「二度と帰らないつもり」だった地元に、フェスを通じて新たな気持ちで向き合えた――西川貴教さん【上京物語】

インタビューと文章: 柴那典 写真:関口佳代

進学、就職、結婚、憧れ、変化の追求、夢の実現――。上京する理由は人それぞれで、きっとその一つ一つにドラマがあるはず。地方から東京に住まいを移した人たちにスポットライトを当てたインタビュー企画「上京物語」をお届けします。

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今回の「上京物語」にご登場いただくのは、アーティストの西川貴教さんです。

T.M.Revolutionとして1996年にデビューして以来、音楽活動はもちろん、俳優やタレントとしてもマルチな活動を繰り広げる西川さん。2009年からは地元・滋賀県で野外フェス「イナズマロック フェス」を主催しています。2018年には、本名の⻄川貴教名義での音楽活動を本格的にスタートさせました。

西川さんはバンドで成功する夢を掴むため、「二度とこの場所には帰ってこないつもり」で故郷を離れたそう。上京当時の生活からソロでの成功、そしてイナズマロック フェス開催後に変わってきたという地元への想いなど、人生の転機と「街」についてのお話を伺いました。

大阪で結成したバンドのデビューが決まり、上京

――西川さんの地元は滋賀県の野洲市ですが、どんな街でしたか?

西川貴教さん(以下、西川):あー……めちゃくちゃ田舎ですね(笑)。今でこそ滋賀県は西日本で人口増加率一、二を争う県にもなり、以前に比べて住みやすくなったと思うんですけど、僕が過ごしていた街は関西圏の最果ての地みたいな場所だったんです。

最寄りのJR野洲駅は車両基地があって、兵庫の姫路や網干から出て大阪や京都を通ってきた電車の終着駅でもあります。深夜に終電が着くと、ホームに酔っ払ったサラリーマンが何人もいるような場所で。バンドを組んで音楽を始めた10代のころの自分は「ここにいたら何も始まらない」と思っていたし、だからこそ地元を離れたときは、もう二度とこの場所には帰ってこないつもりでした。

――その10代のころ、東京にはどんな印象をもっていましたか?

西川:考えたことがなかったですね。まず、バンドをやるなら大阪だなって思っていたので。特に僕が学生のころは、関西出身のアーティストがシーンの中でも台頭していたんです。当時の音楽雑誌でいうと『ロッキンf』や『FOOL’S MATE』に出ているようなバンドは、多くが関西出身だったんですよ。バンドのメンバー募集のページを見ても大阪や京都が多かったし。だから僕も大阪に行ってバンドを組みました。そのバンドでデビューすることになり、東京に向かったんです。

――上京して初めて住んだ街はどこですか?

西川:そのころ、周囲のバンドマンはみんな中央線沿線に住んでいたんです。中野、阿佐ケ谷、高円寺のあたりにみんな溜まっていた。だから僕も中野区に住んだんですけど、中央線じゃなくて西武新宿線沿線だったんですよ。駅でいうと鷺ノ宮のあたり。辺鄙(へんぴ)な場所でしたね。「あれ?ここ、東京?」っていう(笑)。

――当時の思い出は?

西川:渋谷で終電がなくなったら、タクシーで家まで5、6千円かかっちゃうんですよ。当時の自分には死を覚悟して払う金額だったんで、意を決して歩いて帰ったりしてました。環状七号線をひたすら歩いた記憶がありますね。

あとは、腹を括って東京に出てきてメジャーデビューしたのに、バンドが全然売れなくて。そうこうしているうちに同世代のバンドがどんどん頭角を現して、大きな会場でライブをやるようになっていった。そのころの焦りは大きかったです。

それで、このままじゃいけないと思って、何のあてもないままバンドを抜けて。一人になって2年くらい、ひたすら曲をつくる時期がありました。

――バンドを抜けてからも、同じ場所に住んでいたんでしょうか?

西川:そうです。一人だからどんどん行き詰まっていく中で、ひたすら曲をつくって、それを自分でカセットテープに録音してライナーノーツ的な文章も書いて。人づてに紹介してもらった出版社や事務所に、デモテープを置いていったりしていました。

――なかなかしんどい時期ですね。

西川:そうですね。でも今思うと、その時期があったから今みたいに自分で何でもするようになったのかもしれない。もともと、学生時代に地元で組んでいたアマチュアバンドのころからずっと、DIY的な音楽活動をやっていたんですよ。田舎だったから、ライブをやりたくても小屋がなくて、仕方がないから公共施設に直談判して借りました。チケットはコンビニのコピー機でつくって、機材はPAのレンタル会社に直接値段交渉して借りましたね。

大阪でバンドをしていたころも、動員を伸ばすために、自分たちで缶バッジをつくったりしていました。僕は1998年に個人事務所を立ち上げたんですが、規模感こそ違えど、会社の経営もそういった経験の延長線上にある気はします。

T.M.Revolutionとしてのデビューを経て

――その後T.M.Revolutionとしてのデビューが決まったことは、大きな転機になったと思います。活動はどう変わりましたか?

西川:確かに、ソロになっていろんなチャンスをいただけたと思います。とはいえ、デビューから順風満帆だったわけじゃないし、最初のツアーは悔しいことのほうが多かったんですよ。どうやったらもっといい景色が見られるんだろうと思って、そのころも自分からいろんな提案をしていました

例えば、雑誌の撮影で訪れたスタジオやご飯を食べに行ったお店の方にお願いして、自分の曲を有線にリクエストしてもらいました。DIY精神もずっとあって、当時のマネージャーのPCを借りて、自分のファンクラブのロゴをデザインしたり。ライブでは曲順を考えるのはもちろん、演出、ステージセットやグッズのデザインも全部自分でやっていました。

――住む場所も変わりましたか?

西川:ソロデビュー当時の所属事務所は池尻大橋にあったので、同じ田園都市線沿線の駒沢大学のあたりに引越しました。会社に電車一本で行けて、それなりの家賃で住めそうという理由で。当時、マネージャーはいたけど、自宅まで迎えに来てくれるようなことは当然なかったので。

――引越して、音楽制作の環境も変わりました?

西川:圧倒的に変わりましたね。練習にしてもレコーディングにしても、プロユースのスタジオが身近に点在していたんです。なので、制作やリハーサルをする環境はずいぶん変わりました。中野区にいたころは野方の古びた練習スタジオでベコベコに凹んだマイクで歌わなきゃいけなかったのが、きちんと手入れされたケーブルや機材が出てくる。全然違いました。

――駒沢大学周辺で印象に残っている場所や、好きだった店はありますか?

西川:よく駅前の天下一品に行っていました。チェーン店なんですが、他の店舗より美味しく感じて。お店の人と顔馴染みになって、たまに白いご飯を奢ってもらったこともあります。あと、当時は駒沢公園の近くにお気に入りの定食屋さんがあって、そこもよく行きましたね。

地元・滋賀にかかわることで「家族との時間」を取り戻している

――2008年には「滋賀ふるさと観光大使」になり、翌2009年から地元でイナズマロック フェスを主催されています。そのころから地元とのかかわり方も変わってきたと思いますが、どんな想いがあったんでしょうか?

西川:いろんなきっかけはあったんですが、今思うと、滋賀にいたころは家族と過ごす時間が本当に僅かしかなかったんです。地方の人間はよく、東京に実家がある人が羨ましいと思うんですけど、よく考えると、都会に住んでいることが羨ましいんじゃなくて、実家で家族と過ごす時間があるのが羨ましいんですよね。そういう時間を取り返したくて、地元でイベントを始めたようなところはありますね。

さっき言ったように、「二度と帰ってくるまい」と思って出てきた場所に、思いもよらない形で毎年通うことになりました。出ていったときの気持ちの分だけ、望まれて地元に帰る喜びを味わわせてもらえた。それは、たくさんの方に存在を知っていただける大きなイベントになったということ以上に、価値があるように思います。地元に帰って、妹や、妹の子どもたちと会うのがすごく楽しい時間なので。

――地元に対する想いに変化は?

西川:自分が育った環境を苦々しく思ったり、時には呪ったりしていたころとはまったく違う気持ちで地元に帰れているので、本当に幸せだと思います。もちろん、今は東京が住む場所で、海外や地方に行った帰りに羽田や品川が見えると「帰ってきた!」って感じるんですよ。上京したてのころは、岐阜羽島や大垣や関ヶ原を越えると「地元に帰ってきた」って思ったんですが、そういう自分はもういない。

でも、今はまた新たな気持ちで地元に帰っています。リラックスするためというより、何かを成し遂げなきゃいけない気持ちがあるんですよね。イベントのミーティングや仕込みがあって、自分の立場を背負って動かないといけないので。でも、それもあんまり苦じゃないんですよ。地元には、見てくれている家族、支えてくれている人たちがいるし、楽しみに待っていてくれる人たちがいる。このイベントを通じて、もう一回家族をつくっている感じがしますね。

――なるほど。それは語義通りの家族というよりは、もうちょっと広い意味の家族かもしれないですね。

西川:そうですね。イベントの1年目から3年目ぐらいまでは自転車操業で本当に苦労したし、創設メンバーというか、そのころから僕の夢に付き合ってくれている人たちは、本当に家族だと思っていますね。

――先ほど仰っていたように、バンドを始めたころもソロデビューしたころも、そしてフェスも、ずっと「DIY」が軸になっていますよね。

西川:そうですね。それもあってか、うちのフェスのお客さんって、リピーターの方がたくさんいらっしゃるんですよ。もちろん新規の方も毎年たくさん来てくださるんですけど、ヘッドライナーやキャスティングで動員が変わるというよりは、「今年は行けないけど来年は行こう」とか、そういうお客さんで成り立っている。

あとは、行政がここまでガッツリ入ってくれるイベントというのは、なかなかないと思いますね。本来、行政はそういったイベントで発生するクレームを処理して主催者側に改善を求める立場だと思いますが、その責任の一端を担う覚悟でやってくれている。

(C)イナズマロック フェス 2018 実行委員会

――それにはどういった経緯があったんでしょうか。

西川:僕の育った環境とかかわりがあるんです。父が県職員だったこともあって、よく分からないヤツが突然やってきてイベントをやるんじゃなくて「あそこの部署の西川さんの息子さんがやるから応援しましょう」という感じで受け入れてもらえた。つい先日定年退職された観光課の課長さんも、イベントを立ち上げたころから付き合ってくださっていましたが、実はうちの叔父が教員をしていたころの教え子だったんです。そういう、いろんなご縁があって実現しました。

人生というRPGは1回しかプレイできない

――2018年には本名の「西川貴教」名義での活動を本格的にスタートさせ、2019年3月には1stアルバム『SINGularity』もリリースされました。今のタイミングで、改めてゼロからスタートしようと思ったのはなぜでしょうか?

西川:まだ自分の可能性を探してもいいんじゃないか、と思ったんです。自分はこういう人間だと決めつけなくてもいいなと。

物事って、知らず知らずのうちに儀式化されちゃうんですね。それは僕もそうだし、周りにいるスタッフもそう。「今までこうだったから、こうした方がいい」と、以前からの考えを継承して今に至っている。でも、そういうこれまでのことを一回全部置いておいて、もう一度ゼロから成功を目指したいなと思いました。

たとえうまくいかなくても、何かを成し遂げるための同じ苦労を一緒にしたいし、そういうチャンスをつくりたいというのが大きいですね。イナズマロック フェスをつくってきた10年は、それ以前とは違う新たな結び付きを僕にもたらしてくれた。同じようなことを、音楽でもできたらと思ったんです。

――これまでにさまざまなチャレンジをしてきた西川さんから、夢をもって東京に出てくる人に、人生の先輩として何かアドバイスはありますか?

西川:アドバイスといっても、僕もまだやってる最中だからなあ(笑)。ただ、何かを始めるときって、恥もかくし、悔しくもなるし、嫌な想いもするし、なんだよ!って思うことばっかりなんですよ。それでも、それを乗り越えないと見えないことがあまりに多すぎるんですよね。

僕だって、当初は望んでもいなかった舞台の世界に飛び込んで、何の所作も分からなくて恥ばっかりかいたし、できないことだらけで悔しい想いばかりしました。でもやっぱり、それを経験したから、音楽だけでは味わえなかったような経験がたくさんできて、それをまた次の自分のフィールドにもって帰ることができたんですよね。

だから、みんな、やりたくてもなかなか踏み出せないことが多いだろうけれど、やらなきゃいけないと思うことがあるなら、とっととやっておいたほうがいいと思います。人生というロールプレイングゲームは1回しかプレイできないし、どうやら“ふっかつのじゅもん”はなさそうなんですよね。正直、洞窟なんかに行かなくたって、人生というゲームは進むんです。だけど、行かなきゃもらえない剣があるんですよ。だから、面倒くさいと思ったことも、やっておいたほうがいいんじゃないかと思います。


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お話を伺った人:⻄川貴教

⻄川貴教

1970年9月19日、滋賀県出身。1996年にソロプロジェクト T.M.Revolutionとしてシングル「独裁 -monopolize-」でデビュー。

2018年から⻄川貴教名義での活動を本格的にスタートし、1stシングル「Bright Burning Shout」、Fear, and Loathing in Las Vegasとコラボレーションした配信シングル「Be Affected」、2ndシングル「His/Story / Roll The Dice」をリリースした。2019年3月には⻄川貴教としてのファーストアルバム「SINGularity」をリリース。4月からは全国ツアーを開催。常に新しい挑戦を続けている。

オフィシャルWebサイト:⻄川貴教

聞き手:柴 那典 (id:shiba-710)

柴 那典

1976年神奈川県生まれ。ライター、編集者。音楽ジャーナリスト。ロッキング・オン社を経て独立。雑誌、WEB、モバイルなど各方面にて編集とライティングを担当し、音楽やサブカルチャー分野を中心に幅広くインタビュー、記事執筆を手がける。

「CINRA」にてダイノジ・大谷ノブ彦との対談連載「心のベストテン」、「日経MJ」にてコラム「柴那典の新音学」連載中。著書に『ヒットの崩壊』(講談社)、『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』(太田出版)、共著に『渋谷音楽図鑑』(太田出版)がある。

ブログ:日々の音色とことば Twitter:@shiba710

編集:はてな編集部