著者: 大塚淑子
熊本中の人が集まっているんじゃないかと思ってしまうほど、週末になると人が溢れる街。新型コロナの影響で人々がごっそりいなくなってしまった昨年の春から、時間とともにようやくにぎわいを取り戻してきた。
ここで「街」と呼んでいる場所は、いわゆる熊本市の中心市街地のこと。下通アーケード、上通アーケードを中心とした繁華街を通称・街と呼んでいて、熊本県民によってもその範囲が違うことはよくある。携帯がない時代でも、集合場所が街であれば、郷土のデパート『鶴屋』か、今はなきPARCOの前にいればだいたい落ち合えただろう。
そんな街を愛して、18年が経とうとしている。
18歳、眩しい世界、狭い世界
大学進学を機に、福岡の田舎町から熊本に移り住んだのは18歳の春。
はちゃめちゃに厳しい家で育ったわたしにとって、家を出ることは幼少期からの使命のようなものだったし、なにより兄姉がそうしてきたから自然なことだった。もう門限を破って反省文を書かされることも、庭の砂利の上で正座させられることもないのだ。わたしにとっては、熊本に来ることではなく、家を出ることが18年生きていた上での目的だったのだ。
楽しくも鍛錬のような日々にサヨナラを告げ、なんとなく選んだ普通の大学の普通の学部に通い、バラ色の学生生活がはじまった。門限が存在しない世界は、キラキラと輝いて、買い食いだって寄り道だってなんだって楽しかった。すぐに「代返(だいへん)」という術を知り、学食で一日中トランプをして過ごす、なんてこともよくあった。
そのうち、お洒落な友人から「カフェに行こう」と連れ出され、街へ繰り出すように。大学から自転車で10分程のそこには、大学では見かけないような尖った格好の人たちが溢れ、ストリートスナップを撮るカメラマンが狩りのような眼光で人々を品定めしていた。「ここが、街かぁ」。わたしは圧倒されていた。
学年が上がるにつれ、街に行くことが当たり前になり、行きつけのカフェやごはんがおいしい飲み屋、イケてる古着屋、夜のクラブ。少し興奮気味に通う日々から、気づけばまるでそこにずっといたかのように、自然に存在していた。
学生生活も終盤に差し掛かり、周りの友人が内定先を次々と決めていく中、わたしだけがモヤモヤとしていた。やりたい事はなかったけれど、好きなことはハッキリしていた。
厳しい我が家ではテレビが制限されていた事もあり、わたしの情報源は雑誌とラジオだった。雑誌の構造や写真と活字のバランス、企画のおもしろさ、文字を追うだけで、ページをめくるだけで、わたしは高揚できた。高校時代に友人の前ではファッション誌を読むけれど、家では『BRUTUS』や『Pen』などのカルチャー誌を読み漁った。音楽番組を見れない代わりに、音楽情報誌『WHAT's IN?』とラジオで情報を頭にたたき込んで周りの話題に必死についていった。
そんな青春時代を過ごす中で、自然と憧れを持った雑誌編集者になるべく、東京の出版社を受けまくること12社。全敗だった。同級生たちとの明暗を感じながら、違う道を模索して興味もない会社を受けたり内定をもらったり蹴ったりする毎日。安定や初任給などの言葉が飛び交いはじめても、わたしはどうしても諦めることができなかった。
ここまできたらもうヤケだ。熊本の超絶怪しい小さなフリーペーパーの事務所を訪ね、少し話しをしたら簡単に内定をもらえた。周りの心配を他所に、わたしは浮かれていた。この小さく狭く眩しい街で、わたしの編集者人生がはじまったのだから。
転がってぶつかっての編集者人生のはじまり
憧れの編集者という夢を叶えたものの、その日々は散々だった。聞かされていない業務、働かない社長、怖すぎる大本の会社、続出する体調不良の社員、滲み出る周囲の夜色。半分騙されたのかもと思いながら、もっと綺麗な空気が吸いたいとはじめた転職活動は、半年も経たずに実った。
フリーペーパー創刊のために集められた、フリーランスばかりのオフィスに転がり込んだわたしは、水を得た魚のようだった。「街」をテーマにした冊子づくりは、街のことだけを考えればいい。わたしを生き生きとさせてくれる街の魅力発掘は、家族を紹介するようなものだった。学生時代から街の魅力にどっぷりだったわたしにとって、この仕事は希望にあふれていた。
前職で編集者らしいことができなかったわたしに、この職場はとても刺激的だった。文章の書き方、キャッチの付け方、ラフの引き方――。雑誌編集者の当たり前を知らずに転職したために「経験者のくせに無知」というかっこ悪いレッテルを貼られつつも、知識が増える過程はとても楽しかった。
チェーン店よりもセレクトショップのような個人店文化が根強い熊本の街では、顔見知りになるスピードも早く、生まれつき人見知りしない性格も相まって、知人&友人があれよあれよという間に増えていった。
平日は必死に働き、金曜日の夜は朝まで飲み倒し、土曜日はひたすら休養し、日曜日は街を気ままに歩く。街のそばに家を借りていたこともあり、自分の生活圏が街であることを、どこか誇らしく感じていた。締め切りで3日、家に帰れないことだってあったし、夜中に出前を取ることも、徹夜明けには近所のセレクトショップに駆け込みバックヤードで寝させてもらうことだってあった。
しんどいのも、楽しいのも、救われるのも、すべてが街で起こることだった。
しかしある日突然、編集部の解散が告げられた。さまざまな外的要因が重なり、編集者としてのピリオドを打つ事になったわたしはまだ25歳、夢半ばだった。
家族の病気もあり、実家へ戻ったわたしは父の営む会社の事務員として働く事になった。街への、編集者への未練は言わずもがな。文章を書くこと、写真を撮ることを仕事にできないことに苦痛を感じながらも、いつ編集者に戻っても大丈夫なように、本を読み、写真を撮る日々を重ねた。
転機は実家に戻って2年経ったころ。熊本での編集者時代に通っていたクラブで仲良くなったDJから「うちの会社受けてみない?」と一本の電話があった。
街なかで名物営業マンだった彼は、熊本のタウン誌の執行役員になっていた。翌日には履歴書を郵送し、2カ月後には街なかの会社で編集者として復活を果たした。「運」と「めぐり合い」、へこたれては立ち上がるを繰り返し、わたしは3度目の編集者人生をスタートした。
街への愛を再確認した熊本地震とタウン誌での6年間
数々の雑誌やフリーペーパーが乱立していた時代は終わり、紙媒体はどんどん少なくなっている。そんな中で生き残っているだけでもすごいのに、40年という長い間、熊本の人たちに愛されている雑誌だった。熊本のシンボルのような存在のタウン誌に携わることは、とても誇らしい。だけど、20代にして3度の転職を繰り返していたわたしは「こいつ長続きするのか?」と、疑われていたに違いない。
それでも、編集者の気質とでもいうのか、打ち解けるのにそう時間はかからなかった。リサーチという名目で先輩と朝まで飲み歩き、特集がカフェなら一日に何杯もコーヒーを飲んで体調を崩した。カレー特集の時は、スパイスの過剰摂取で蕁麻疹を発症した。消化不良で終わっていた2度の編集者生活を取り戻すべく、自分の担当するものにこれでもかと熱を注いでいた。
欲と知識は比例し、好きな物事ほど深く詳しくなる。知人たちに推し店を尋ねられることが増え「歩くタウンページ」と例えられることもあった。
順風満帆ともいえる日々を過ごす中、ある出来事が起こった。2016年の春、熊本地震だった。
今までに感じたこともない大きな揺れが起こり、無常にもその後数日街を揺らした。見慣れたはずの街並みは、灯りが消え、瓦礫が落ち、ガラスが散乱していた。通っていた小さな喫茶店は、2階がそのまま道路に落ちていた。コンビニからは水や食糧が消え、数日経つと店の前には災害ゴミが出て、かつての街の様子は消えてしまった。
呆然とするなかでの救いは、避難所で見る街の人たちの顔だった。お店でしか会ったことがない服屋の店員が寝床を確保してくれたり、眼鏡屋の店主がおにぎりを分けてくれたりした。クラブで知り合った看護師は避難者の見回りをしていた。行きつけのご飯屋の店主とは、唯一お湯が出る銭湯の列に並んだ。
わたしが大切に思っている「街」とそこでできた「縁」。混乱のなかでその一端に触れ、わたしは避難所の隅で小さく、静かに泣いた。
地震の翌日には各避難所から社員のみんなが集まった。協議のうえ入稿したての印刷をストップし、表紙には挨拶文を入れた。地震から10日後に発行予定の雑誌は、奇しくもわたしが特集チーフを務めたカレー特集。片っ端から掲載するお店に電話し、安否を確認した。と同時に、取材が始まったばかりの翌月号を白紙にし、地震関連の特集へと方向転換してのリスタート。編集部だけじゃなく、営業、総務と社員全員で一冊をつくり上げた。人生の中でも忘れられない一冊となった。
街で過ごした日々を反芻しながら生きる
その後、わたしは副編集長の職務を任せてもらうまでになり、令和元年に会社を卒業。フリーランスの編集者・フォトグラファー・ライターという肩書きを掲げながら過ごしている。街で過ごした編集者人生は、思い出すと胸がぐぐっと締め付けられるような経験もたくさんあったけれど、それらを忘れられるほどに、おいしいご飯と愉快な仲間との時間が多かった。きっと全部が無駄じゃなかったんだろう。
今では用事か仕事がある時しか行くことが無くなった街だけど、相変わらずな空気と、変わっていく様を混ぜて、これからもまるっと愛していこうと思う。
愛すべき街の店
■PAVAO(パバオ)
好きな店は数あれど、ここだけは絶対という、わたしの切り札。「人間交差点」と呼ばれるほど、ここに集う人たちの関係性はどんどん濃くなっていく。初めて食べたエスニック焼きそばに心撃ち抜かれ、青唐辛子塩で食べるから揚げに惚れ、店主エリナさんの人柄にノックアウト。通い始めて10年。わたしが県外の人で、この店に偶然たどり着いたのなら、とても幸運に思う。そんな店。
■Valeur(バルール)
わたしの好物ばかりそろえている気鋭の中華料理店。中華とナチュールワイン、というトレンドも押さえた名店だが、料理のおいしさの前ではそういった能書きを忘れてしまう。写真の酢豚は肉の柔らかさ、サツマイモの甘み、タレのコクと甘酸っぱさすべてが秀逸。花巻(蒸しパン)も必ず注文して、タレをディップして食べる。東京の知人をたびたびここに誘い、皆がファンになり帰っていく。
■AND COFFEE ROASTERS(アンド コーヒー ロースターズ)
熊本に“スペシャルティコーヒー”の文化を根付かせたお店。タウン誌編集者になりたてのころ、まだ工事中だったこの店に「なにができるんですかー?」と突撃したのをきっかけに友人になり、ずっと通っている。いつもおいしくて新しいコーヒーの世界をありがとう。
■Flower FINE bits&bobs(フラワーファイン ビッツアンドボブス)
自分のことを「将軍」と呼ばせる店主がいる花屋。フリーペーパーとタウン誌の編集者の時、貧乏ながらも気まぐれに花を買うことで満たされていた。たしかな知識と類稀なセンスに頼りっきりです。
■ケルンよしもと
ひと口目から食べ終わるまで、ずっと幸福感に包まれるケルンのオムライス。濃いめのケチャップと、絶妙なたまご加減、薄めだけどクセになるマッシュポテトとニンジン、このひと皿で味が完成されている。行くと毎回「どれにしようかな〜」といったん悩んでみるが、オムライス以外頼んだことがない。
※冒頭の写真以外は、すべて新型コロナ流行前の2016〜2019年にかけて撮影されたものです。
著者:大塚淑子(おおつか よしこ)
編集者・フォトグラファー・ライター。1985年福岡県八女市出身。熊本のフリーペーパーやタウン誌の編集者として働くこと約10年。令和元年に独立し活動開始。おいしいもの(特にカレーと中華)を愛でること、写真を撮ることが心の栄養。2020年にzine『好きなもの採取』発行。Instagram:@mason5
編集:Huuuu inc.