進学、就職、結婚、憧れ、変化の追求、夢の実現――。上京する理由は人それぞれで、きっとその一つ一つにドラマがあるはず。地方から東京に住まいを移した人たちにスポットライトを当てたインタビュー企画「上京物語」をお届けします。
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今回の「上京物語」に登場いただくのは、DJ松永さんです。
新潟県の長岡市で生まれ育った松永さんは、中学2年生でヒップホップと出会い、その「得体の知れないかっこよさ」に魅せられていきます。その後、高校を中退するほど没頭するようになり、やがてDJとしての活躍の場を求めて東京へ。
しかし、上京後に待っていたのは苦渋の毎日。東京のクラブに居場所はなく、苦労して制作したアルバムも売れず、辛酸を舐め続けました。その後、2013年にラッパーのR-指定さんとCreepy Nutsを結成してからは少しずつ状況が好転していきますが、ある「呪い」に縛られてしまったことでまたもやドン底に。
上京以来、松永さんの心は常にモヤモヤとした何かに覆われていたようです。それを晴らすための戦いの日々について、これまで過ごしてきた街の記憶とともに伺いました。
RHYMESTERに憧れヒップホップの世界へ
―― 松永さんの地元は新潟県の長岡市。21歳まで暮らしたそうですが、どんな風景が印象に残っていますか?
DJ松永さん(以下、松永):真っ先に思い浮かぶのは、河川敷とコンビニの駐車場ですね。
―― 河川敷は分かりますが、駐車場はどうしてですか?
松永:都心のコンビニには駐車場がないじゃないですか。上京したとき、それが衝撃だったんですよ。コンビニとかスーパーには、持て余したような広い駐車場があるものだと思っていたから。だから、今でも十分に使い切れていない駐車場を見ると、地元に帰ってきたなと感じますね。
―― まさかでした。田んぼの畦道とか、そういう風景を想像していたので。
松永:もちろん、自然もいっぱいありますけどね。長岡って、すごくいい具合に「地方都市感」がある街なんですよ。畑や田んぼもあるけど、イトーヨーカドーもジャスコもユニクロもあるし、アピタっていうショッピングモールもあった。田舎という自覚はあるけど、べつにここで足りないものは特にないっていう。ツアーとかでも、長岡みたいに両輪あるような地方都市に行くと落ち着きますね。
―― ヒップホップやファッションなどに興味を持ったのは中学時代ということですが、そうしたカルチャーにも気軽に触れられる場所だったということでしょうか。
松永:そうですね。長岡にはクラブもありましたし、おしゃれな古着屋やセレクトショップもありました。俺がヒップホップを聴き始めたのは中学2年生で、同時期にストリートカルチャー全般に興味を示すようになったんです。
当時は裏原系のストリートファッションがまだはやっていた時期で『Samurai magazine(サムライマガジン)』や『Ollie(オーリー)』を読んで、長岡駅近くのセレクトショップに行っていたのを覚えています。中学生でお金がないから買えないし、店員も他のお客さんも大人ばっかりで怖いんですよ。でも、雑誌で見る洋服が置いてある空間とか、ストリートカルチャーの空気感に触れられるのが楽しくて、ドキドキしつつも足を運んでました。
いつもなけなしのお金で、チャンダン(お香)だけ買って帰るんですよ。そしたら、とりあえずあの店で買い物をしたってことにはなるから。よくその店の袋を持ちながらTSUTAYAに寄って、立ち読みしながら「こいつ、イケてねー」みたいなことを言ってましたね。ブランドの服も持ってないくせに、あーだこーだと偉そうにね。
―― 分かります。お店の袋を持っているだけで、イケてる気になってしまう感じ。
松永:あと、そういうお店に行くと、ファッションだけじゃなくてクラブシーンの情報も収集できるんですよ。レジのところに県内のクラブイベントのフライヤーがバーっと並んでいて、そこでクラブの名前を覚えたりして。当時のDJやラッパーは紙のフライヤーを刷って、お店に配って回る風習があったから、地元のシーンについて知るにはとてもいい場所でした。
―― 実際にヒップホップを好きになったきっかけは何だったのですか?
松永:よく遊んでいた友達に年の離れたお姉ちゃんがいたんですけど、その人がクラブによく出入りしていて、ストリートファッションにも詳しかったんです。それで、友達経由でそのお姉ちゃんからヒップホップのCDを借りるようになり、かっこいいなと。
あと、同じくらいのタイミングで、RHYMESTERが月曜パーソナリティを務めていたラジオ番組『WANTED!』(TOKYO FM)を聴き始めました。そのラジオが本当におもしろかったんですよ。話もおもしろいし、音楽ももちろん最高。見た目もかっこいいし、この人たちの表現するもの、全部最高だなって。ひとつのラジオ番組にハマると、そのパーソナリティの一挙一動をまるっと好きになっちゃいませんか? 俺ももれなく、そんな症状にかかってしまいました。
―― RHYMESTERとの出会いが非常に大きかったんですね。
松永:はい。中学二年生にとってはヒップホップの得体の知れない感じというか、良い子は見ちゃダメなものっぽい背徳感も魅力的だったんだと思います。ポップカルチャーではないから、学校でも知ってるやつは誰もいない。そういうの、中二心に刺さりますよね。みんなの知らない世界を知っちゃったぜ。俺、やべーって。一人でアガってました。
部活も高校もやめ、DJにのめり込んだ
―― ヒップホップに出合ったことで、小学校から続けていたサッカーもやめたそうですね。
松永:サッカー部は高校1年生の終わりごろにやめました。そのころは部活中でも頭の中にヒップホップが流れているくらいで。そもそも部活が楽しくなくなっていたタイミングでもあったし、こんなに興味がそれまくっているのに続けるのもヘンだなと思い始めたんです。
部活をやめたのは、人生で最初の大きな決断だったかもしれないですね。部活って、やめると“逃げたやつ”として扱われて、学校で立場を失ったりするじゃないですか。今まで遊んでいた同じ部の友達とも距離ができて、学校生活を送りづらくなる。意外と明確に自分の意思で続けている人って少ないと思うんですよ。だから、やめる決断をした自分にも驚きましたね。
―― 部活をやめて空いた時間の全てを、ヒップホップに注いだのでしょうか?
松永:そうですね、一気にヒップホップにのめりこんでいきました。高校二年の春にスーパーで1カ月バイトして、貯めたお金でターンテーブルを買ってからはさらに没頭して。
初めてクラブにも行って、学校の外の世界を知りました。それまでは学校の中が世界の全てだと思っていたけど、外には自分の好きなものやワクワクするものが詰まっていた。それで一気に世界が開けた気がして、学校に行く意味が分からなくなり、けっきょく高校もやめてしまったんです。
―― 守られた世界から出て行く怖さよりも、好奇心が勝ったということでしょうか。
松永:もちろん怖いですよ。めちゃ怖いですけど、避けたいとか逃げたいという感じの怖さじゃなかったですね。怖いからこそ、ちょっと覗いてみたい。ハードな匂いがすればするほどワクワクして、片足だけでも突っ込ませて! みたいな感じでしたね。それからはバイトしながら、たまにクラブでDJをする生活がしばらく続きました。
―― クラブDJになるために、自ら売り込んだりもされたんですか?
松永:そうですね。俺がターンテーブルを買ったのと同じ時期に、長岡駅の近くに「ワンループレコード」っていうレコード屋ができました。そこに学校をサボって通っていたら、高校生が珍しかったのか店主のカズオくんが声をかけてくれて、かわいがってくれるようになったんです。それで、カズオくんに「クラブでDJをしたい」と相談しまして。
当時、クラブでDJをするには自分でミックスしたデモCDをつくって、片っ端からクラブに売り込む必要があったんですけど、そのミックスCDのアドバイスもカズオくんがしてくれた。つくったCDを渡すと、手書きのトラックリストに赤字で書き込みを入れて返してくれるんです。ここのつなぎはこうしたほうがいいとか、この曲はいらないとか、ここはグルーヴが割れるからゆっくりつないでみようとか、全部書いてあった。それがうれしくてうれしくて。
―― 松永さんの熱意が伝わったからこそ、本気で向き合ってくれたのかもしれませんね。
松永:本気で学びたいと思ったものに対して、訂正やアドバイスをもらえることが、こんなにうれしいんだと分かりました。指摘された点をすぐに直して持っていき、また赤を入れてもらって。それを3往復くらい繰り返したところで、「そろそろいいね」と言ってもらって。
―― それをクラブで配ったと。
松永:はい。隣町の小千谷市にかっこいいDJグループのクルーがいて、そこに入りたかったんですよね。僕より少しだけ年上ってくらいで、まだ若いのに実力派で、90年代のヒップホップや渋めのR&B、ソウルやジャズ・ファンクをソースにしたサンプリングもよかった。果敢にスクラッチとかするし、しかもうまい。界隈では評価の高い人たちだったんです。
だから、彼らのパーティーにデモを渡しに行きました。カズオくんからは「遅い時間だと酔っ払って受け取ったことを忘れたり、なくしたりするから、正気なうちに渡しな」と言われていたので、ピーク前の早い時間に行って。すると、後日ミクシィ経由で連絡が来て、「一番手だけど、出てみませんか」と。それがクラブDJデビューでした。
以来、定期的に出させてもらうようになり、イベントにもちょこちょこ声がかかるようになって、徐々に居場所が広がっていきました。でも、新潟のクラブシーンのメインストリームに乗る感じでもなく、しばらくは地元でのらりくらりとDJやってましたね。
DMCの衝撃から「人生が始まる」
―― そこから転機になった出来事は何かありましたか?
松永:DMCという世界最大のDJ大会があるんですけど、そのジャパンファイナルを見たことですね。地元出身のDJ CO-MA(コマ)が決勝に出るというので、みんなと車で東京まで見に行きました。恵比寿のLIQUIDROOMで、初めてスクラッチやジャグリングといったターンテーブリストの技術を生で見て、これは凄い! と。
―― どんなところに心を揺さぶられましたか?
松永:彼らの「演奏を成立させる技術」はクラブDJのそれとは明らかに違っていて、独学では越えられない大きな壁を感じたんです。しかも、そのすぐ後に、たまたま深夜にテレビをつけたら今度はティーンのDJ日本一を決める大会を特集していて、俺と同い年の高校生が優勝していた。
ショックでしたね。地元のシーンだと俺は最年少で、「若いのにうまいね」って言われていたこともあって、人よりできると思ってましたから。同い年で、自分よりはるかに速く時間を進めているやつがいることに焦りました。それから、CO-MAくんが開いたDJスクールで教わるようになり、大会にもエントリーするようになって。そのあたりから、ようやく人生がスタートしたような気がします。
―― それが10代後半から20歳にかけての時期ですね。そのころには、音楽で食べていく決心も固まっていましたか?
松永:決心を固めたというよりは、いつの間にかそうなっていたって感じですね。高校も中退しちゃったし、生きるための選択肢を自ら狭めていましたから。これで食ってかなきゃいけないっていう状況になって、自然とDJに没頭する生活になりました。
だから、DJだけで食えるようになりたいとは、ずっと強く思っていましたね。食えるようになるということは、24時間そのことだけを考えていられるということですよね。好きなことでお金をもらい、そのお金と時間を費やして好きな音楽をつくり、またお金をもらう。そんなサイクルができたら最高だなと。
ただ、そうはいっても明確に目標を立て、そこから逆算してプランを練るとかは一切していませんでしたけど(笑)。何をしたら食えるようになるのかも分からなかったし、正直逃げている部分はあったと思います。あまり現実を直視せず、先のことは考えないようにして。東京に来たのも、地方ではDJとして食べていけないから仕方なくという感じだったんです。もともと、都会が好きなわけではなかったので。
―― 新潟のクラブシーンだけでは、DJとして生活していくのは厳しかった?
松永:厳しいです。大阪や名古屋、福岡や札幌あたりなら人のたくさん入るクラブもたくさんあるので、食えてるDJもいるんですけど、新潟だと難しい。だから自然と東京に足が向きましたね。
もちろん、もっと大きな世界を見てみたいという気持ちもありましたよ。自分が惚れたラッパーはみんな東京にいるし、何より日本のヒップホップシーンに“参加したい”という思いがあったんです。
音楽で食うために上京するも「惨めな日々」が続く
―― 21歳で上京して、最初に住んだ街はどこですか?
松永:東京のことは全く分からないので、不動産屋に言われるがまま上板橋のワンルームに住みました。最初は、俺の希望条件だと東京は無理って言われたんですけどね。家賃は出せて5万円が限界。俺、あまり汚いところには住めないタイプなんですよ。そうなると、埼玉しかないと不動産屋に言われました。
ただ、べつに埼玉でも全然いいんですけど、地元のやつらに「東京でDJやる」って言っちゃった手前、ちょっと恥ずかしいなと。と言うと、埼玉の人に超失礼ですね。でも、埼玉がどうこうじゃなくて、その時は「東京じゃないじゃん」って思われるのが嫌だったんです(笑)。
それで、予算内でなんとか俺が住めそうなアパートということで、不動産屋が出してくれたのが上板橋だったんです。「ここは東京ですか? じゃあ住みます」と。そこには結局、4年間住みました。すぐ隣の道路が通学路だったのか、夕方になると小学生の「ひゃっほう!!」という甲高い声が窓をぶち破って聞こえてくるような環境で、今思うとキツかったですね(笑)。
―― それはちょっと辛いですね……。21歳から25歳くらいまでの時期だと思いますが、そのころDJとしての活動状況はいかがでしたか?
松永:うまくいかなかったですね。当時、すでにR(R-指定)とは知り合っていたものの、まだ組んではおらず、東京のいろんなラッパーのライブDJをしていました。同年代のラッパーとのつながりはあったから、めちゃくちゃ頼まれまくったんですよ。でも、それが大変だったんですよね……。
―― 何が大変でしたか?
松永:特に難しかったのは、人間的には好きなんだけど、ラッパーとして心からは支持できない人と一緒にライブをする時ですね。正直、ライブで曲を聴きながら、どういう顔をしていいか分からないんですよね。この時間、なんなんだろうと。
他にも、その時期はあらゆることがうまくいかなくて、何しに東京まで来たんだろうって思いましたよ。上京したからってすぐにクラブDJができるわけじゃないし、2〜3カ月に1度、ノーギャラのイベントに呼ばれるかどうかという感じで。あとは、ただバイトに明け暮れるだけ。
交友関係を広げようと有名なラッパーやDJのイベントに足を運んでみたりもするんですけど、自分は積極的にコミュニケーションをとれるタイプの人間でもないから輪に入っていけない。毎回、東京もん同士の空気感になじめない自分を確認しにいくだけで、いつも惨めな気持ちになっていました。
―― それでも、曲はつくっていたんですよね。
松永:はい。上京するタイミングでつくったトラックがあったので、ラッパーを招いてレコーディングをして、自主制作のアルバムも出しました。でも、そこでも共演したラッパーといろいろうまくいかなくなったりして……。
―― 本当に何もかも裏目に出てしまうような時期だったんですね。
松永:俺のほうが無名だったので、足元を見られたんでしょうね。最初に言ってた金額以上のギャラを請求されたり、急に連絡がつかなくなったりとか……。ちなみに、そこでかなり痛い目にあったので、以降はパートナーを選ぶ時に「シンプルにいい人かどうか」っていうジャッジが入るようになりました(笑)。
ただ、そうやって苦労しつつ高いお金を払ってつくったアルバムも、さほど売れずに超大赤字。わりと、お先真っ暗でしたね。
ソロ活動は最高のラッパーと組むまでの助走期間だった
―― そんな厳しい局面を、どうやって打開したのでしょうか?
松永:自主制作の限界を感じて、レコード会社を探しました。1枚目のアルバムは自分で全部やったんですよ。マスターCDを流通業者に持ち込み、プレス代を払い、お店に卸してもらって。お店に置かれる商品の説明も自分で書いたし、プレスリリースを音楽ナタリーに送ったりもしました。それがとにかくしんどくて、次に出すならレコード会社に面倒を見てもらおうと。
―― レコード会社との接点はあったんですか?
松永:まったくなかったですし、そもそも日本にはヒップホップのレーベル自体ほとんどないんですよ。なので、「Musicman」という音楽業界の電話帳みたいな本を買って、そこに載っている音楽事務所に片っ端からデモを送りました。べつに、どこもそういうの募集してないんですけどね。30社以上に、勝手に送りました。LDHとかにも送ってますからね。俺なんてまるで毛色が違うし、お門違いもいいとこなんですけど、それくらい必死でした。
―― そのなかに、反応してくれた会社があった?
松永:はい。唯一返事をくれたのが「Village Again Association」というレーベル。Def TechやDJ GOを手掛けたり、ウエッサイ・ヒップホップというジャンルで一時代を築いていたレコード会社です。僕がいた田舎でも、ちょっとおしゃれなやつはウエッサイを聞くみたいな感じで、めっちゃはやっていました。
―― 大きなチャンスですね。
松永:社長の又村さんから「デモ聴きました、よかったですよ」って連絡が来て、会って話をしたら、「一度ご一緒しましょう。松永さんが好きなこと、やっていいですよ」と言ってくれた。夢かと思いました。もしくは、騙されているんじゃないかって。
実際、全部やらせてくれたんです。呼びたい人を呼べたし、ギャラも出してくれたし、ミュージックビデオまでつくらせてくれて。又村さんが神様に見えましたよ。変わった人で、自分が面白いと思ったら有名無名問わず食いついてくれるんです。自分の中では2014年に出たそのアルバムが、大きな転機になりましたね。
―― そこには、後にCreepy Nutsを組むことになるR-指定さんとつくった曲も収録されています。
松永:「トレンチコートマフィア」という曲ですね。そこからR-指定と正式に組んで、Creepy Nutsの活動に専念するようになり、思い切ってクラブDJもやめましたね。
―― クラブDJとしてのポジションを確立していくよりも、アーティストとしての活動に専念しようと舵を切ったわけですね。
松永:もともとRHYMESTERに憧れてヒップホップを始めているので、彼らのように曲をつくってライブをする、いわゆるアーティストとして活動したいと思っていました。だから、Rと組んだことで、ようやくスタートラインに立てた感じがしたんです。
ソロでやっている時は、自分のなかで準備期間だと捉えているところがあって。曲をつくるのも、技術を磨き上げるのも、表舞台でプレイして名前を売るのも、全てはいつか最高のラッパーと組むまでの助走のような感覚でした。
―― R指定さんと出会う前に、誰かと組もうと思ったことはなかったのでしょうか?
松永:もちろん、長岡にいた10代のころからパートナーは探してましたよ。当時はやっていたMyspaceという音楽好きが集まるSNSで、全国のラッパーの音源を聴きまくっていました。かっこいい音源を見つけたら、ワンループレコードのカズオくんに聴いてもらい、意見を求めたりして。
でも、カズオくんは当時の僕がよく聴いていたBUDDHA BRAND(ブッダブランド)を引き合いに出して「お前、そいつのことBUDDHA BRANDよりもかっこいいと思うか? 違うよな? だったら組んじゃダメだ」って言ったんです。
考えてみたら、BUDDHA BRANDよりかっこいいやつなんて、そうそう見つかるわけがないですよね。だから、それからはあまり焦ることはなくなりましたね。組もう組もうと焦るより、準備期間と割り切ってソロ活動に邁進しようと。
視界が広い「東久留米」はふるさとに似ていた
―― 2016年の秋には上板橋から東久留米へ転居されています。そのころにはCreepy Nutsとしての活動も軌道に乗り始めていたかと思いますが、そんなタイミングであえて都心ではなく郊外へ移られたんですね。
松永:ちょうど『たりないふたり』というアルバムを出したころで、それくらいから音楽だけで食べられるようになっていきました。東久留米を選んだのは、東京の中で地元になるべく近い風景を探そうと思ったからです。西武新宿線や池袋線を中心にいろんな街を見まくって、最もピンと来たのが東久留米でした。
―― どんなところに地元っぽさを感じましたか?
松永:まず、駅を降りた時の視界が開けていたんですよ。駅前に大きなロータリーがあって、道が広くて、人もそこまで多くなくて。しかも、イトーヨーカドーと、コンビニにでかめの駐車場があったんですよ!
―― それは大事ですね。
松永:そう。「見つけた!」って思いました(笑)。東久留米は長岡を小さくしたような街で、のんびりしていて、めっちゃ良いなと。そのうえ、駅前には24時間営業のウエルシア薬局があって、もはや無敵でしたね。ウエルシアには何でも売ってるじゃないですか。生鮮品はないけど、夜中に急に「刺身が食いたい!」とかはあまり思わないから、それ一つで十分ですし。
―― 郊外に住むことで、音楽関係者との付き合いや友達と遊ぶのに支障はなかったですか?
松永:俺、人付き合いを一切しないんですよ。特に、東久留米にいた時は年に1〜2回しか人と遊ばなかった時期もあるくらいで、当時は完全に制作に集中していました。住んでいたのがメゾネットタイプのマンションだったのもあるのかもしれないけど(笑)、周りはお子さんのいるご家族ばかりでしたし、近くに自動車学校があって、いつも放送が聞こえてくるような環境だったので、こちらとしても好きに音を出せるというか。
東久留米には結局4年くらい住んで、去年の秋に引越しました。仕事の都合で都心に移ったんですけど、それがなければ一生ここに住んでもいいかなってくらい居心地がよかったですね。
「呪い」を解くための挑戦
―― 東久留米に引越した2016年からは、しばらく出ていなかったDMCにも積極的に挑んでいますよね。
松永:先ほど話したとおり、2008年のDMCで見たCO-MAくんの姿に憧れて、その翌年には大会にエントリーを始めました。そうしたら2010年に、仙台予選は3位で本戦に進めませんでしたが、北海道予選に再エントリーしたら、ギリギリで優勝できた。でも、全国からDJの集まるジャパンファイナルではボロボロの最下位だったんです。それ以来、大会にはずっと出ていなかったので、2016年のDMCはそれ以来6年ぶりでしたね。
―― なぜ、そこまで時間が空いたのでしょうか?
松永:DMCで披露するルーティン(ターンテーブリストがパフォーマンスをする演目)をつくるのって、めちゃくちゃ労力を伴うんです……。わずか数分間なんですけど、最低でも1年間は全ての時間を注ぎ込まないと大会で勝てるものにはならない。他の活動を全て投げ打つほどの覚悟が必要なんです。
だから、自分の曲をつくったりライブに出ることを優先するために出場は控えていました。TwitterもDMC関連のフォローは全て外したり、意識的に目を背けるように努力して。
―― 気持ちが抑えられなくなったきっかけは何かあったんでしょうか。
松永:大会に出ていない間も、やはり心のどこかに引っかかるものがあったんです。曲を出したり、クラブでDJをしている間もずっとターンテーブリストとしての練習はしていて、技術は進歩している。あのころより遥かにうまくなっている自負はある。
でも、自分について回るのは数年前の下手な自分が残した不本意な最終成績なんですよね。しかも、北海道予選から出ているから、新潟出身なのに北海道チャンピオンと紹介されてしまう……。この先もこれをひっさげていくのは結構しんどいなと思っていました。
あとは、Rと組んだことも大きかったですね。Rは10代のころからUMB(アルティメット エムシー バトル)というラップバトルの全国大会で3連覇するなど、俺と組んだ時にはすでにスターでした。Creepy Nutsとして紹介される時も、「3連覇のR-指定」に対して、俺は「ただの松永」なんです。そういうことにも、当時はしっかり傷ついていました。
―― R-指定さんと肩を並べるためには「結果」が必要だったと。
松永:そうです。すぐ隣に分かりやすく結果を残したやつがいるのに、このまま不本意な最終成績を背負いながら一緒に活動していていいんだろうかと。Creepy Nutsの活動がうまくいけばいくほど、DMCのことが呪いのようにのしかかってくるようになりました。
―― そして、2016年のDMCに臨むことになる。
松永:自分がこれまでに培った全てを振り絞り、6分間のルーティンをつくりました。ずっと練習もしていたし、優勝できる自信を持ってジャパンファイナルに臨みましたが、結果は2位。しかも1位との差は圧倒的でした。
もう、めちゃくちゃ悔しくて、翌年すぐに再挑戦したんです。Creepy Nutsの活動が軌道に乗ってスケジュールが埋まっていくなかで、無理やりルーティンをつくって。しかし、結果は3位。このころが、本当にドン底でしたね。
―― 2位や3位でも十分にすごいことですが、それでは呪いは解けなかったと。
松永:M-1グランプリなんかもそうだと思うんですけど、こういう賞レースで呪いを解くことができるのって優勝者だけなんです。最初から出なければ呪いも生まれようがないんですけど、片足を突っ込んでしまったからこそ、最後に勝たないと終われなくなってしまう。もう引くも地獄、進むも地獄。だから決して前向きな気持ちではなく、呪いを解くための挑戦なんですよね。
―― それでも挑み続けた結果、2019年のジャパンファイナルで優勝を果たします。さらに、ロンドンでの世界大会までも制し、世界一に輝きました。
松永:2019年は「もう少し間を空けたほうがいい」という周囲の忠告を無視するような形で出場したんですけど、奇跡的に優勝できました。正直、世界一までは想定していなかったけど、日本一の称号を得たことでようやく呪いが解けたように思います。
また、優勝したことでソロの仕事が増え、自分を必要としてくれている人がいると実感できるようになりました。Creepy Nutsとしてだけでなく、自分の足でも立てていると思えるようになったんです。それからは周囲の人の成功も、純粋に喜べるようになりましたね。
『Documentary Of DMC 〜スポットライト〜』
―― 人と比べることもなくなった?
松永:もともと超比べてしまう性質で、今でも比べてしまうことはあるんですけど、以前よりはだいぶ楽になりましたね。2020年のはじめくらいから優勝が徐々に体になじんできて、心がだいぶ軽くなった。まあ、世界一にならないと人と比べるのをやめられないのかって感じですけど(笑)。自分でなんとかしろよっていう。
あとは、少々しんどいことがあっても、呪いにとらわれていた時期に比べれば、全然大丈夫だと思えるようになりました。あの時、めちゃくちゃ傷ついて、泣きを見て、それでも頑張って確率の低いものに打ち勝った。その経験はこれから先もずっと、自分にとって一生のお守りになるんじゃないかと思います。
意味のない時間を過ごせる、地元・長岡
―― 松永さんが東京に来て約10年がたちましたが、ふるさとの長岡に対しては、どんな思いを抱いていますか?
松永:もともと地元は好きですけど、上京後、より地元への思いは高まっていると思いますね。長岡は俺にとって「帰る場所」。逆に東京は「仕事をしに来た場所」なので、今住んでいる家には帰っても完全には心が休まらない。常に仕事のことが頭にあって、休みの日でも会社で仮眠をとっているような感覚になってしまうんですよね。
だから東京にいると、なまけてしまった時にすごく落ち込んでしまうんです。限られた時間で効率よく仕事をしないといけないのに、俺はなんて怠惰なダメ人間なんだろうって。でも、地元だと意味のない時間を過ごしても、全く落ち込まない。それは、完全に気持ちがオフになっているからじゃないかな。たぶん、音楽を仕事にしていなかったころの自分に戻ることができるんでしょうね。
―― 地元だと、時間を贅沢に使えると。
松永:そうですね。後ろめたさを一切感じることなく、全く生産性のない時間を受け入れることができる。友達とも、人脈とか仕事につながるとか一切関係なく、ただ友達だから遊ぶってだけ。
友達の家でダラダラ喋って無意味な時間を過ごし、喋ることがなくなって無言になって。そのまま朝を迎えて、ちょっと不機嫌になったりもして。いったん家に帰って、また数時間後に遊ぶ。そんな不毛な時間が、俺は好きなんです。
お話を伺った人:DJ松永
1990年生まれ。新潟県長岡市出身。2013年、ラッパーのR-指定とヒップホップユニット・Creepy Nuts結成。2017年、『高校デビュー、大学デビュー、全部失敗したけどメジャーデビュー。』にてメジャーデビュー。現在は音楽活動ほか、ラジオ・テレビ出演、執筆など多岐にわたり活躍している。
HP:Creepy Nuts Twitter:@djmatsunaga
聞き手:榎並紀行(やじろべえ)(えなみ のりゆき)
編集者・ライター。水道橋の編集プロダクション「やじろべえ」代表。「SUUMO」をはじめとする住まい・暮らし系のメディア、グルメ、旅行、ビジネス、マネー系の取材記事・インタビュー記事などを手掛けます。
Twitter:@noriyukienami
WEBサイト:50歳までにしたい100のコト
編集:はてな編集部