
さまざまな街を舞台に、人間模様を描いたコントや、「街によくいる人」のモノマネが話題となっているスクールゾーンの俵山峻さん。
新潟県上越市出身、5人兄弟の末っ子として育った彼が、芸人を目指して上京したのは18歳のとき。上京後、相方・橋本稜さんらとシェアしていた「吉本芸人ハウス」で暮らしていた時期のことを伺いました。
東京は「街の集合体」だと気がついた

―― 新潟県上越市育ちの俵山さん。東京に出てきて、最初に住んだ街はどちらでしたか?
俵山峻さん(以下、俵山):「早稲田」ですね。
―― 意外なセレクトですね。
俵山:兄たちはみんな新潟の実家を出てたんですけど、大宮に住んでいて。兄の家に遊びに行くことはあったけど、都内の土地勘がまったくなかったんです。
NSC(吉本総合芸能学院)が神保町だったので、まあなんとなく近いところがいいな、と考えたところに、たまたま早稲田にいい物件があって。あまり深く考えずに決めました。
―― 上越から東京に来て、最初に感じたギャップは?
俵山:芸能人が普通に歩いているところですね。上京初日、ある街で当時AKB48のメンバーだった小野恵令奈さんを見かけたんですよ。「東京、マジですげえ!」ってなりましたね。
人の多さには圧倒されましたし、怪しいキャッチもいっぱいいて混沌。でも、それ以上にワクワクの方が勝っていました。
―― 東京は、エリアごとに住んでいる人の雰囲気がかなり違いますよね。
俵山:駅ごとにまったく違うし、「街」がいくつもある。東京って街の集合体だと気がつきました。
―― まさに、スクールゾーンさんのネタはいろんな「街」の人間模様がモチーフになっています。俵山さんは、実際に街を歩きながら人をよく見ているんでしょうか?
俵山:いえ、あんまり意識してないです。
東京ってかっこいいですし、基本的に常に劣等感があるんです。ここ数年でやっと慣れてきた気もするんですけど、僕はずっと「かっこいいな」と思う側なんですよね。だからこそ、いろんな人の様子が目に焼き付いてくるんです。
―― 意識的に人間観察しているわけではなく、パッと入ってくると。
俵山:そうですね。それこそ、昔は高円寺への憧れがすごくて。パンクバンドが好きで、セックス・ピストルズのDVDを買ったり、センスがないなりに服を選んでみたりとか。
でも、店員さんにビクビクしながら、一生懸命なじもうとしている感じで。「俺、ダサくないかな?」「今、話しかけていいかな?」とか、いちいち周りの様子をうかがっていたからこそ、今の観察的な芸風につながったのかもしれません。
鷺宮に存在した吉本芸人ハウスでの日々

―― 東京の中で今いちばん好きな街、または自分に合うと感じる街はどこですか。
俵山:相方の橋本と一緒に住んでいた「鷺宮」ですね。
―― 西武新宿線沿線はとても住みやすいですよね。JR沿線より、少し家賃もお手頃ですし。
俵山:そう、新宿に出るのもアクセスがいい。当時は渋谷の劇場所属だったんですけど、高田馬場で乗り換えするだけだし、すぐ着くんです。バスを使えばスッと阿佐ヶ谷にも行けますし、いろんな方向に動けるのがいいですね。結局、6年くらい住んでいました。
―― 鷺宮に住んでいた頃は、どんな暮らし振りだったんでしょうか。
俵山:相方と、NSCの同期と「お金もないし、シェアハウスしよう」と決めて3人で住んでいたんですけど、暮らしはひどいものでしたね。破天荒でもいいから、とにかく面白いことを探していました。
鷺宮にいた頃は、芸人としての給料が全然なかったんです。とにかくしんどかったし、同期の方が結果を出していて、センスもあって。僕と橋本は、ずっと劣等感がありました。
―― お仕事がない中で、街ではどう過ごしていましたか?
俵山:公園で相方とひたすらネタ合わせをするのにも飽きてきた頃、そこに集まっていた小学生が「サッカーやろう」って誘ってくれて。そこから公園仲間になったんですよ。
そうしているうちに、親御さんとも家族ぐるみで仲良くなって。そこのお母さんが、ご近所だし「お腹空いてない?」「おかずあるから、お米だけ炊いてウチに持ってきてもらえる? 一緒にごはん食べようよ」とか連絡をくださる方で。

―― お母さんも、子どもの遊び相手になってくれる若者に御礼をしたかったんでしょうね。
俵山:不思議な交流でしたね。そのお母さんは写真家さんで、スクールゾーンの単独ライブのポスターも撮影してもらいました。
―― すてきなご縁ですね。
俵山:僕らはその後、鷺宮を出ることになったんですが、その後にEXITの兼近たちが入って、そいつらが出てった後も、また後輩の芸人が入って。吉本芸人ハウスになっていました。
―― ということは、鷺宮は芸人さんが住みやすい街なんでしょうか?
俵山:そうですね、静かですし、地味だけど住みやすいですよ。あんまりお金がなくても暮らしていける。安く飲める店も、個人店からチェーン店まである。僕たちも金欠なのに居酒屋とかに入っちゃって、よく飲み歩いてました。
―― 実際によく足を運ばれていた店は?
俵山:僕の人生初の「芸人」としてのサインは、「やきとり大吉 鷺宮店」に飾ってもらってます。当時の店長さんがよくしてくれて、くすぶったり落ち込んだりしている僕たちに「僕も居酒屋で働き始めたのは30からですし、全然大丈夫ですよ」って声をかけてくれるような方でした。
安く飲める「四文屋」もよく行ってましたし、今は阿佐ヶ谷寄りに移転しちゃったんですけど「らーめん大慶」にも通ってました。
自然豊かな新潟県上越市で過ごした幼少期

―― 地元である新潟県上越市の風景で、最初にパッと浮かぶものは何ですか。
俵山:実家の近くにある、高田城のお堀ですね。城があって、その周りにお堀があって、蓮がぶわーっと浮かんでる。城の背景には、山が見えるんです。通学はもちろん、毎日高田城の横を歩いていました。
―― 城下町で育ったんですね。俵山さんは5人兄弟の末っ子ですが、家族でよく遊びに行っていた場所は?
俵山:家族とのお出かけの機会はあんまりなかったんです。親が音楽教師だったこともあって、兄弟はみんなバイオリンやピアノを習っていたので、レッスンで忙しくて。7人全員で家族旅行をしたのは、覚えている限り一回だけです。
―― たしかに、7人家族だと移動も一苦労ですものね。
俵山:家族全員で行くのは難しいので、友達家族と旅行することはありました。行き先は妙高高原が多かったですね。冬のスキーはもちろん、雪がない時期でも楽しめるエリアです。
自然豊かで、だだっ広い空間があって、夏になると川や高原でひたすら走り回って遊ぶんです。わが家から車で30〜40分のところに「国立妙高青少年自然の家」という宿泊施設があって、そこでキャンプしたり、川遊びをしたりしていました。
―― (調べながら)地元のファミリー層が集まる人気スポットなんですね。
俵山:近場だと、「リージョンプラザ上越」という施設でもよく遊んでいました。夏はプールで、冬はスケート場になるんですよ。海なら「なおえつ海水浴場」。
でも、思い出というか、しょうもないシーンばっかり覚えてますね。
―― しょうもないシーン、とは?
俵山:小学生の頃に親友のお父さんに「なおえつ海水浴場」に連れて行ってもらったんですよ。シャワーに人がいっぱい並んでるからか、ものすごく雑に体を洗ってるのを見て、「穏やかそうなのに、こういう一面あるんだ」って思ったこととか。風景というより、全部、イヤな細かいことばっかり覚えていますね。
―― なるほど、スクールゾーンのネタや「細かすぎて伝わらないモノマネ」シリーズにもつながっているかもしれないですね。
俵山:「上越市立水族博物館 うみがたり」の近くで、親父と釣りをしたときのことも今、思い出しました。地元のおじさんが「何釣ってんだよ?」って話しかけてきて。
僕は人見知りだからうまく喋れなくて、助け舟が欲しくて、パッと親父の顔を見たんです。そしたらおじさんが「お前に聞いてんだよ!」って。
―― 緊張しますね。
俵山:そしたら親父が「勉強になったね、あのおじさんは、お父さんじゃなくて峻に聞いたんだよ」って。子どもの俺からしたら「はぁ?」みたいな。
教師だから、常に「学び」を得ようとするんですよ。親子のやりとりも「この間、全校集会で話したよ」とか言われて、なんなんだよ! って。そんな家でした。
―― 上越市内で、よく通っていたお気に入りの飲食店は?
俵山:「おばちゃんラーメン」ですね。一度閉店してしまったんですけど、惜しむ声が多くて、1店舗だけ復活したんです。純粋な醤油ラーメンで、岩のりトッピングがおすすめです。こないだも同じく新潟県出身のおばた(おばたのお兄さん)さんに紹介したくらいです。
ラーメンでいうと、中郷区にある「食堂ミサ 本店」もおすすめです。ここの味噌ラーメンはにんにくも効いていてクセになります。新幹線の駅にはお土産のラーメンも売っていて、帰るたびに買っちゃいますね。相方も好きなんです。
末っ子が初めて「外」を知るとき

―― 上越市は、雪がとても多いエリアですよね。まだ移動手段がない子ども時代、冬はどう過ごしていましたか。
俵山:小学生の頃はバスでスキー教室に連れて行かれることもありましたが、あとはひたすら家に引きこもっていました。積雪量が多いエリアって、内向的な人が多いですよね。割と、僕も陰というか、根暗の方なんです。いわゆる「ネアカ」な人には、東京に出てから出会った気がします。
―― いろんな土地でネタを披露していて、地域差を感じますか?
俵山:そうですね。県内でも、新潟市とかでライブすると盛り上がるんですけど、上越の人はおとなしいです。大きな声でゲラゲラというよりは、見守ってくださるような。でも、ちゃんと楽しんで、笑ってくれる。静かなんですよね。
―― たしかに、俵山さんも比較的おっとりお話される印象です。ライブ以外でも、地域とのかかわり合いはありますか?
俵山:地元でYouTube撮影をしたときも、地元の友達がいろいろ動いてくれて。店舗への許諾取りまでしてくれました。街で声をかけられることはあんまりないんですけど、友達には助けられていますね。
―― 上越市で過ごしていた頃、東京の街にはどんな想いを抱いてましたか。
俵山:東京への憧れは強かったです。当時は地元の良さにあまり気がつくことができず、「全部あるけど、何もない」と思っていました。生活にも便利な土地なのに「お笑いをやるなら、まず東京に行かないと」と考えていて。
―― 芸人さんを目指すほどにお笑いが好きになったのはなぜですか?
俵山:思春期、中学生の頃かな? 親に隠れて、こっそり深夜番組を見るようになりました。親は教師で、かなり堅かったし、あんまりテレビのバラエティ番組を見せてもらえない家だったんで、その反動もありましたね。
ちょうど『M-1グランプリ』が盛り上がっていった時期で、お笑いにのめり込んだんです。DVDを借りて、ラーメンズさんやバナナマンさんのネタを見るようになって、「これ、俺もやりたいな」と。
―― 東京や芸能界への憧れが大きくなってきた俵山さんが、新潟の外に出るようになったのはいつ頃でしょうか。
俵山:高校生になってやっとですね。「初詣に善光寺いこうぜ!」と、長野まで鈍行で60分かけて行ったのが最初だった気がします。上越は新潟市よりも長野や富山に近い位置にあるので、都会を求めて街に出るときは、なんだかんだ長野方面に行くことが多かったです。
サッカーをやっていたので新潟市に行くこともあったんですが、遊ぶといえば長野でした。とはいえ、誰かの家に行ってしゃべっているだけとか、映画をGEOで借りて家で見るとか、外に行くよりこもる方が多かったですね。
―― ネタでいろんな設定での会話がすらすらと出てくるのは、その頃の蓄積でしょうか。
俵山:そんな気もします。いつも一緒だった友達が3人いたんですが、1人はミュージシャン、1人は映画監督を目指してたんですね。僕もずっと芸人になりたかったし、勉強も含めて、映画や音楽などいろんなカルチャーを追ってたんです。「映画を自分たちで撮ろう!」ってやってみたりもして。結局完成はしなかったですけど、楽しかったですね。
いつかは「のぞき見シネマ&コント」を新潟で

―― これから年齢を重ねていく中で、地元である上越市とはどんな形でかかわり続けていきたいですか。
俵山:大きなホールはもちろん、街のあちこちで、お笑いをやりたいです。例えば「高田世界館」でコントライブをしたり、スクールゾーンのYouTubeチャンネルでもやっている「覗き見シネマ」の上映をしたりとか。
僕たちはリアルなシチュエーションでコントをやることが多いので、地元の飲食店などを舞台にネタをやりたいです。東京からお客さんを呼んで、地元のお店に貢献するとか、そういう形でかかわっていきたいですね。
―― スクールゾーンの勢いで、すぐ実現できそうですね。「地元にUターンしたい」とかは、考えることありますか?
俵山:僕も一生東京にいるかわからないですし、「いつか戻るのもアリかな」と思っています。やっぱりメシがウマいですし、新幹線にさえ乗ってしまえば、東京までのアクセスもいいですし。落ち着いたら上越に戻って、のんびり暮らせたら。
上越ってすごいんです。どこも空が広い。「景色のいい場所に行こう」とか考えなくても、スーパーの駐車場でパッと見上げるだけで、絶景に夕陽が沈んでいくのが見えるんです。生活の隣にある景色が美しいんですよね。それが一番の魅力だと思います。
お話を伺った人:俵山峻(たわらやましゅん)
新潟県上越市出身。地元の高校を卒業後に上京し、NSCへ。同期の橋本稜とともにお笑いコンビスクールゾーンを結成。 YouTube:スクールゾーンChannel
編集:小沢あや(ピース)
