ライムスター・宇多丸さん「原風景は、誰もいないポツンとした後楽園」【東京っ子に聞け!】

インタビューと文章: 柴那典

宇多丸さん

東京に住む人のおよそ半分が、他県からの移住者*1というデータがあります。勉学や仕事の機会を求め、その華やかさに憧れ、全国からある種の期待を胸に大勢の人が集まってきます。一方で、東京で生まれ育った「東京っ子」は、地元・東京をどのように捉えているのでしょうか。インタビュー企画「東京っ子に聞け!」では、東京出身の方々にスポットライトを当て、幼少期の思い出や原風景、内側から見る東京の変化について伺います。

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今回お話を伺ったのは、ラッパーとして、『アフター6ジャンクション』(TBSラジオ)のパーソナリティとして、八面六臂の活躍を続けるライムスターの宇多丸さん。

ライムスターの楽曲「東京、東京」で「オレは港区生まれ 文京区育ち 周りは至ってフツーの人たち」と歌ったとおり、生粋の東京っ子である宇多丸さん。その全方位的なカルチャーに対する造詣の深さは、どのような東京との交わりを通してつくりあげられたのでしょうか。

幼少期を過ごした千駄木の記憶から、原風景でもあるという「人のいない後楽園」でのことや、西麻布でのクラブカルチャーとの衝撃的な出会いまで。これまでを振り返っていただきながら、最後には変わりゆく東京の街並みへの思いについても語っていただきました。

※取材はリモートで実施しました

「谷根千」のなかにもグラデーションがある

――宇多丸さんは文京区の千駄木周辺のご出身だそうですが、当時の千駄木はどんな街だったんでしょうか?

宇多丸さん(以下、宇多丸):「東京、東京」の歌詞の中でも「山の手二割 下町八割」と歌ってるんですけど、僕の中での千駄木の定義は山の手と下町のちょうど境目なんですね。山の上のところに学校や警察の社宅やお金持ちの家がある。坂を降りると下町色が出てくる。そういうイメージです。

宇多丸さん千駄木駅を出てすぐのところに位置する団子坂。坂を下った先にはスカイツリーが見える

――今の千駄木は根津、谷中とあわせて「谷根千」と言われて人気エリアになってますよね。

宇多丸さん:数年前に久しぶりにあのあたりに行く機会があったんですけど、ちゃんと活気があって、若い人のお店もいっぱいあって、いい感じでしたね。もともと千駄木はいいところだと思ってたから、若い人が惹かれるのも「それはそうでしょう」という感じで。

ただ、僕としては「谷根千」って一緒くたにされると「え? 違くない?」となるんです。谷中と根津と千駄木はちょっと違うんですよ。距離にしたら数百メートルの違いなんですけど、谷中はもっと下町寄りで、根津はもうちょっとハイブロウ

――外側から見ると一緒くたにしがちだけれども、住んでいる人にとっては色合いや風情の違いがある、と。

宇多丸さん:僕の中ではハッキリ違いますね。その中でも千駄木は上品とカジュアルさのバランスがちょうどいい感じかな。まあでも、細かい違いなので、歌でも歌ってる通り、千駄木、根津、谷中がバックグラウンドなのは間違いないです。

――子どものころは、どのあたりで遊んでいましたか?

宇多丸さん:最初は団子坂のあたりに住んでたので、その裏手にあった須藤公園という大きな公園でよく遊んでました。もともとお屋敷の庭なんですけど、大きな橋があったり、ちょっとした神社があったり、森のような場所もあってそこにアオダイショウがいたり、自然と造園がセットになったような公園でしたね。

引越してからは、通称「狸山公園」という小さめなごくオーソドックスな公園が近くになって。そこがすべての中心地という感じでした。ただ、バブル期になると千駄木は地上げがキツくなって、友達は散り散りになっちゃいましたし、僕も中学校に入ってからは本郷に引越すことになりました。

文京区が「最高」であることがバレたくない

――本郷も同じ文京区ですが、環境は変わりましたか?

宇多丸さん:全く変わりましたね。僕は私立の中学に通いながら引越しちゃったから、地元の友達もできないし、兄弟もいなかったからいつも一人で過ごしていました。しかも、千駄木の友達も散り散りになっちゃったから、育った街はもうないという感じもあって。

僕の家からは後楽園ゆうえんち(現・東京ドームシティアトラクションズ)がすぐそばだったんですよ。だからジェットコースターの悲鳴が聞こえてくるような場所なんだけど、それはあくまで休日に外から遊びにくる人たちなわけで。僕の印象としては、にぎやかだけど孤独なムードがいつもあるようなところ。自分は一人でいるのが心地いいタイプなんで、それは決して嫌いじゃなかったですね。

宇多丸さん

――当時はまだ東京ドームがなかった時代でした?

宇多丸さん:まだですね。ドームができたのは高校生のころだったから、後楽園球場だった時代です。でも、ドームができたときよりもラクーアができたときの方が、変化がすごかった。

後楽園遊園地全体が入場料無料になったのが何より大きくて。お店も増えたし、あのあたり一帯がめちゃくちゃ開けた空間になった気がします。僕が住んでたのは90年代いっぱいくらいまでですけど、久しぶりに実家に帰ったら、びっくりしちゃいました。最近は小石川のほうも開発してるし、「便利すぎない?」って(笑)。

――東京の外側の人からのイメージだと、後楽園周辺は遊びに行く場所で、住む街として考えていない人が多い印象もあります。

宇多丸さん:いやいや、本郷の辺りが住みやすいということは、わかってる人はわかってるんです。文京区は静かで住みやすいし、台地が多く、比較的地盤も固いといわれている。アクセスも非常にいい。だから、文京区に住んでる人は本気で「文京区がベスト」と思ってます

でも、あまり人に知られたくない。文京区が最高であることがバレたくないんで「吉祥寺、いいですねえ」みたいなことを言ってるっていう(笑)。

学校帰りはパルコに入り浸っていた

――本郷に住むようになった中高生時代によく行っていた場所は?

宇多丸さん:これは断然、神保町ですね。家から歩いて10分ぐらいで神保町に着くので、とにかく時間があれば神保町に行ってました。本屋をぶらぶらして、そこでひたすら立ち読みして、一冊読み切ったりして。今は無くなっちゃった「ミッキー」というゲーセンにもよく行きました。

神保町って古書店街が有名だけど、時代によって流行りの業種の店がドカンと入ったり、わりと変化のある街でもあるんです。だから、例えば90年代は中古のビデオショップがたくさんあったし、エロ本屋も多かった。わりとアングラ感のある場所でもあって、そういうところも好きでした。あとは、中高が巣鴨だったので、学校帰りの遊び場はもっぱら池袋。

――池袋ではどんなところへ?

宇多丸さん:一番は「パルコ」「西武」ですね。パルコの屋上から西武側に行く渡り廊下みたいなところにトレヴィの泉を模したレプリカがあって。そのあたりは人が全然いないんで、そこによく溜まってました。

当時はまだいたエレベーターガールのお姉さんに頑張って話しかけたり、楽器売り場で発売されたばかりのカシオのサンプラーに変なことを吹き込んで勝手に自動演奏させて逃げたり。テレビ売り場に移動すれば、今度は『夕やけニャンニャン』(フジテレビ系)をみんなで座り込んで観始めたり(笑)。最悪の高校生だったと思います。

――パルコは80年代から90年代のカルチャーの拠点になってましたよね。

宇多丸さん:そうなんですよ。今の人に伝えたいポイントは、そこがめっちゃイケてる空間だったっていうことなんですよね。そういうところに学校帰りに行って、イケてるレコードショップで最新の音楽情報を仕入れてたのが今思えば大きかったかもしれない。

――例えば当時はどんなレコードをチェックしてました?

宇多丸さん:僕らの仲間内でみんな好きだったのはYMOだったので、やっぱりYMO周りのリリースとかですかね。あとはいわゆる80'sポップス。デュラン・デュランのサード・アルバムを池袋パルコで買ったのを憶えてます。たしか最初に買った洋楽アーティストのアルバムだったんじゃないかな。

――宇多丸さんと言えば映画批評でも知られています。このころ、映画はどちらで?

宇多丸さん:池袋の「文芸坐」にも行ってましたけど、平日の学校帰りに映画館に行くと先生の見回りがあるような時代だったので(笑)。学生服のまま行くなら「新宿ミラノ座」のあたりも多かったですかね。

あと、休日は断然銀座派でした。家から一番近場だし、映画館も沢山あるし、街も綺麗だし。当時は、映画を観るなら銀座っていう感覚がわりとあったんじゃないかな。

西麻布のクラブで「俺たちの時代が来た!」

――ほかに今の自分に強く影響を与えたなと思う場所はありますか?

宇多丸さん:これは時効ということにしてほしいんですけど、高校に入ってからクラブ遊びに目覚めまして。

――どういった場所に行ってたんでしょう?

宇多丸さん:最初はもちろんディスコでした。新宿はちょっとガラが悪い感じだったから、渋谷の公園通りにあった「LA・SCALA」っていうサーファーディスコに連れていってもらって。当時は未成年でもディスコに入れちゃう時代だったんですよ。

僕は男子校だったから、女の子がいっぱいいて、しかも大好きなダンスミュージックがガンガン流れてるなんて「ここは天国か!?」って感じで。自分にとって完全に居場所でしたね。

でも、そうこうするうちに80年代半ばの風営法の改正があって、いわゆるディスコの深夜営業ができなくなった。そこからクラブカルチャーがちょうど盛り上がっていくところで自分もそっちにシフトした感じです。

――クラブはどこに?

宇多丸さん:僕がよく行っていたのは西麻布にあった「TOOL'S BAR」というクラブだったんですけど、そこでカルチャーショックを受けて。そのころは「マハラジャ」みたいなバブル的なディスコも流行ってて、いわゆる今で言うホストみたいな格好をした黒服が入り口にいて服装をチェックしていたんです。

でも、TOOL'S BARはみんなカジュアルな格好で、ヒップホップ、ハウス、レゲエ、全部一緒くたで、いわゆる当時の最先端のクラブミュージックがかかっていた。まさに90年代の先駆けですよね。

――文化全体がカジュアルになっていった。

宇多丸さん:そうそう。そこで「このラフさ、この気軽さ、このカジュアルさ、このアンダーグラウンドさ、かっけー!」みたいな感じになって。「俺たちの時代が来た!」って思いましたもんね。

宇多丸さん

当時、西麻布には「ピカソ」とか「バブリンダブ」とか別のクラブもあったんだけど、あそこはもっとハイブロウな人が行くところだし、六本木のいわゆるバブルっぽいディスコはベンツに乗ってダブルのスーツ着た大人が集まる感じで、そもそも学生の僕らには勝ち目がない。

TOOL'Sは内装も学園祭かってくらい敷居が低かったし、文化全体がカジュアルになっていくなかで、こっちとしては「あんなダサい世界と俺らは違う」と。最高に楽しかったですね。

――そこでクラブカルチャーに出会ったというのが、今のライムスターとしての活動に至る一つの重要な原体験になった?

宇多丸さん:そうですね。それがなければ早稲田大学に入ってDJやってるサークルに行こうとか、そういうのもなかったでしょうし。小学校の時から仲良かった友達が一人いて、彼がクラブ文化とかファッションとかにすごい詳しくて尖ってたんですよ。彼と夜遊びをしてると、大人の知り合いもできるし、大人のお姉さんの知り合いもできるし。中学まで鬱屈してたのが嘘みたいでしたね。

――当時の街の動きと呼応するように、すごくスムーズに、自然にいろんな遊び場を覚えていかれたんですね。

宇多丸さん:結果的にはそうですね。当時は『宝島』とか、ヒップホップ情報だったら『Fine』とか、雑誌メディアでもそういうアンダーグラウンドな遊び場の情報を発信していたし、現場に行くしかネットワークを広げようがなかったから。現場で知り合う時代だったんです。

余白や草の根から「文化」は生まれる

――ここまでさまざまな街について語っていただきました。改めてご自身の原風景と言えば、どこが思い浮かびますか?

宇多丸さん:それはやっぱり千駄木でしょうね。とにかく坂ばっかりの街で、裏路地が細くて、路地の中に入るとジャリ道もあって。西日暮里の方に抜けると雰囲気が荒っぽくなっていくし、上野の方に行くとちょっと文化の匂いがしてくるし、千駄木を起点に世界のマップを広げていったのが原体験という感じはあります。

あとは中学に入って本郷に引越してからの、ポツンと1人で過ごす平日の後楽園。巨人戦もない平日の後楽園って、全然人がいないんですよ。そういうところがすごく好きで。YMOの『BGM』とか『テクノデリック』とかの暗いアルバムを聴きながら、何の目的もなくそのあたりをフラフラ歩いてた記憶がありますね。

だから、東京と言われてパッと思い出すのは、誰もいない後楽園をポツンと歩いてる光景かもしれない。皆さんが言うような、人がめちゃめちゃいる場所じゃない。人がいない場所のほうが、実は僕にとっては東京っぽいんです

宇多丸さん平日の後楽園周辺。東京ドームシティの観覧車が存在感を放つ

――ここ数年、東京の街はいろんな場所で開発が進んで変わってきていますが、宇多丸さんはそういう街の変化はどう見てらっしゃいますか?

宇多丸さん:東京の街が変わってくっていうのは、今に始まった話じゃないからね。80年代と90年代でも違うし、90年代と00年代でも違うし、それは必然ということでいいんだけど。

ただ、気になるのは、大きな資本を投下して街を根こそぎ変えるみたいなトップダウンのやり方だけでいいのかなとは思いますよね。文化的に新しくて面白いものが生まれる場所って、個人が入る余地や余白のある草の根やアンダーグラウンドなところの方。結局どこも同じテナントが入るんだったらつまらないじゃないですか。

――そうですよね、均質化していくのはつまらない。

宇多丸さん:もちろん、資本を投下して大きな商業施設をつくるのが一概にダメとは言えないですよ。そもそもパルコに関しては、僕らすごく大きな恩恵を受けていて、「六本木WAVE」なんて最高でしたから。神保町にしても、僕が入り浸っていたころにはなかったですけど、神保町シアターができて、となりに吉本興業の劇場があったりするのは面白いと思うし。

だから、資本投下するにしても、ちゃんと文化的にプラスになるような姿勢でやってほしいなということですよね。とにかく、のっぺりさせるのだけはやめてと。そういうところにはあまり行かなくなっちゃう。

――最近はコロナの影響で、個性ある個人店の閉店ニュースなんかもよく見聞きします。

宇多丸さん:神保町にしても、「スヰートポーヅ」がなくなっちゃったりね。「いもや」もとっくにないし……。「キッチンカロリー」とかはまだあるけど、ああいうお店がなくなったらいよいよ寂しくなるなあ。ただ、例えば小石川で言えば、「Pebbles Books」みたいに個人で面白いことをしようというお店も出てきている。どちらかと言えば、僕はそちらの動きに注目していければなと思っています。

お話を伺った人:宇多丸

宇多丸さん

1969年東京生まれ。ラッパー、ラジオパーソナリティ。1989年、大学在学中にヒップホップ・グループ「ライムスター」を結成。2007年、「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」(TBSラジオ)がスタートし、ラジオパーソナリティとしても注目を集める。2018年4月より、「アフター6ジャンクション」(TBSラジオ)開始。著書に『ライムスター宇多丸の映画カウンセリング』(新潮社)、『ライムスター宇多丸の「ラップ史」入門』(NHK出版)ほか、番組関連本も多数。

HP:RHYMESTER

聞き手:柴 那典(しばとものり)

柴 那典

1976年神奈川県生まれ。ライター、編集者。音楽ジャーナリスト。ロッキング・オン社を経て独立。雑誌、WEB、モバイルなど各方面にて編集とライティングを担当し、音楽やサブカルチャー分野を中心に幅広くインタビュー、記事執筆を手がける。

「日経MJ」にてコラム「柴那典の新音学」連載中。著書に『ヒットの崩壊』(講談社)、『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』(太田出版)、共著に『渋谷音楽図鑑』(太田出版)がある。

ブログ:日々の音色とことば Twitter:@shiba710

編集:はてな編集部