東京で暮らすなら、いつも心に「不真面目」を――みうらじゅんさん【上京物語】

インタビューと文章: 朝井麻由美 写真: 関口佳代

進学、就職、結婚、憧れ、変化の追求、夢の実現――。上京する理由は人それぞれで、きっとその一つ一つにドラマがあるはず。地方から東京に住まいを移した人たちにスポットライトを当てたインタビュー企画「上京物語」をお届けします。

◆◆◆

今回「上京物語」に登場いただくのは、みうらじゅんさんです。「マイブーム」や「ゆるキャラ」といった言葉の生みの親としても知られるみうらさん。1958年に京都で生まれ、18歳の夏、美大への進学を目指して上京します。そして予備校に通い、2浪を経て武蔵野美術大学に合格。在学中に『月刊漫画ガロ』でマンガ家としてデビューします。

東京で暮らし始めて40年ほど。三鷹や国分寺、高円寺、原宿など、さまざまな東京の街で過ごす中で、泉麻人さんや糸井重里さんらとの出会いをきっかけに「みうらじゅん」としての活動の幅を広げていきます。そんなみうらさんにとって、東京はどんな場所なのかを尋ねてみました。

親戚の老夫婦のアパートに、年上の彼女を連れ込んでいた

――みうらさんと言えば「高円寺」のイメージが強いですが、上京されてすぐに住み始めたのでしょうか?

みうらさん(以下、みうら):それが、そうでもないんです。最初は三鷹に住んでいました。高円寺に住んだのは大学を卒業してからで、それも1年半くらいしかいなかったんだよね。僕、いろんな人に日本のインドこと高円寺に住んでいるイメージがあるって言われるんだけど、そんなもんなんです。

――そうだったんですね。三鷹を選んだ理由は?

みうら:親戚の老夫婦の家が三鷹にあって、そこに居候させてもらっていました。老夫婦の息子が使っていた部屋が空いていて、親が「そこに住むなら東京行かせてやる」って。でも、老夫婦は21時には寝ちゃうから物音立てると怒られるし、テレビも見られなくて、すごく不便でしたね。それに老夫婦だからか、ご飯も菜っ葉みたいなのしか出てこないのよ。

――菜っ葉(笑)。そもそもどのようなきっかけで上京されたのですか?

みうら:僕はそのとき浪人生で、お茶の水にある美大の予備校に通ってたんです。「東京のデッサンと京都のデッサンは違う」、「東京のデッサンをやらないと東京の美大には受からない」とか親を説得して。

横尾忠則さんとか、憧れの人がいる現場に行きたかったのもあるけど、半分は口実だったかもしれません。ひとりっ子って、実家にいると親に監視されている感じがずっとあってね。その前の年に、エロ本が大量に見つかって親に叱られたのもあり、エロ本を自由に見られる環境に行きたかったんですよ。

――以前、「エロスクラップ」の展覧会などもされていましたよね。エロ本スクラップは実家にいたころから?

みうら:スクラップを始めたのは上京してからですね。今はエロスクラップが548冊になっているから、それだけでも上京した意味はあったと思います。

――ちなみに、予備校のほうは……?

みうら:三鷹からお茶の水までが遠くて、トータルで1カ月も行ってなかったと思います。それに、そのとき知り合った23歳の女子大生と恋に落ちて、童貞を卒業して、もうそっちのほうが忙しくなってね。休みの日は車の助手席に乗せてもらって銀座や六本木でデートをして、平日は彼女が大学から帰ってくるのを待つだけの生活をしていましたね。

――三鷹の、老夫婦のアパートで。

みうら:はい。僕の部屋が1階の角部屋だったから、窓から入れるんです。玄関から入ると老夫婦にバレちゃうので、窓からゴロンと転がり込んで。結局、密会しているところを老夫婦に見つかって、追い出されたんですけどね。

憧れの聖地・高円寺に住んでいたころ、泉麻人さんと出会う

――追い出されてからはどちらへ?

みうら:西荻窪の4畳半のアパートを経て、武蔵美(むさび)に受かったので大学に近い国分寺に引越しました。授業にはほとんど出ていなかったけど、大学は楽しかったです。

高校までも友達はいたけど、すごく話が合うかといったら、そうではなかったんです。僕は体育会系でも文化系でもなくて、美術系だから。それはたぶん、今でいう「サブカル」なんですよ。サブカルのはしりみたいな友達と、食堂から持ってきたトマト缶で缶蹴りしてさ。

――主な行動エリアは大学がある小平や国分寺の街ですか?

みうら:あとはたまに長旅をして、友達がたくさん住んでいる吉祥寺にも行きました。友達の中に、髪がお尻くらいまであるロン毛の男がいて、3浪していて年も上だから、いろいろなところに連れて行ってくれたんですよ。豚足だのマッコリだの、当時は存在も知らなかったものを教えてくれました。

――そして大学卒業後に、ようやく高円寺に引越したと。

みうら:はい。大学卒業した年に、怪獣好きの友達と二人で住み始めました。

高校のころに好きだったフォークの曲に、高円寺や阿佐谷がやたら出てくるんですよ。当時は、東京といえば「銀座」や「新宿」しか知らなかったけど、どうやらそこが「フォークの聖地」らしいと。だから、高円寺は僕にとっていつかは住まなきゃならない憧れの地でした。ちなみに高円寺に住んでいたころにもう一人、別の怪獣好きの人と出会いまして。コラムニストの泉麻人さんなんですけど。

――それはどのようなきっかけで?

みうら:当時、僕は『月刊漫画ガロ』でマンガを描いていて、ガロの編集者だった渡辺和博さんに「怪獣好きの面白い奴がいるから」と紹介されたんです。泉さんは当時『TVガイド』の編集者で、怪獣特集をやりたがっていてね。小学1年生のころからつくり続けていた怪獣スクラップを見せたらたいがいの編集者は驚くから、適当にそれ見せて驚かせて帰ろうと思っていたら、泉さんは「俺もやってるんだよね」と紙袋から出してきたの。しかも、まったく同じスクラップ帳を使ってた。

――へええー!

みうら:でも、貼り方は僕とはちょっと違っていてね、怪獣の横に、当時の力士の写真とかが貼ってあるの。僕は怪獣のみ貼っていたけど、あの人は「時代」が好きだから「時代が分かるもの」を貼っているのよ。それで、戦友を見つけたみたくなって二人でえらい盛り上がりましたよ。

みうらさんのスクラップ帳

みうら:そうやって知り合った人たちと酒を飲んで、たまに仕事をもらって。まあ、仕事なんてほとんどないから、たいていは夕方くらいまで寝て、起きたら高円寺のパル商店街や古本屋をゾンビみたいにうろうろしていたんですけど。一緒に暮らしてた友達は会社員だったから、そいつの仕事が終わるまで待って、朝まで飲んで。そんな生活でも悲壮感とか不安はなかったな。30歳くらいまで仕送りをもらっていたからかもしれない。

糸井重里さんの一言で、原宿に事務所を借りることに

――わずか1年半ほどで高円寺を去ったとのことですが、何か理由があったのでしょうか?

みうら:糸井さんに、「こんな高円寺の古いアパートに住んでいるようじゃ、いい仕事は来るわけないよ」と言われたんですよ。高円寺が悪いわけではなく、仕事と生活を分けるために事務所を持て、という意味で糸井さんは言ってくれたんだと思います。

当時はテクノブームでみんなテクノカットななか、僕はラストサムライみたいに髪が長くて、それも「切れ」って言われて。糸井さんのことは信じてたから、髪を切って、原宿で事務所を借りました。それが、「ハイシティ表参道」という、シャレた名前でね。カッコいいと思って借りたんだけど、今思えばその精神が恥ずかしいよね。ハイシティ表参道にいたのは2年くらいだったかな。その後、結婚して参宮橋に住みつつ、事務所は代々木に移り、また2年くらいで青梅街道沿いに引越したと思います。

――どの街もかなり短期間で引越されているんですね。

みうら:事務所は今まで6回くらい引越してます。くだらない置き物とかバカなグッズを買っていたから、次々に事務所を大きくしていかないと、収納できないんですよ。事務所を広くするために働いてきました

――今、インタビューさせていただいている部屋にもコレクションがたくさん並んでいますね。

多くは取材時開催中だった個展に出張中だったため、これらは「二軍」とのこと

みうら:コレクション、というわけでもないんですよ。僕はコレクターではないので。僕の商売は基本「ない」ものなので、こういうものを持っておいて、必要なときにすぐに出てこないといけないんです。僕の肩書は「イラストレーターなど」なので。

――「など」

みうら:そう、「など」が商売。この「など」は自分でつくったマイルールでやってきた職業だから、いろんなものを持っていなきゃいけないんです。漢字の「三浦純」じゃなくて平仮名の「みうらじゅん」って奴がそう言うから、しょうがなく集めてるの

「みうらじゅん」は、こういうバカなグッズをスッと出せるような奴じゃないとダメだって、あるときから決まったんですよ。みうらじゅんという奴の「会議」で、そう決まった。「みうらじゅん」は概念で、サングラスをかけてロン毛でいなくちゃいけない。本当に不自由でしょうがないけど、真面目にやっているんです。

――どのようにして、今の「みうらじゅん」という概念に至ったのでしょう?

みうら:昔、自分らしくない「みうらじゅん」を演じていたんですよ。周りからも「お前らしくない」と思われていたんじゃないかな。それが『アイデン&ティティ』というマンガを描いたときに、みんなに「みうららしくなった」と言ってもらえて。それまで、つくり上げてきたキャラクターに無理があったんだと思います。ロックだと思ってやっていたんだけど、「マイロック」ではなかったんです。そこから、人のことを書くのは一切やめて、自分のことだけを書くようになりました。

真面目過ぎると、東京では生きづらい

――上京する前と後で、東京に対するイメージって何か変わりましたか?

みうら:東京は、いい街だね。これからも住むなら東京がいい。地元では「東京は冷たい嫌な街だ」と言われてたけど、住んでみて分かったのが、嫌な奴ってみんな田舎から東京に出てきている人なんだよね。自分の頭の中に「嫌な東京人」のイメージがあるから、自分自身がそうなっちゃっているんです。

――なるほど。

みうら:東京で生まれ育った人って、むしろボーっとしているよね。泉さんなんかもそうだけど。僕がいた田舎では、近所の人のことを詮索したり、誰かと比較したりするのが当たり前だったんですよ。だけど、東京の人はそういう生き方をしてきていなかった。田舎から出てきた人は、もっと業界人ぶってギラギラしていた気がします。そういう鎧が外せるまで、時間がかかるんですよ。

――鎧というのは、ナメられないように、という?

みうら:そうです。バカにされたくないからって、構えてる。東京が向いてなかった、って地元に帰っていくのは、鎧が外せなかった人なんです。

東京の人は優劣とか、年功序列とか、上下でものを考えていないんじゃないかな。少なくとも、当時、田舎から東京に緊張しながら出てきた僕にはそう見えました。カネにならないことを上下も打算もなく、「これって変だよね」と面白がって言っちゃえるんです。こんなこと、田舎じゃあり得なかった。サブカルって、こういうことなんだと思います。今はサブカルも評論めいてきて、昔とは変わってきているけれど、昔のサブカルというのは、「これって変だよね」と面白がっている人たちそのもののこと。これは、東京ならではの文化だったんですよ。

――東京に出てきて「得た」ものってありますか?

みうら:地元にいたら出会えなかった人たちと知り合えたことかな。大学時代の友達や、泉さん、糸井さんみたいな「こんな人いるんだ」って驚くような人と出会えたのは、自分の唯一の才能だと思ってる。

あの人たちを見ていて思うのは、ちゃんと不真面目なんですよね。いつも心に不真面目を入れておかないと、って思います。自我があり過ぎると、東京は生きにくいですから。自分に真面目過ぎると、自分を見失っちゃうかもしれない。いつも心に不真面目な部分を持っていたほうが、東京では楽しく過ごせると思いますよ。



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お話を伺った人:みうらじゅん

みうらじゅん

1958年京都市生まれ。肩書きは「イラストレーターなど」。武蔵野美術大学在学中に漫画家デビュー。1997年「マイブーム」で新語・流行語大賞、2004年度日本映画批評家大賞功労賞を受賞。著書に『アイデン&ティティ』(青林堂)、『色即ぜねれいしょん』(光文社)、『マイ仏教』(新潮社)、『「ない仕事」の作り方』(文藝春秋)など多数。共著に『見仏記』シリーズ(KADOKAWA / 角川書店)、『雑談藝』(文藝春秋)などがある。

聞き手:朝井麻由美

朝井麻由美

ライター/編集者/コラムニスト。著書に『「ぼっち」の歩き方』(PHP研究所)、『ひとりっ子の頭ん中』(KADOKAWA/中経出版)。一人行動が好きすぎて、一人でBBQをしたり、一人でスイカ割りをしたりする日々。

Twitter:@moyomoyomoyo

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編集:はてな編集部