碧い清流、パン職人のわたし——徳島県神山町

著: 山田友美 

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 「3カ月だけ、ここで働かせてください」

 そう言って徳島県の神山町に移り住み、丸2年半が経った。          

 生まれは香川の西の端っこ。海と山が近く、田舎だけど不便すぎもしない、どこにでもある、退屈で穏やかな田舎のまち。

 食べることは昔から好きだった。「食」は私を形成するアイデンティティの中で最も大きい部分を占めている。ただ、高校卒業後の進路を決める際、まだ純朴だった私は、「専門学校より大学入った方がよくね?」という高校の担任の言葉にすんなり従い、興味のあった製菓の専門学校には進まず関西にある大学に進学した。大学時代は京都を中心においしいものを食べ歩く時間が至福だった。

 就職活動で友人たちが名だたる企業から華麗に内定をもらっていくなか感じた、迷いと焦り。飲食業界の会社から内定を得たが、なんだかしっくりせず辞退してしまった。どうしても、自分の手でつくったものを直接届け、目の前の人を喜ばせたい。それが自己分析を経て見つけた自分なりの答えだった。

 京都の小さなケーキ屋で働くことに決めた。周囲の心配をよそに職人の道を選んだ。

 関西のケーキ屋とパン屋で約7年間の職人生活を過ごしたが、田舎育ちの気質からか次第に穏やかな暮らしを求めるようになった。「いつか自分のお店を持てたらいいな」というやんわりとした野望を胸に地元・香川に帰省したものの、なかなか独立には踏み切れずにいた。ゆるっとしたフリーター生活で何となく退屈な日々を過ごしていたある日、求人サイトで神山町のパン屋が職人を募集していることを知った。

 神山町のことは、関西にいた時から知っていた。人口5200人ほどの小さな山あいのまち。そこに住む約半数が高齢者でありながらも「地方創生のロールモデル」と呼ばれ、全国的にも注目されている場所だ。東京のIT系ベンチャー企業が町内に完備されている光ファイバー網を目当てにサテライトオフィスを開設したり、海外のアーティストが20年以上も続くアーティスト・イン・レジデンス制度を使って滞在したりと、さまざまな活動がメディアに取り上げられているのを目にしていた。地元四国の「ド田舎にある、変わったまち」といった印象だった。面白そうなことをしているけれど、さして自分とは関わりのない場所なのだろうと思っていた。

 そんな神山町で、パン職人を募集している。しかも、短期雇用も可、とのこと。自分の店を持つことに諦めがついていなかった私は「一時的に環境を変えてここで働いてみたら何か刺激を受けるかもしれない。そしたら自分のお店を持つイメージもできるだろう」と思い、ちょっとお試しの気持ちで応募した。今思えばとんでもなく軽い気持ちで神山への一歩を踏み出したのだ。その刺激はその後、自身の働き方や価値観さえも変えてしまうことも知らずに。職人募集に腰掛け前提で応募するとは、いい度胸である。 
 
 初めて神山を訪れた日のことは、今でも鮮明に覚えている。4月の終わりの日。実家から2時間半。二つの山を越えた。ぐねぐねと山を通る道は対向車とすれ違えないほどの道幅。こんなに長時間山道を走ったのは初めてで「本当にこんな山奥で生活できるのか……」と少し途方に暮れながら到着。ひたすらに視界を占めていたのは高く伸びる杉の木と清らかな水が流れる川、そして空。車を降りると、澄んだ空気がスッと体の中に入ってきた。

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 到着後、すぐに食べたお米の味が忘れられない。神山で育ったというそのお米は、一粒ひと粒がプリッと立っていて、つやっつやに輝き、とてもみずみずしいものだった。見るだけで美味しいと分かった。そして紛れもなく、今まで食べた中で一番おいしいお米だった。

 山菜が旬の時期で、ウドやコゴミの天ぷらも頂いた。山の緑の香りを初めて味覚で感じたような気がして感激した。他のどの野菜もとにかく、味が濃い。きれいで豊かな水が食材の味を引き出しているのだと地元の方から聞いた。何を食べても本当に美味しかった。何より私にとって魅力だったのは、このおいしい食材を育てている農家さんたちがすぐそばにいること。つくり手の自分自身が生産者とも食材とも密接に関われる環境に惹かれた。

 初日からこの土地の魅力を肌で感じていたものの、面接では「3カ月だけここで働かせてください」と伝えた。独立の意思がある限り、あまり深入りしてはいけないと思った。
 
 梅雨の湿気が残る7月、神山での生活がスタートした。川沿いの一軒家が私の住処に決まった。自室からはいつでも青い清流を眺めることができた。

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自室からの眺め


 「あまり深入りしてはいけない」その気持ちに反し、神山の7月はそれはもう、めちゃくちゃに楽しかった。

 毎朝、厨房の窓から見える朝日と一緒に仕事を始めた。仕事終わりには川へ行き、仕掛けにかかったギギと呼ばれる得体の知れない川魚と、採れたての夏野菜を七輪で焼き、暗闇の川辺で食べた。そのまま寝転がって、ひたすらに「きれいやなー」と言いながら夜空に広がる天の川を眺めたりもした。 

 川の上流ではBBQを楽しんだ。川の中に縦割りにした竹を落とし、清らかな水流を利用して流しそうめんをしたり、竹の筒でご飯を炊いたりした。生活排水が混ざらず、純度の高い水が流れているからこそできる贅沢な川のBBQだ。

 職場には、朝どれのみずみずしい野菜を農家さんが毎日持ってきてくれる。生のオクラやとうもろこしの尋常じゃない甘さを初めて知った日の衝撃ときたら。

 ピザの仕上げに使うバジルは、自分で下の畑から摘んでこれる。毎日が初めてのことだらけだった。

 仕事と暮らしの中で小学生のような楽しい夏休みをすっかり満喫している自分がいた。神山の魅力にどっぷりつかってしまった。

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厨房から見える朝焼け


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川辺のBBQ


 しなくていいのについ、大阪で働いていたころの環境と比較してしまった。

 農家さんとのやり取りはほとんど発注のFAXだけ。夜中のシフトに入ったときは、23時のニュースがアラームがわりで、出勤時には酔っ払いのサラリーマンとよくすれ違った。駅構内の店舗で働いていたときは窓がなくて、お客さんの傘がぬれてるかどうかで天気をみた。心は次第に荒んでいった。

 神山はそうじゃなかった。3カ月だけ、の決意は簡単に打ち消された。

 つくり手として、ここで四季を感じながらたくさんの食材に出会ってみたいと思った。すぐそう思った。

神山の四季

 神山では美しい四季を感じることができる。

 春はしだれ桜。国道を走っていると、「神山町を日本一のしだれ桜並木の名所に」と書かれた看板を見かける。その言葉に相応しく、町内のあちこちで住民によって植えられたしだれ桜が咲き乱れ、満開の時期にはたくさんの観光客が神山を訪れる。樹齢100年のしだれ桜が美しい明王寺と、敷地内に400本もの桜が植えられているゆうかの里が神山の桜2大スポットである。

 桜の少しあとには鬼籠野地区にある神光寺ののぼり藤。樹齢100年の藤の巨木に、大きなぶどうのような房が無数にぶら下がるように花が咲く。

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ゆうかの里


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神光寺ののぼり藤


 新緑の季節もなお良し。春の終わりからジメジメとした梅雨(神山は湿気が半端ない)の隙間の季節はなんとも言えない爽やかな空気で、1年で一番過ごしやすい気候だ。

 お気に入りの場所は、カフェ・ブロンプトンのテラス席としても利用されている「森のオフィス」。ここはフリーWi-Fiスポットでもある。電源も完備。その名の通り、森の中のオフィスとして利用できるが、木々に囲まれたテラス席でコーヒーを飲みながら、風に揺れる葉っぱの音に耳をすませてただぼーっと過ごすのが好きだ。

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森のオフィス


 前述したように、夏はとにかく川遊び。初めて川を見たときに驚いたのは、深く透き通った川の青さだった。その青さの秘密は、神山周辺の特産物とされる青石。その石の青が水面に反射しているから川が青くなるのだと、地元の人から聞いた。特に、台風などで大雨が降ったあとは藻などの不純物が一掃され、より透明度を増す。明るく少し緑がかったようなターコイズブルーの夏の川が大好きだ。

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 ひんやりとした空気を求めて雨乞いの滝に登るのもおすすめ。往復40分ほどの軽いハイキングのあとは神山温泉で汗を流し、お風呂上がりに近くのKAMIYAMA BEERの冷たいビールで締める。

 秋は大久保の乳(ちち)いちょうの紅葉。樹齢推定500年の大きないちょうの木の下も、実はフリーWi-Fiスポットだったりする。いったいなんでこんなところで、とツッコミを入れたくなるが、いちょうの木漏れ日の下でメールを返信するようなシチュエーションがあっても神山らしいな、とも思う。

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大久保の乳いちょう


 冬の神山は寒く、山あいのまちだけあって日照時間も短く、1年で最も人が訪れない時期である。そんな極寒の神山で唯一温かい場所。それが神山温泉だ。

 少しとろっとした泉質のお湯に浸かると体が芯から温まる。毎日同じ時間に、わいわい世間話をしている地元のおばちゃんがいて、町民がこの温泉を心から愛していることがよく分かる。私たち移住した者も年間を通じてこの温泉に疲れを癒やしにくる。

 パンをつくりながら、仕事の合間や休日にこうした四季の移ろいを肌で感じられることは何にも替え難い喜びだ。

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パンで顔をつくった雪だるま

ひと

 「3カ月だけ」そう言ったあの日から2年半。私は今日も、山あいの小さな厨房に立つ。今では自分がつくるパンやおやつをここで楽しみにしてくれている人もいる。
 
 「ドーナツいつ揚がるん?」と揚げたてのドーナツを狙ってきてくれるおかあさんたち。

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揚げたてドーナツ


 「こないだのあれ、おいしかったよ!」とうれしい言葉をかけてくれる同年代の移住者さんたち。
 
 余ったパンをおすそ分けすると、柏餅やちらし寿司を届けてくれたり、両手で抱えるほどの野菜でお返ししてくれるご近所さん。
 
 人当たりは悪くないが、積極的に知らない人に話しかけたりするのが苦手な私は、新しく人間関係を築いていくのに時間のかかるタイプなのだが、神山に住む人たちはいつもオープンな心で接してくれた。「あそこのパン屋におるんです」と言うと、それだけで分かってくれる人がいる。「こんな果物が採れるけん使ってみんで?」と声をかけてくれる人がいる。家族と呼ぶほど近くもないけど、赤の他人と呼ぶにはよそよそしすぎる。今まで住んだ土地にも地元にもない不思議な居心地の良さがあるのだ。

 「3カ月」はこの土地を知るには到底足りなかった。人も、景色も、食べ物も、常にここには新しい発見があり、穏やかな暮らしの中にも刺激がある。つくり手として、この神山でまだこの先も時間を重ねていきたいと思う。


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著者:山田友美(やまだゆみ) 

山田友美(やまだゆみ) 

1985年生まれ。香川県観音寺市出身。ケーキ、おやつ、パンを山あいの町で焼いています。2017年・夏より株式会社Food Hub Projectのメンバーに。いつももぐもぐしています。

編集:ツドイ