子どものころからうどんが好きで、小麦の品種が気になりだし、とうとう秘密基地のようなうどん屋さんを始めました【いろんな街で捕まえて食べる】

著: 玉置 標本 

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自分が好きなことを仕事にしたいという人もいれば、好きなことはあくまで趣味としてやったほうがいいという考えの人もいる。どちらも正しい。

今回インタビューしたのは後者の方で、自分の中にあった「好き」をじっくり育てることで、好きが生業になった人である。

うどん好きが高じてうどんの魅力を伝えるライターとなり、とうとう自分の店を持ってしまった井上こんさんだ。

秘密基地のようなうどん屋、松ト麦

井上さんとは製麺つながりで何度かお会いしたことはあるのだが(私は家庭用製麺機の愛好家)、まだ井上さんの店「松ト麦」を訪れたことがない。そこでインタビューの前に行ってみたのだが、なかなかすごい場所に構えていた。

別に会員限定でも超高級店でもないうどん屋なのだが、入店することに明確な意思を必要とする入口なのだ。

f:id:tamaokiyutaka:20211230111605j:plain東急田園都市線の駒沢大学駅が最寄り。東口を出て国道246号線を渋谷方面に向かい、環七通りを渡って右に曲がってしばらく歩いたところにある

f:id:tamaokiyutaka:20211230111924j:plain店は環七通り沿いなので、バスでのアクセスがとても便利

f:id:tamaokiyutaka:20211230111543j:plainこの野沢ビルが目的地なのだが、飲食店がある雰囲気ではない

f:id:tamaokiyutaka:20211230111640j:plainよく見たら奥に看板があった。「うどんあり〼(ます)」と書かれているが、なにかの暗号かなと思ってしまう意味の分からなさだ

ビルの奥に立てかけられた看板を信じて地下へと続く階段を降り、少し猫背気味になりながら扉を開けると、そこにはちゃんと店が存在していた。よかった。

井上さんが働く厨房をL字型に囲んだ、カウンター9席だけのこぢんまりした店である。なんだか大人の秘密基地っぽい。

f:id:tamaokiyutaka:20211230111715j:plainうどん専門店というよりは、うどんが食べられる飲み屋という感じだろうか

f:id:tamaokiyutaka:20211230111731j:plainメニュー表。うどんは小麦が2種類から選べる。異父兄弟ってなんだろう

f:id:tamaokiyutaka:20211230111739j:plain奥の席に座らせていただき、とりあえあずビールと柿とミントのマスカルポーネ白和えをいただく

店のBGMは80~90年代のはっきりと記憶に残っている日本のヒットソング。中山美穂、爆風スランプ、工藤静香、チェッカーズ、杏里など。

井上さんとお客さんの会話から「この季節はちょっと肌荒れしやすいですよね~」という内容が聞こえてきた。よくある乾燥肌の悩み相談かと思ったら、よくよく聞くとうどんの生地の話だった。

私の隣に座っていたご夫婦はうどん屋さんをやっていて、定休日によくここへ来ているそうだ。うどんの疲れはうどんで癒すということか。なんというか、この店は良い意味でちょっとだけ異世界だ。

f:id:tamaokiyutaka:20211230111806j:plain人と一緒には働けない性格だからと、忙しい日もワンオペで店を切り盛りする井上こんさん

ちょっと気持ちが落ち着いてきたところで、看板料理のうどんをオーダーした。

この店では定番だけど、世の中的には全然定番じゃないというネバリゴシ(小麦の品種名)を醤油で。

うどんは茹でおきではなく、注文ごとに生麺を茹でているようだ。もちろん井上さんの手打ちである。ビールを飲みながら茹で上がりをのんびりと待つ時間に心が落ち着く。

f:id:tamaokiyutaka:20211230111901j:plainうどんを茹でる専用の釜や水でしめるためのシンクなど、調理スペースの半分くらいはうどんのために割かれている

f:id:tamaokiyutaka:20211230111822j:plainトッピングに博多のうどん屋で食べて感動したごぼ天をセレクト。ペロンと置かれた耳と呼ばれる生地の端

麺の断面がグイっと盛り上がった手打ちうどんをすするとモニュンモニュンの歯ごたえで、口の中での挙動が艶めかしい。

居酒屋っぽい雰囲気の店だけど、この店の看板商品はうどんなんだぞ!という説得力がある一杯だ。

f:id:tamaokiyutaka:20211230111836j:plainうどん用の出汁で煮込んだおでん。小さいイカがかわいいな

うどんは小麦粉の違いで2種類あるようだ。どうせならもう片方のチクゴイズミも食べてみたい。でもうどんの2杯目は変な気がする。しかもお酒を飲みながら。

井上さんに「うどんを2杯食べる人っているんですか?」と聞いてみたら、「この店だと2~3杯はザラですよ」とのことだったので、ならばと温かいかけで注文。

f:id:tamaokiyutaka:20211230111842j:plain他のお客さんが食べていておいしそうだったので揚げもちをトッピング。炭水化物オン炭水化物だが後悔はしていない

さっきのネバリゴシとこのチグゴイズミは異父兄弟の品種とのこと。小麦の違いまではわからないけれど、こちらもムニュンとしてうまい。

イリコがしっかりと感じられる琥珀色の出汁には、鰹節、サバ節、ウルメ節、真昆布、干し椎茸、ドライトマトなどが入っているそうだ。冷たいうどんもいいけれど、温かいうどんもこの時期はうれしい。

この軽く飲みながらうどんを食べるというスタイルは、炭水化物好きとしてはかなり楽しい。もっと胃袋に余裕があれば、小麦2種を冷と温で合計4杯食べ比べたいくらいだ。

長々と店の感想を書いてしまったが、飲食店を紹介するサイトじゃなかった。

子どものころ、一番のご褒美がうどんだった

後日、定休日に井上さんの店と自宅のある駒沢大学駅周辺を散歩しつつ、改めてインタビューをさせてもらった。

四年前に結婚した際、旦那さんに馴染みのある田園都市線沿線で猫が飼える物件を探し、一人暮らしをしていた武蔵小山から駒沢大学へと引っ越してきたそうだ。駒沢大学は家が先で、店が後なのである。

最初は商店街がないことに物足りなさを感じていたが、すぐに味わい深い個人商店が多いことに気が付き、すっかり気に入っているとか。

f:id:tamaokiyutaka:20211230112005j:plain昼間通りがかった人は、まさかこの奥にうどん屋があるとは思わないだろう

――出身はどちらですか。

井上こんさん(以下、井上):「福岡県が生まれですが3歳くらいで千葉の鎌ヶ谷市に引っ越してきたので、福岡の記憶は全然ないですね。たまたま転勤中だっただけで、両親の実家があるという訳でもないです」

――鎌ヶ谷市育ちでしたか。

井上:「日ハムの二軍と大仏で有名な」

――梨とか。友人の家があるので遊びに行ったことがあります。うどんのイメージはない地域ですけど、子どものころからうどんが好きだったんですか?

井上:「習い事の帰りに親がなにかおいしいものを食べさせてくれて、自分の中で一番テンションの上がるご褒美が杵屋の手打ちうどんでした」

――どこかの名店とかではなくチェーン店というのは意外でした。杵屋、おいしいですよね。それがうどん好きになる原体験。

井上:「でも小学校、中学校まではバレエをやっていたので、あんまりうどんを食べちゃいけなかったんです」

――体形維持のために炭水化物は控えなければと。

井上:「高校からは学食も始まるので、もうだれも私を止められない。昼食は絶対にうどん。高校の文化祭でもうどん屋をやりました。クレープとかの案を押しのけて。店名はUDONを逆から読んでNODU(ノドゥー)」

――かっこいい。

井上:「それが初めてのうどん屋体験。うどんの玉(麺)を買ってきて、茹でて市販の出汁と出すだけですけど。うどん屋ごっこですね」

f:id:tamaokiyutaka:20211230112015j:plain隣駅の三軒茶屋や桜新町も徒歩圏内で、家賃もそっちに比べれば多少は安い。猫の世話を頼める親友が近くに住んでいるという幸運も

井上:「大学は中退しました。しばらく飲食店で働くフリーターをしていて、そこからフリーライターになろうと思って。

最初は横浜の情報を伝えるローカルサイトの『はまれぽ.com』でした。まったくの未経験だったのでハッタリで入ったようなものですね。初めての取材は2013年で『辛さ120倍のタンタンメンを食べる』というレポートでした」

――うどんではなくタンタンメン。

井上:「はまれぽは顔出しの記名記事だったので、ライター『井上こん』として、読者にボコボコ叩かれながら鍛えられました。そこから女性向けのウェブメディアとかをやりつつ、紙媒体の『週刊SPA!』や『散歩の達人』でも書かせてもらえるようになると、飲食店の取材が楽しくなって、そっちばっかりやるようになりました」

――うどん専門ライターではなく、飲食店全般を取材するフリーライターだったんですね。

井上:「うどんの記事は、2018年くらいに福岡からうどんを出す居酒屋が東京に来て、うどん酒場というジャンルが来るかもしれないぞっていう記事を書いたのが初かな。

うどんはもちろん大好きでした。継続的にではないですけど、25歳くらいから普通に家で打っていたし。仕事ではなく完全に趣味として」

――趣味としてのうどん打ち。

井上:「当時は何もわからなかったから、スーパーで適当な小麦粉を買ってきて、こんな感じかなーって打っていました。不格好なんですけど、なんとなくうどんになる。そこがそば打ちとは違いますよね。うどんは成功体験を得られやすい麺だと思います。

なにがきっかけというのはないんですが、ライターや編集者との横のつながりで、あの子はうどんのこと詳しいらしいよって少しずつ認識してもらえるようになって、うどん屋さんの取材が増えてきました」

f:id:tamaokiyutaka:20211230112059j:plain駒沢大学はマルエツとオオゼキとマイバスケットとサミットと西友という大手スーパーが勢ぞろいで、三軒茶屋までいけば肉のハナマサもある夢のエリア。魅力的な飲食店も多く、井上さんが重要視する「食」に感する満足度が高い街

うどんに使う小麦の知識で一番になろうと思った

井上:「うどんの取材をしていく中で、原材料である小麦粉について詳しく知りたいという気持ちが強くなったけど、それを教えてくれる人があまりいなかった。親父の代から同じ粉とか、修行先と同じ粉を使っている店が多いんですよ」

――打ち方よりも粉が気になりましたか。

井上:「もちろん粉にそこまでこだわらなくておいしいうどんは打てるし、読者も別に粉の違いなんて欲していないけど、この粉はこういう特徴を持っているから、こうやって魅力を引き出しているんだよっていう話をもっと聞きたい!」

――うどんは小麦粉と水と塩だけでつくるから、確かに粉の違いは気になりますね。

井上:「もしかして、うどんの粉について詳しい人って店にもライターにもいないんじゃないかと気が付いて、だったら私がうどんの粉について一番詳しい人になろうと、そこから勉強を始めました。もちろん研究者とかにはかなわないですけど。

いろいろ調べていくと、小麦粉の特徴の中でも、特に小麦の品種による違いがおもしろくなっちゃって」

※小麦粉には製粉会社が使用目的に合わせて数種類をブレンドした小麦粉と、単一の小麦だけでつくられた小麦粉がある。

――お米だったらコシヒカリやササニシキがそれぞれ違う特徴を持っているように、小麦の品種にもちゃんと個性があって、そこに井上さんは惹かれたと。なかなかニッチですね。

井上:「それで仕事をガンガン取ってやろうとかは思っていなくて、基本的にはフリーライターとして生計を立てつつ、品種の知識がちょっと生かせればいいかな~くらい」

――フリーライターをやるなら、なんでも武器はあった方がいいですからね。

f:id:tamaokiyutaka:20211230112124j:plain広々とした駒沢オリンピック公園がすぐ近くにあり、サイゼリヤでテイクアウトした料理を持参して夫婦でピクニックするのが楽しみ

f:id:tamaokiyutaka:20211230112138j:plain集団でなければ飲酒をしてもよいという懐の深さ

f:id:tamaokiyutaka:20211230112150j:plainスケボーなどができるパークも完備。井上さんもやってみたいそうだが、手を怪我したらうどんが打てないので我慢している

井上:「小麦粉の勉強といっても強制じゃないから、全然辛くはなくて。勝手に打ちまくって、勝手に勉強をして、自分のブログに記録していたら、そのうちにイベントをやりたくなって、3品種の小麦粉で打ったうどんの食べ比べイベントとかをやるようになりました」

――楽しそう!

井上:「人に出す作業はド素人なので、めちゃくちゃ遅い提供になったりはしていたけど、自分が打ったうどんがお客さんに響くみたいな体験をそこでして」

――「打てば響く」ですね。……うどんを。

スナックの間借り営業で始まった松ト麦

井上:「もっと多くの人に食べてもらいたいなと思っていたら、Twitterに誰かがリツイートした『松陰神社のスナックで日替わりオーナーやりませんか?』っていう情報が流れてきたんです。松陰神社なら遠くない。知らない人だったけどすぐにDMを送って、翌日に顔合わせをして、週一の営業が決まりました」

――展開が早い!

井上:「ライターとして文章を書くことも大事ですが、すぐに過去へと流れていっちゃう感覚があって。書くという仕事にプラスして、他の手段でうどんの魅力を伝えることをやりたいぞと。それならば現場を持とうと」

――それで記事を読ませるだけでなく生地を食べさせるように。確かに文章だけだと読者の記憶に長く残らない場合が多いですよね。実際に食べるという経験なら、しっかり思い出として残りそうです。

井上:「でもだいたい思い付きですよ。旦那にも間借り営業が決まってから報告しました。事後報告です」

f:id:tamaokiyutaka:20211230141913j:plain間借り時代の松ト麦。完全にスナックだ。写真提供:井上こん

井上:「その店は松陰神社駅が最寄りだったので、店の名前を松ト麦にしました。毎週月曜日だけの間借り営業なので、調理道具や食材を置いておけない。だから毎回イケアのでっかいバッグとリュックを持って通っていました」

――間借りは気楽に始められるけれど、食材も時間も手間もロスが多そうですね。駒沢大学から松陰神社は大荷物だと微妙に遠いし。

井上:「カセットコンロでやっていたので、お湯がなかなか沸かないのが一番辛かった。電気ケトルで常に沸かしておいて、鍋に足しながら茹でるんですけど、うどんを頼んでから一時間待ちとかザラ。

スナック形式だからどうにか間が持つというか。気の長いお客さんだけが、お酒を飲みながら待ってくれる。しかも当時はつまみも二品とか三品しかない。そんな中でよく待ってくれました。

もちろんお客さんはみんなありがとうっていう気持ちなんですけど、松陰神社時代から来てくれているお客さんには、特に思い入れがありますね」

――バンドのインディーズ時代を支えてくれた古参ファンみたいだ。

f:id:tamaokiyutaka:20211230141917j:plainここでこだわりのうどんを提供するのは大変だったろうな。写真提供:井上こん

井上:「これまでは記事を書いたり、たまにテレビやラジオに出たりだったのが、食べてくれる人のリアクションを目の前で見られる。これがおもしろいんですよ。

私は趣味で小麦の品種を擬人化していたけど(色白でもち肌のおすもうさんみたいな品種とか、物腰の柔らかい着物美人みたいな品種とか)、どうしても情報を知りすぎて先入観を持ってしまう。この小麦はこういう家系だから、きっとこういう味だろうって。

何も知らずに初めて食べる人が、『オーバーオールを着た田舎のおじさんみたいな味がする!』とか、私にはない感性をぶつけてきてくれるのがめちゃいい!」

――まったく先入観のない、まっさらな感想を聞けるのがうれしいんだ。

井上:「やっぱり書くとかしゃべる以外に、つくって食べてもらうという手段を持つのが大事だと実感しました。もっとこういうアプローチで食べてもらおうとか、次のアイデアもどんどん出てきます」

f:id:tamaokiyutaka:20211230111753j:plain全国のうどん店を主観によるエッセイとしてまとめた「うどん手帖」という著書も出している

とうとう自分だけの店をオープンした

井上:「間借り営業は2019年の5月から2020年の8月まで。やっているうちにやっぱり楽しくなって、自宅から通える範囲で物件を探して、2021年1月にここをオープンしました。

大家さんがすごく良い方で、自分のFacebookで店の宣伝をしたり、友達を連れてきてくれたりします。駒沢大学に引っ越してきて一番のラッキーは、この店と出会えたことかも」

――でもすごい場所を選びましたね。知らないと絶対に入れないうどん屋さん。

井上:「よく言われますね。でも1階の路面店じゃなくて、2階か地下か、隠れ家っぽいのもいいなと思っていました。私の店は小腹が空いたからフラッと入るような、早くて安くてうまいみたいなうどん屋さんじゃないので。

誰かの紹介とか、SNSで見たとか、来ようと思って来てくれる人なら、多少わかりづらい場所でも来てくれるだろうと。

でも看板だけを見て、『うどんあるんですか?』ってフラっと入ってきたお客さんがこれまでに2組いました」

――よく入ってきましたね。

井上:「『勇気ありますね~!』っていっちゃいました。お客さんの6~7割は常連さん。SNSや口コミで知ってくれた地元の人も少しずつ増えています。

不思議と福岡出身の人がすごく多いんですよ。体感で7割は福岡人。実際は4割かもしれないですけど、それでも多いですよね。この間もカウンター全員が福岡人、みんなバラバラに来ていたのに。福岡出身者の潜在的なうどん好きの多さがわかります」

――福岡はラーメンだけじゃなく、うどんもおいしいですからね。前に福岡のおすすめ店を井上さんに教えてもらって、それを巡る旅をしたら、すごく個性的なうどんと出合えましたこちらの記事)。

井上:「あれはまだまだ氷山の一角。『福岡のうどんは腰がない』ってテレビの人はすぐ言いますけど、それだけじゃないから。そんな言葉だけじゃ表現できないから。

おじいちゃんおばあちゃんがやっている昔ながらの柔らかいうどんだったり、若い人がやっている新進気鋭のうどんだったり。やわやわもあるけど、それだけじゃない。レトロからモダンまで、層の厚さがまた福岡の魅力でもあるんです!」

f:id:tamaokiyutaka:20211230112028j:plain駒沢大学付近でお気に入りの店は博多どかどか団。焼きラーメンが絶品とのことで、取材後に飲もうと思ったが残念ながら定休日だった

井上:「福岡だけじゃなく、『〇〇にいくので、うどんのいい店を教えてください』って聞かれたら、『どういう系がいいですか?』っていうカウンセリングから絶対始まります」

――うどんコンシェルジュだ。

井上:「お客さんのうどん関心度を上げることを勝手に使命にしていて、今までこことここのうどん屋に行ったことがあるっていう人なら、次はこのあたりどうですか?と提案をする。すると覚醒するんですよ。丸亀製麵しか行ったことがなかったっていう人が、うどんの食べ歩きが楽しくなっちゃって、いろんな店に行くようになったり

――眠っていたうどん好きの才能を引き出してあげる訳ですね。

井上:「もちろん無理くりうどん好きの側に引きずり込む訳じゃない。私がうんちく垂れまくるのはうざいんで、そういうのは友達とか店のお客さんに聞かれたときだけです。どんどん聞いてほしい。

でも全然知らない人から、TwitterのDMとかで聞かれるのは対応できないですけど」

――それに答えていたら時間がいくらあっても足りないですね。そういう商売じゃないし。

井上:「お客さんから得られる情報も貴重で、例えば煮込みうどんが有名な地域出身の方から、地元民が実は食べている隠れた名物うどんを教えてもらったり。この店があれば、そういう会話が自然に聞こえてくる。これまで日高屋とか花月くらいしか行かなかったラーメン屋さんも、麺にこだわっている店を教えてもらって行くようになりました」

――生の口コミ情報だ。

井上:「うちに来て、合わないなって感じる人もいると思います。その日の雰囲気にもよりますが、何度もうどんっていうワードが飛び交うのはしんどいなって思ったら、ごめんなさい!」

――別にみんな来てくださいっていう店じゃないから、それでいいと思います。この空間を楽しめる人だけが来ればいい。

井上:「万人受けなんて絶対しないことはわかっているので。その分、逆に濃度がどんどん高まっているかも。とはいえ、うどんマニアだけの店でもないつもりなので、つまみを食べて、ちょっと飲んで、締めにうどんを食べていただくような方も大歓迎です!」

f:id:tamaokiyutaka:20211230112243j:plain特別にうどんづくりを見せてもらった。怒られるのが苦手なので、弟子入りなどはせず独学で打ち方を覚えたそうだ。生地は前日に仕込み、営業前に伸ばして切る

f:id:tamaokiyutaka:20211230112252j:plain塩水と粉を混ぜる水回し。使う道具にこだわりはなくタライを使っている。これが本当のタライ回し。手打ちの店でも水回しは機械でやるところも多いが、井上さんは小麦が好きなので必ず手作業で行い、粉の状態や個性を毎回確認している

f:id:tamaokiyutaka:20211230112306j:plainそぼろの状態でしばらく休ませたら、踏んで伸ばして畳んでを繰り返し、温度管理ができるワインセラーで一晩寝かせる。なかなかの重労働だ

f:id:tamaokiyutaka:20211230112315j:plain生地を伸ばす作業は製麺機と麺棒の併用。この機械は近々買い替える予定で、公開時は別のものになっているはず。25キロ単位でしか買えないような業務用小麦粉の置き場ができたこと、それを次々消費できることが店を持った大きなメリット。以前は自宅に100キロ以上の粉を置いていたらしい

f:id:tamaokiyutaka:20211230112327j:plainあっという間に伸びていく生地

f:id:tamaokiyutaka:20211230112333j:plain駒板(麺を切るガイドにする板)は使わずに包丁だけで切っていく

f:id:tamaokiyutaka:20211230112338j:plainこうして手間暇かけて打ったうどんが、瓶ビールよりも安いのが商売の難しいところ

うどんをずっと好きでいたいから週休四4日の店にした

――店の営業は週3回、土曜の昼夜、日曜の夜、月曜の夜だけ。営業日数が少ないのはなぜですか。

井上:「店が休みの日は、店以外のうどんの仕事を主にしています。メディア対応だったり、文章を書いたり、うどんを食べに行ったり。つくるだけじゃなく、自分もうどんを食べないと薄まっちゃうので」

――情報のインプットは大事ですね。

井上:「飲食店をやられている方のお悩みで、行きたい店があるけれど定休日が一緒とか、休みの日も仕込みがあるからどこにも行けないという話をよく聞きます。私の場合、それは困る。うどんが好きで始めた店なのに、仕事に追われてうどんを追えなくなるのは本末転倒じゃないですか」

――週4の休みって家賃がもったいなくないですか?

井上:「家賃が安い場所だからできる働き方ですよね。これが駅前とかだったら、人を雇って週7日、昼夜営業して、お客さんを数字としてみるしかなくなっちゃう。

自分の場合は飽き性でもあるし、気が散りやすい性格でもあるから、店は週3回くらいに抑えて、他のこともやってバランスをとるのが私の働き方としてはベスト!」

――同じことを毎日やるのは向いていないと。

井上:「定休日が多いからこそ好きなイベントもできます。カレーマニアと一緒にカレーうどんをつくったり、日本酒マニアとうどんマリアージュの会をやったり」

f:id:tamaokiyutaka:20211230112208j:plainコロナ禍で困っている全国のうどん屋さんを応援するために井上さんがつくった、製粉会社の主力商品をプリントした手ぬぐい。かっこいいので購入した

井上:「よく『好きなことならいくらやっても飽きないでしょう』って言われますけど、好きなことだから、いろんな角度から探求したい。

自分が好きなうどんにマイナスの気持ちを持つのって嫌じゃないですか。絶対嫌いになりたくないので、ご機嫌なままうどんと接していたいっていう感じですね。そのためには小規模で、できる範囲で。

気持ちとしては小麦粉のアンテナショップ。だから製粉会社の方がうちの小麦粉が使われているからと食べに来てくれたり、うどん屋さんや自家製麺のラーメン屋さんから『この品種ちょっと興味あるな、うちも取り寄せてみようかな』とか言われるとアンテナショップ冥利ですよね

f:id:tamaokiyutaka:20211230112220j:plain「駒沢っぽいうどんをつくってください」と無茶ぶりをしてみた。井上さんがオオゼキで買ってきたのは、コマツナ、マツタケ、笹かまぼこ。豚肉。この意味がわかるだろうか

f:id:tamaokiyutaka:20211230112358j:plainコマツナ、マツタケ、ササカマ、ワンタン(豚コマ入り)で、コ・マ・サ・ワ。駒沢なべやきうどんだ。足りない濁点は二つ並んだ笹かまぼこということで。水でしめない茹でたて釜揚げうどんでつくったのでムニョンムニョン感がすごい。同じ生地のワンタンは形が異なるので全然違う触感になる

うどんが大好きだから、うどんの楽しさを伝えることを仕事にする。でも仕事にしたことで、うどんを嫌いになりたくないからがんばりすぎない。好きなことを仕事にするには、そういう働き方もあるのだ。

飽き性なことを自認しつつ、この店はずっと続けたいからと、おばあちゃんになっても使える製麺機に買い替えをしたそうだ。

それにしても間借り営業くらいならともかく、都内に自分の店を持ってしまう行動力がすごい。状況に応じて自分に合った仕事を生み出す柔軟な発想と生き様が、井上さんの打つうどんに表れているように思えた。

f:id:tamaokiyutaka:20211230112707j:plainカウンターには花ではなく小麦の穂が飾られていた

余談としての小麦勉強会

ここから先は私の個人的な興味で聞かせていただいた、ちょっとだけマニアックな小麦粉の話となる。ご興味ある方だけどうぞ。

――松ト麦の定番で使っているネバリゴシはどんな小麦ですか。

井上:「東北の岩手、青森、秋田で作っている小麦です。分類としては、低アミロースといわれるもちもち系の関東107号を母に、腰の強さに定評のあるチホクコムギを父に持つエリート小麦です。

すごく優秀な小麦ですが、まだまだ知名度が低くて、産地の東北でさえあまりうどん用として流通していません。ネバリゴシ100%のうどんを出す店は東京だとうちが初。まるで粘膜のように表面が柔らかく、ニュルっと艶めかしいうどんができます」

f:id:tamaokiyutaka:20211230112438j:plain札の文字が赤くなっているのがその週に提供されるうどんの小麦。2種類あると茹で分けるのも面倒だが、それでも2種類出したいのだから仕方がない

――実際にネバリゴシのうどんを食べると、艶めかしいという説明も納得できます。ところで小麦の父と母ってどういうことですか?

井上:「小麦は雌雄同株なので通常は自家受精しますが、別々のおしべ(父)とめしべ(母)で掛け合わせて品種改良をすることができます。

例えばA小麦が父、B小麦が母の品種と、A小麦が母、B小麦が父という品種だと、両親が一緒でも父母の役割が違うので別物になる」

――競走馬の血統と違って、一つの品種が父にも母にもなる。

井上:「私は系譜図とかつくって喜んでいますけど、別に食べる人が覚える必要はまったくないです。この小麦は前に食べた品種と異父兄弟なんですよって説明できると、少しは理解してもらいやすいかなと。小麦には品種というものがあるんだって、ちょっとでも興味をもってもらえればうれしいですけど」

f:id:tamaokiyutaka:20211230112445j:plain店に貼られているうどん小麦系譜図

f:id:tamaokiyutaka:20220106002741j:plain最新のデータをいただいたので、気になる方は画像をクリック!

――理想のうどんを打つには、打ち手の技術とは別の話として、理想の小麦を選ばないといけないんですね。よく考えればお米もそうですね。うるち米でお餅はできないし、もち米でお寿司は握れない。

井上:「もちもちしたうどんを打つには、低アミロースの小麦が必要です。小麦粉のもちもち感を阻害するアミロースという物質を作るwaxy遺伝子には、Wx-A1、Wx-B1、Wx-D1があります。

それぞれに違いがあるのですが、ざっくりいうとこれらが欠失しているほど小麦はモチモチします。一つの欠失だとやや低アミロース、二つだと低アミロース、三つだともちです」

――もち!

f:id:tamaokiyutaka:20211230112452j:plain真剣な表情で低アミロース小麦の説明をする井上さん

井上:「定番で使っているネバリゴシはWx-A1とWx-B1が欠失しているから、低アミロースの小麦です。

父のチホクコムギはWx-B1のみ欠失のやや低アミロース、母の関東107号はWx-A1とWx-B1が欠失の低アミロース。

関東107号は様々な低アミロースを生み出しているので、低アミロース小麦界のビッグマザーと勝手に呼んでいます」

――かっこいい。ちなみにAもBもDも欠失している小麦というのも存在するんですか?

井上:「あります。世界の小麦史の中で2番目に大きい発見だといわれているのが、AとBとDもない小麦の誕生だといわれています。これはもう完全なもちで、日本で生まれました」

――完全なもち!

f:id:tamaokiyutaka:20211230112654j:plain家庭用製麺機を持参して、憧れの製麺室に入らせていただいた。駒沢鍋焼きうどんのワンタンは、ネバリゴシの生地でつくったもの。生地にかんすいが入っていないので、どちらかというと水餃子だが

f:id:tamaokiyutaka:20211230112521j:plainせっかくなので井上さんに製麺をしていただいた

井上:「もち盛系C-D1478 (はつもち) がそれで、さらに品種改良を重ねて栽培しやすくしたものがもち姫。2006年に命名登録された新しい品種で市販されています。

もち姫は個性的すぎるので他の小麦粉と混ぜて打つことが多いですけど、もち姫100%で打ったうどんはタコの吸盤みたいにヌメヌメになります」

――それは気になりますね。中華麺にしてもおもしろそう(スマフォから早速購入)。

井上:「逆にwaxy遺伝子を三つとも持つ小麦は野生型と呼ばれます。昭和初期からつくられているおなじみの農林61号とか、近年だとさとのそらとかがそうです。まったくモチモチ感がない小麦粉なので、どんな名人が打ってもネバリゴシみたいなうどんは絶対につくれません」

――武蔵野うどんがモチモチではなくガチガチの麺を楽しむ料理なのは、伝統的にそういう小麦の粉を使っているからなんですね。どれが良いとか悪いとかではなく、適材適所だ。勉強になります!

f:id:tamaokiyutaka:20211230112536j:plain井上さんの生地を製麺機で伸ばして切って、しっかり茹でて水でしめた生麺の冷麦。同じ生地でも形状によって触感がまったく変わるのが麺類の魅力

f:id:tamaokiyutaka:20211230112606j:plain「ネバリゴシの生冷麦いいですね!夏に限定で出そうかな~」

井上:「低アミロースの話が出たのでついでに一ついいですか。低アミロース小麦を低アミロ小麦と略してしまうと、全然違う意味になるので注意してください」

――え、どういうことですか?

井上:「低アミロ小麦とは、収穫前に雨に当たったり湿度が高い日が続いたことで、胚芽から芽が出てしまい(出ていなくても胚芽が準備をしてしまい)、澱粉を分解する酵素が活性化して、澱粉の粘性を表すアミログラム最高粘度が低下した小麦のことです」

――低アミロは粘度が低下しているんですか。もちもちの低アミロースとは意味が全然違いますね。

井上:「発芽小麦とも呼ばれ、発芽玄米と同じで栄養価は高いけど、うどんにはあまり向かない小麦粉になります」

――大変勉強になりました。そのうち低アミロ小麦、じゃなくて低アミロース小麦を使った製麺イベントやりましょう!

 

■井上こんさんのTwitter

【いろんな街で捕まえて食べる】 過去の記事 

suumo.jp

著者:玉置 標本

玉置標本

趣味は食材の採取とそれを使った冒険スペクタクル料理。週に一度はなにかを捕まえて食べるようにしている。最近は古い家庭用製麺機を使った麺づくりが趣味。『育ちすぎたタケノコでメンマを作ってみた。 実はよく知らない植物を育てる・採る・食べる』(家の光協会)発売中。

Twitter:https://twitter.com/hyouhon ブログ:http://www.hyouhon.com/