ちょうどいい平熱な感じの街、東京都世田谷区「砧」

著: 竹中万季 

毎朝、鳥の声で目覚めている。このあたりの鳥はよく喋る。やたらとフレンドリーだし、なんだか伸び伸びとしている気がする。鳥にも地域性があるのかな、なんて考える。歯磨きをしながら、ベランダへ。ほとんど毎日家にいる日々だけれど、このベランダから見える広い空が大好きで、まったく飽きていない。

砧にあるこの家に引越してきたのは1年ほど前。それまでは、渋谷区富ヶ谷のマンションの8階、ワンルームの部屋で暮らしていた。富ヶ谷の街を選んだ理由はシンプルで、当時は渋谷にオフィスがあり、深夜まで働いていることも多く、タクシーでワンメーターで行ける場所がよかったから。渋谷か新宿で飲んでそこからすぐに帰れる場所がよくって、代々木八幡駅からも渋谷駅からも歩いて帰れる家は都合がよかった。おしゃれで雰囲気のいい店も立ち並び、友達も呼びやすくて、不自由していなかったのだけれど、そんななかで新型コロナウイルスが流行り出し、一気に生活が変わり始める。

ずっと家にいる生活に変わり、オフィスにも行く必要がない。狭いワンルームで二重サッシの窓の向こうの騒がしい音を聴きながら、変わりゆく社会の渦のちょうど真ん中に身を置いている気がして、少し息が詰まってしまった。好きだったこの場所にいる必然性がなくなってしまい、ちょうどパートナーと一緒に暮らす話をしていたこともあり、駆られて始めた家探し。住みたい場所があったわけではなくて、なんとなく小田急線・京王線・井の頭線沿いがいいなと思って全部の駅にチェックをいれて、広さや日当たりなど条件を細かくいれて出てきたのが、今の家だった。

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砧公園の自由さと、「砧」の詩的さに惹かれて

家の内見をした帰り道、コンビニのレンタサイクルで自転車を借りて、砧公園まで行ったときのことをよく覚えている。コロナ禍で公園が唯一の外出先になり、富ヶ谷に住んでいるときも代々木公園によく散歩に行っていたのだけれど、砧公園は不思議な「自由さ」を感じた。広大な敷地のなか、駆け回る子ども、ピクニックをする人、日焼けをする人、読書をしている人……それぞれが点々と散らばっていて、誰も干渉しない。自転車をそのへんに停めて、それぞれが公園で自由に過ごす姿は、そのころ観たミカエル・アースの『サマーフィーリング』という映画で観た風景とも重なる感じがした。

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木々の周りを抜けて公園をぐるりと周れるサイクリングコースを一周したころ、一緒にいた彼に確かめたら同じ意見で、そのまま不動産屋に契約の連絡をした。

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石に占うと書いて「砧」。日常のなかでこの漢字に触れることはないだろう。調べてみると、朝廷に収める布を柔らかくして艶を出すために使った道具から生まれた言葉だそうで、紫式部も秋の哀れさと人生の無常を表す音として「砧の音」を用いながら歌を詠んでいたそう*1。想像が広がるような、詩的な地名だ。わたしのパートナーはたまにタロット占いをしている。石に占い、ちょうどいいじゃん、なんてことも考えた。暮らす場所を決めるとき、何かしらの縁が積み重なるような、必然性を感じるような、これってなんなのだろう? それから砧で暮らし始めて、約1年経った。

農業も行われ、緑に恵まれた砧地域

引越してからの新しい習慣として、散歩や自転車で近場を巡る機会が増えた。朝、まだしんとした時間に起きて、自転車で砧公園に出かける。空気はまだ誰にも触れられていないように澄んでいて気持ちがいい。内見をした日に通ったサイクリングコースは今もお気に入りで、木々の間を通り抜けると心に溜まってしまった大体のことはどうでもよく感じられる。程よい汗をかいて家に帰ることは、今ではすっかりルーティーンになった。

このあたりを散策していると、畑や川、緑の多さに気付く。私は世田谷区松原で生まれ、三軒茶屋で育ったこともあり、世田谷は特に慣れ親しんだ街だけれど、同じ世田谷といえども風景がこんなに違うのか、と初めは驚いた。

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砧地域は世田谷区の西部にあり、すぐ隣は狛江市だ。地区でいうと祖師谷、成城、船橋、喜多見、砧にわけられ*2、駅で言うと小田急線の千歳船橋駅、祖師ヶ谷大蔵駅、成城学園前駅、喜多見駅が使用できる。駅の南側に砧公園があり(最寄りは祖師ヶ谷大蔵駅)、更に南へ進んでいくと多摩川がある*3

世田谷区というと一見都会のように感じるけれど、このへんを散策していると一番しっくり言葉は「のどか」だ。住宅街が多いから静かで落ち着いているのはわかるけれど、なんでこんなに緑が豊かなのだろう? と思って調べてみたら、もともと世田谷区は農村だったという背景があり、現在も緑化計画に力を入れていて、2032年には区の面積の3分の1をみどりにする計画もあるらしい*4。世田谷区の農業は23区内で練馬区に次ぐ2番目の規模で、ファミリー農園や農産物直売所も多く見られる。世田谷区内に18カ所あるファミリー農園のうち9カ所が砧地域にあり*5、農産物直売所の数も28カ所と砧地域が一番多いようだ*6

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世田谷区内産農産物には「せたがやそだち」マークがつけられる

世田谷区教育委員会民家園係が発行している冊子『あるじでえ』によると、昭和59年に区民によって選ばれた「世田谷百景」の分析からは、世田谷区民が好ましいと思える風景には「自然があること」「身の回りにあって、日頃から親しめること」「歴史を感じられること」の3つの要素が必要だったと書かれている。このあたりは特にそうした風景が保たれている地域のように感じられる。

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次大夫堀公園で手に入った『あるじでえ』、No.29は「景観と風景の意味の違い」から始まりかなり興味深い

砧公園を出発点に、自転車でお気に入りの場所を巡る

この原稿を書く機会に恵まれたので、砧公園を出発点に、このあたりのお気に入りの場所を自転車で巡ってみた。

砧公園はとても広く、今どこにいるかはブルーとグレーの迷彩のような柄が描かれているゴミ処理場の煙突が目印。中央には芝生が広がる開けた広場が多く、晴れた日は太陽が降り注ぎ、からっとした明るさがあって好きだ。

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朝8時台、広場には誰もいない

公園の端のほうには木々が生え、その側にあるバードサンクチュアリの横には色とりどりの花畑が広がる。整いすぎていなく、普通な感じがいい。

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公園内には世田谷美術館がある。建築家の内井昭蔵が建てたその建築は、世田谷という場所の地域特性から「生活空間としての美術館」「オープンシステムとしての美術館」「公園美術館としての美術館」というコンセプトで設計され、あえて空っぽの展示室を開放する『作品のない展示室』展も話題になった*7。デイヴィット・ホックニーやジョアン・ミロ、横尾忠則の作品などを所蔵し、コレクションは一般で200円で観ることができ、サイクリングついでにふらりと立ち寄れる気軽さがいい。世田谷という場所の地域特性から「高度に専門化された至高の存在としての芸術ではなく、だれもが身近に感じ親しみをもって共感できる芸術」が志向され、アウトサイダー・アート界をリードしてきたひとつの拠点でもあるそう*8。美術館にはカフェ、ル・ジャルダンが併設されていて、時折ガーデンウェディングも行われている。

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美術館前には居着いている猫が数匹いて、ベンチに腰をかける人たちにとってのアイドルだ。美術館に行くと、7割くらいの確率で猫に会える。自転車を押している人、犬を連れている人、さまざまな人たちが猫を囲んで集う。猫の分け隔てなく人々を繋ぐ力は偉大だ。

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愛嬌高め

砧公園を抜けると、横には総合運動場がある。ここの温水プールは光が入り込み開放的で、大人は1時間260円で入れる*9。わたしはあいにく泳げないのでたまにしか行かないけれど、もし泳げたら通ってしまうだろうな。隣の大蔵第二運動場には夏季のみ営業している屋外プールもあり、流れるプールやウォータースライダーがあって子どもたちでにぎわっている。

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閑静な住宅街が広がる成城、なつかしい風景にときめく喜多見へ

砧公園を出て、成城に向かう。途中で見える、畑と無人販売。こうした風景はこのあたりの定番だ。

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オレンジ色のコスモスがあちこちに生い茂る

向かう途中、住宅街の間に仙川が登場する。仙川駅のほうまで北に伸びているこの川は、春になると川沿いの桜が満開で、お花見をしている人も多い。

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成城学園前駅前には富ヶ谷に住んでいたときもお世話になっていた成城石井の本店があり、本店ということもあり巨大で、疲れたときはここに行けば確実に機嫌がよくなるおいしいなにかが確実に手に入るから、重宝している。成城石井の横にある喫茶店シュベールはゆっくりとした空気が流れていて、休憩に最適だ。駅ビルの成城コルティにある三省堂書店はこのあたりで一番品ぞろえが充実していて、ほしい本がだいたい見つかるのでお気に入り。

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成城学園前駅付近には閑静な住宅街が広がる

そこから喜多見方面へ向かう。閑静な住宅街が広がり、整った雰囲気の成城駅周辺とは異なり、更に自然が増え、なつかしい風景が広がる喜多見が大好きだ。今度は野川という、このあたりで一番お気に入りの川が見えてくる。国分寺のほうに伸びている川で、仙川に比べるとより一層のどかで、いつかの絵葉書みたいな風景。湧き水が乏しくなり、流水が途切れ、草木が生い茂っている。子どもたちが裸足で水遊びしているけれど、周りには住宅街が立ち並ぶというアンバランスさが面白い。今日は川の中央に大きな白鷺が凛と立っていて、眺めていたら後にカラスに場所を譲っていた。

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中央の岩場に白鷺が。川の魚をカラスと取り合っていた

喜多見4・5丁目は「農の風景育成地区」*10で、そこに次大夫堀公園という公園がある。世田谷の農村風景の典型的なイメージを復元した場所で、水田が広がり、民家園がある。今回初めて民家園に入ったのだけれど、園内でちょうど藍染めの原料となる「すくも」をつくっていて、「持っていって、新聞紙に包んであげるから」と藍の葉をいただいた。のどかな風景に心が和みつつ、一歩園内を出ると隣に巨大なマクドナルドがそびえ立ち、そのギャップも愛おしい。

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数カ月前はアメンボがたくさん見えた水田には立派な稲が

喜多見には行ってみたいお店がいくつもあるけれど、このご時世なので閉まっているお店も多い。どうかこの状況が少しでも変わっていきますように。

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気になる喜多見のお店たち

愛される個人商店が立ち並ぶ、気取らない商店街。祖師ヶ谷大蔵へ

今度は祖師ヶ谷大蔵のほうに向かってみる。ウルトラマン発祥の地として知られ、駅を挟んで南北に広がる商店街には「ウルトラマン商店街」という名前がつけられている。駅前にもウルトラマン像があったのだけれど、今は工事中ということもありどこかに姿を消してしまった。

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街中に自然にウルトラマン要素が紛れ込んでいる

祖師ヶ谷大蔵は成城や喜多見とも異なる雰囲気があり、気取らなくって、いい具合の温度感が保たれているところが好きだ。オオゼキのような大きなスーパーや、チェーン店も個人商店もある。銭湯も充実していて、ミニプールや冷凍サウナがあるそしがや温泉21、星空が見える露天風呂付きの湯パークレビランドを気分によって使い分けることができる。コロナ禍ということもありなかなか行けていないのだけれど、飲食店も多い。

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気になる居酒屋ゾーン

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どちらの銭湯も住宅街のなかにあり、駅からも近い

駅前にあるお店、黒田珈琲はゆったりできる街の喫茶店で、モーニングもとってもおいしい。店の奥には本棚があり、そこにはノートが置いてある。店が課題図書を出していて、その感想をノートに書いていくという仕組みだそう。80年以上もの歴史があるという老舗洋菓子屋のニシキヤ洋菓子店にはさまざまな種類のケーキが並び、奥にニシキヤパーラーというカフェも併設されている。商店街には黒田珈琲やニシキヤ洋菓子店のように、長く愛され続けているお店がいくつも並んでいる。

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黒田珈琲

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ニシキヤ洋菓子店

住宅街を進んでいくと、お菓子とお酒のお店ahiru.snackや、フルーツをふんだんに使ったアイスクリームがおいしいTiTRE、丁寧につくられた魅力的なパンが並ぶ松風のような、比較的新しくできたお店も並ぶ。

出発地点の砧公園のほうに進んでいくと、映画やドラマの撮影が行われている東宝スタジオがある。このそばに近頃、松陰神社駅にあった書店、nostos booksが越してきた。砧にはアートブックを扱うお店がなかったから、とってもうれしい。このあたりも少しずつ雰囲気が変わってくるのかな?

ちょうどいい、平熱の街

砧で暮らして、「ちょうどいい感じ」がしている。華やかさや刺激を求めている人にとってはちょっと物足りないかもしれないけれど、熱すぎず、冷たすぎず、平熱な感じがちょうどいい。公園が多く、自然が広がっているという土地も心地がいいし、無理をせずにそのままの自分でいられる感じがするからか、息がしやすい。自転車で少しいけば、異なる風景が見つかる。ゆっくりとした時間が流れているからか、以前よりも鳥の声を聴いたり、虫を見たりすることが増えた。

この「ちょうどいい感じ」は、人によって異なるだろうし、わたしもこれからもっと速度が速い場所、遅い場所に身を置きたい気分になることがあるかもしれない。だけどしばらくの間は、この場所でいくつもの風景をたのしみながら、ゆっくり過ごしたいなと思う。

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著者:竹中万季

竹中万季

1988年生まれ、編集者。2017年にCINRAで「She is」を野村由芽と立ち上げ、ブランドリーダーを務める。2021年4月より野村と株式会社ミーアンドユー(me and you, inc.)を立ち上げ、代表取締役に就任。ニュースレター「me and youからのmessage in a bottle」を配信するほか、性にまつわることを自分の温度で話しはじめてみる音声番組「わたしたちのスリープオーバー」をSPINEARおよびJ-WAVEで毎週金曜日に配信中。Twitter Instagram

 

編集:ツドイ