、幅広い文化に触れられることが挙げられる。これは私の場合、いろいろな大学の学生が周りにいたことが大きかった。私は京大にいたけれど、造形大、同志社大、立命館大、市立芸大、工芸繊維大、京産大、龍谷大、精華大……思い出すだけでざっとこれだけの大学の人々と交流があって、特に芸術を専攻している学生からは、いろいろな刺激を受けた。
ライブハウスのスタッフやミュージシャンの皆さんにも、当然たくさんお世話になった。モグラさんがいたnanoを筆頭に、都雅都雅、拾得、磔磔、陰陽、Cafebar大会とかに、客としても演者としてもよく足を運んだ。またCD・レコードショップ、古本屋、映画館、ギャラリー等々、いろいろな世界を見せてくれるスポットがたくさんあり、それを経営・運営する人々がいた。社会通念に照らせば変な人も多かったけど、そういった人々の層の厚さからも分かるように、京都は幅広い文化に、比較的簡単にアクセスできる場所だと思う。
そう、もうひとつ京都のいいところだが、これもphaさんの記事でもあったとおり、街の物理的な大きさが適度であることだ。自転車ないし原付で動き回れる範囲の中でおおむねすべてが完結する。してしまうのだ。金のない学生にとっては、基本的に交通費がかからないのがありがたかった。あと私は方向音痴レベルがカンストしてしまっている類の人間なのだけど、碁盤目状の道と鴨川のおかげで、引越して1年ぐらい経てば道に迷わなくなった。
具体的なスポットの紹介もしておくと、百万遍近くのZACO、京大西部講堂、北白川のガケ書房、高野のカナート洛北あたりが私のメイン生息地だった。最初に挙げたZACOはすでに閉店してしまったけど、ブルースやジャズ、ソウルのレコードがいっぱい置いてあるバー兼カフェで、一時期そこのカレーばかり食べていた。夜には一応バイトということで、マスター代理っぽいこともしていた。賃金は雀の涙ほどもなかったけど、お店のレコード聴き放題というのが最大のバイト代だったのだ。
食べるところで言うと、京大の学食は当時かなり優秀で、特に北にあるほどクオリティが上がると評判だった。私も北部キャンパスの食堂はよく行っていて、カウンターで「炒め」(『おすぎ』と同じイントネーションで言う)と注文すると、その場でおっちゃんがガーッと中華鍋でつくってくれる肉野菜炒めをよく食べていた。
西部講堂やその近くでイベントをするときには、西部生協会館のルネや、ミリオン(ハンバーグがメインの定食屋)に行っていた。ルネできっかり1食420円(消費税5%時代!)にする技を個人的に習得していたから、それだけしか財布に入っていない状況で行くこともあった。すごく埃っぽかった西部講堂の匂いとセットになって思い起こされる。
京大付近はラーメン屋が多くて、あかつき、東龍、吉田屋(閉店)、天天有、ますたに、天下一品の総本店あたりによく食べに行ったな。家の近くにあった大銀という定食屋にもよく行った。600円足らずで、おかずがいっぱいの定食を食べられるからだ。たまにチャーリーブラウンのとんかつやさんというところに行った。これは普通に食べると800円オーバーするんだけど、美味しいカツやコロッケが食べられるのだ。ジュネスというカフェも、肉汁がやばい系のハンバーグを食べさせてくれるところで、確か800円オーバーするんだけど、よく行っていた。
飯以外で言うと、大学の図書館やそれに準ずる施設には、書籍はもちろんのこと、昔の映画や音楽に触れられる環境も整備されていて、いくらでもいられた。自分の興味のあることを学ぶのは楽しかったから、講義やゼミにも比較的ちゃんと取り組んでいた。あと京大の構内には「Black Riot」という、学生が自主的にやっているバーというか、有料で酒が飲めるたまり場みたいなところがあった(Twitterアカウントを見る限り、今でもあるらしい)。たまにそこに行って、曖昧な感じの人々と交流を深めたり、歌ったりした。
……とまあここまで思い出をつらつら語ったが、ここから表題に戻る。京都で学生時代を送り、東京で就職したときに起きること。それは、ここまで書いてきたもの、すべてを失うことだ。
京都で学生生活を送った人間は、卒業や修了や退学にあたって、関西に残る勢と、上京する勢におおむね分かれる。これは私の周囲だと、ほぼ半々に近かった。それは人間関係の分断を意味していて、具体的に言うと、バンドは脱退や解散に至るし、カップルは遠距離恋愛になるし、離れてしまった友人とはそうそう会えなくなる。
私は上京した勢だったわけだけど、社会人になったタイミングで東京に移住するのは結構しんどいものがあった。勤労はそもそも苦痛なわけで、そんな中、移動は電車がメインで終電をいつも気にしなきゃいけなくて、飯も家賃も京都の学生街とは比べ物にならないくらい高い。周囲の人々はお金のことばかり考えていて、いつだって自分を怒ろうとしているように思える。「東京<<(越えられない壁)<<京都」として、その思い出は美化される一方。こうして喪失感とともに、エバーグリーンな「京都での学生時代」一丁上がりというわけだ。
私の中で、京都で過ごした6年間は、とてもキラキラしていて、間違いなく私の一部を形作っている。けれど、あそこで経験したことが「世界のすべて」なんかではなかったことも、私は知っている。それを思い知らされるのは、とてもしんどいことだった。
ずっと関東や地元で過ごして、環境が地続きになっている人を、とてもうらやましく思うときもある。当時は一身上の都合により、京都に残ったり、地元に帰ったりするのも考えにくかったのだ。だけど、学生時代を東京で過ごせばよかったのか、というと、それはまた違うような気がする。鬼頭莫宏先生の名作漫画『ぼくらの』で、登場人物がこんなことを言っている。
それは人生に於いて、最高の思考の喜びを与えられた期間。
日本のような先進国に限定される話ではあるけれど、今日の食事を得るために思考力を使わなくていい期間。
(中略)
自分のその日の生存に直結しないから、その思考は自由でそして可能性に満ちている。
――鬼頭莫宏、『ぼくらの』9巻 P.86~P.88より
この作品では中学生ぐらいの時期のことを言っているけれど、私にとっての京都での学生生活はこんな時代だった。学生時代を過ごせばどこでもそうなるのでは、と言われたらそうなんだけど、この京都という土地の雰囲気なくしては得られないものが多々あったと思う。それを失ったこともまた、私の一部になっているのだろう。そう思わないとやっていられない。
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編集:ツドイ