HOMESICK、京都|街と音楽

著者: カベヤシュウト(odd eyes)

自室、スタジオ、ライブハウス、時にはそこらの公園や道端など、街のあらゆる場所で生まれ続ける音楽たち。この連載では、各地で活動するミュージシャンの「街」をテーマにしたエッセイとプレイリストをお届けします。

 

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神宮丸太町二番出口をあがるとうっすらと霧が出ていた。

その日はとても気分がよかったので、浴びるように飲んだ。盛り上がっていた嫌いな曲を反芻(はんすう)して、喋りすぎた後悔を打ち消すように奇声をあげながら川端通を歩いている。至る所に痕跡は残っている。 

他人の痕跡に自分が重なり、存在しないはずの記憶にうなされる。無限に続くように、まるで終わることなどないように眠りながら遊び続けた街。

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白川通、 錦林車庫前付近

京都には2011年から2019年までの8年住んでいた。京都駅より北、岩倉より南、桂川より東、北白川より西のエリア内において、10代から20代にかけてを人生で最も輝かしい時間だと思い込んでいると、青春信仰の格好の標的だ。用意された舞台で、腐った毎日に喜んで興じるようになる。

京都市内で青春信仰の犠牲者は毎年出ていて、京都のややこしい住所表記や複雑なバスの路線図を把握するころには敬虔な信仰心を抱いている。

感情と心をかき乱すのには十分な街だった。思い出を集めばら撒く、それを他人が拾う、すこし重ねると新しい思い出ができる。青春信仰とは「思い出への信仰」と言い換えれる。自分にとって都合よく光り輝く時間を信じることだから。

 

24時間休憩所、漫遊堂

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本当に喋りたいことを喋らないように、適当なことしか口にできない。

延長に延長を重ねて遊び倒し、もう何一つ考えたくない状態で家に辿り着いて泥のように眠ったあとは、高野にある「漫遊堂」という漫画喫茶によく行った。

「漫遊堂」には個室と長机が並んでいるだけのオープンスペースのどちらかを選択できて、オープンスペースの方が少し安かった。長机にチューハイと灰皿を積み上げて、何度も読んだことのある漫画を繰り返し読んでいた。

漫画喫茶は本当に街から消えていってる。誰でも知っているような漫画ばかりでおもしろくもなんともないネカフェとは違い、漫画の種類が豊富で好きだった。一度も食べたことないけれど、店の前ではたこ焼きも売っている。

「こち亀」「テイクイットイージー」「ナニワトモアレ」「敷居の住人」「ホワイトアルバム」「電波の城」「狂四郎2030」「ジオラマボーイ・パノラマガール」「将太の寿司」心の揺れを静めるためにすることは決まっていて、同じ漫画を何度も読むか、音楽を全て消すか、全て点けるかだった。

 

「同じ漫画をなぜ繰り返し読むのか」とまるで理解できないといった面持ちで聞かれたことがあるが、自分からすれば、あなたはなぜ繰り返し読まないのかという疑問を感じている。理解できないといえば、芸術を表現するときに「純粋な方がよい」とされてることだ。

美しさを表現するときに「純粋さ」を用いることは、一点の染みも、染みそのものを許さない状態を肯定するようで気味が悪い。「純粋」であろうとする方向に強制されているような抑圧を感じるからだ。染みだしたり、零れ落ちるものに興味があって美しさを感じるので、染みだらけであろうと「何にも侵されていない状態」が好きだった。

深夜に一人で漫遊堂に行って漫画読むことは、自分にとって何にも侵されていない状態の一つで、遊び続ける中で盛り上がるために適当なことを口走った自分を忘れ去る、浄化作業だった。

 

幸福なあんかけ焼きそば、華祥

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10:50に家を出て茶山駅から叡電沿いに進んで行き、元田中の駅前に来たら、東大路を下っていく。「めんてい」を抜けて、謎のMac修理屋と2014年ごろに移転した「四川亭」を横切り、「華祥」の前に自転車を止める。

ちなみに「四川亭」は19歳のころによく行った。昼に行って、夜にもう一度行く日もあったくらい。麻婆丼が安く、当時は担々麺も替え玉が無料だった。馬鹿だったので、麻婆丼を食べて店内にあった『サンクチュアリ』を読み尽くしたあと、担々麺を頼んでいた。カウンターに置いてあるピッチャーにはレモンの輪切りと水が入っていて、爽やかな味がして好きだった。

11:00になったので、一番乗りで華祥に入る。まず店内のエアコンが効きまくっているのがとてもいい。死ぬほどの暑がりなので、エアコンの効きが悪いところはどんなにおいしくて居心地がよかろうとも行きたくない。冬に暖房効きすぎている店も暑くて無理。暖房はすべて切ってほしい。

あんかけ焼そばセットを頼む。ランチセットは麻婆丼セットとあんかけ焼そばセットの2種類。どちらも好きだったが、頼む割合は2:8だった。麻婆丼を食べていると冬でも顔から汗が止まらなくなり、あまりに汗をかいているものだから、店主が見かねてタオルをくれたことがあった。その時から辛い食べ物が億劫になった。

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「セットの搾菜です」

まずは小皿に入った搾菜が置かれる。搾菜を齧りながらご飯と唐揚げが来るのを待つ。目の前で店主と息子が並んで調理している。オープンキッチンなので調理の様子が見える。まだ客は自分一人だけだった。あんかけ焼そばの調理が完了するまで、誰も入ってこないこと、もしくは入ってきたとしてもあんかけ焼そばセットを頼まないことを祈る。

なぜなら、調理前に注文が入った分はまとめてつくるため、人数が増えたら増えただけのあんかけを調理し盛り分けていくことになる。そうすると、もちろん丁寧に均等になるように分けてくれるが、やはり具材のバランスが崩れてしまう。店としては当然だと思う。一人だけの注文をつくると店は手間だし、悪いなと気が引けるが、一人分の調理の方が具材も豊富でおいしい。だから祈っていた。

 祈りのかいもなく、よく見る常連が入ってきた。向こうも「またこいついるよ」と思っているだろう。当たり前のようにあんかけ焼そばセットを頼んだので、二人分つくられることになった。できあがった焼きそばが目の前に置かれる。湯気がたった熱々のあんは二人分に仕分けされたが、烏賊が多めに入っていてよかった。半分焼かれて、半分炒られた麺がとてもおいしい。

食べている間、金持ちの子どものように幸福だった。

 

街の「湿度」と、OASIS 2

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今はなきOASIS2の跡地。

出町柳まで出て、今出川通りをひたすら西に進む。烏丸通、堀川通を越えて千本通まで来たら、南側に曲がる。イズミヤの角を曲がると、スナック、小料理屋などが立ち並ぶ西陣京極が現れる。その中の一角に「OASIS 2」の店舗があった。 

コンクリートのブロックをどかし、青枠のガラス戸を開ける。古着はもちろんのこと、得体の知れない置物、見たことのない灰皿など、決して多いわけではないけれど、心を掴むもので溢れていた。

「OASIS 2」はまだ気づかれていない新しい価値を見出す古着の観点も抜けているけれど、街との調和に神経を払っていることがなによりおもしろかった。置いてある服について聞くと、「湿度」という表現が頻発する。「京都の湿度に合うものを選んでいる」と当然のように言っていて、カッコいいなって思った覚えがある。

何度か街について話をしているうちに、またセレクトされた服を眺めたり、実際に身につけてみると、提案についてしっくりくることが多い。内向的なスタイルの提案ではなく、風景的に人物を捉える感覚が新鮮だった。

あらゆるカッコよかったハードコア・パンクのように、自分たちの住んでいる街に根差した絶望と怒りを希望に変えていく行動と勝手に解釈して、自分も街との調和や街にいることについて意識するようになった。 

一つの店が街の風景を変える。店に集まった人々の装いが変わり、少しだけ街の様子が変わる。言い換えれば、資本が展開する醜悪さを野放しにすると、すぐに街は死んでいく。装いの主張はいわば、自分が望む街への抵抗だ。

 

価値を踏み飛ばすスペース、「外」

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「外」に行く途中、昔の失敗を思い出して大声をあげた。北白川に出て、銀閣寺に向かって南下する。今出川通りとの交差点を越えてさらに下って行くと外に着く。

「外」はギター、ベース、ドラムのシンプルなトリオ編成のバンド、壊れないために壊れる、合わせないために合わせる、崩壊させるために均等にするといった非効率音楽に腐心する「空間現代」が主宰する場所だ。

細長い廊下を抜けると簡素なバーカウンターがあり、その奥にトイレとライブスペースがある。この場所では、さまざまなことがあった。

選ぶことより選ばないことの方が重要だと考えていて、選ぶ理由より選ばない理由を探している。知っているより知らないを、優しくないより優しいを、そういう気持ちで見知ったことのない現象に触れることができるのが『外』だった。

目の前に起きていることを受け入れると、こんなにおもしろいことがあったんだって思えることが外では1年に1回はあった。それは端的に希望だった。その時には気づかなくても、あとで思い出そうとすると、外でMadteoの拒絶を見たから、Shizkaの音響に触れたから、DJ Nozakiに飛ばされたから、今も音楽を聴いている気がする。

 

個人的で無限に広がる鴨川

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自分の居る場所を愛するのは自分を見失うことと同義だった。

選んだことや運命について言葉を費やそうとしたが、どこにでも居てもいいんだろう。寂しいけれど、どこにでもいける気がする。

街中であれば、鴨川にすぐ出れる。自分の中での京都の魅力は結局これに尽きる。特に好きなのは丸太町通りから二条通りまでのおだやかな区間だ。

上裸で日光浴しているジジイ、はしゃぐ子ども、ソーラン節を踊っている意味不明なグループ、酒を飲んでいる大学生、トランペットの練習、サックスの練習、ジャンベの集団、ピクニックに興じる家族、流れる川を尻目に平行に交わっていて、自分と関係のない行動をしている人が同時に存在していることにホッとする。

ベンチも川もない街では、進んでいくことしかできない。疲れて一休みしたくなっても、休む場所がない。進みたくないときや止まりたいときの連続でしかない自分には、思うままに人生を止めたり目を背けたりする場所が必要だった。

8年のあいだに数え切れないくらい問題を先送りにして大体のことが手遅れになった。だが速すぎて止まっているように見える、お気に入りの時間が流れていた事をたまに思い出す。

 

<カベヤシュウトのプレイリスト>

遊び続けた明け方に一人で居たい気分で聴きたい曲を選びました。


著者:カベヤシュウト

ハードコア・パンク・バンド、odd eyesでヴォーカル。whatmanでDJ。
Twitter:
@whatman_
instagram:@whatman____


 「街と音楽」過去の記事

suumo.jp

編集:日向コイケ(Huuuu)