
この物語の主人公は人間ではない。人間の玄関先に置かれた野菜の漬物、鮮やかな野菜と地球上で「ここ」でしか食べられない林檎。それらの林檎には傷がある。でも傷んでいるわけではない。
果物は傷がついていても別の生き方があるから精神病にかかることはない。売り物になれない子がいるが、それはその子にとって決して悪いことではない。そのままで別の生き方を受けとめる。
一方で、人間のつくった世界では完璧な果物、同じサイズと色の林檎が求められる。林檎をそのようにつくることは農家にとってとても難しい。見た目のことしか気にならない世界のために、厳しく、つぼみのときから選択が始まる。
そう、果実を大きくさせるためにまだ花の段階から選び、林檎畑に白い花びらが飛ぶ瞬間に、もうすでにその花びらには林檎の可能性は忘れ去られる。それから、小さな実がなり、真ん中の一番大きな子が選ばれる。特別な手の動きで周りの小さな実を取る。夏まで、かなり大きな実になるまでこの摘果が続くので、林檎畑の黄緑色の草の上は、まだ小さな緑の林檎の葬儀のようになっている。
選ばれた子しか大きくならないが、それは自然なことだ。人間の文化から生まれた自然。林檎の木は病気になったら、特別なケアが必要になる。それは畑の栄養がたっぷり入っている泥を巻くこと。悪くなった人間の腕を包帯で巻くのと同じ。

林檎はわれわれと同じ近代の産物だ。明治の弘前城に1000本の桜を植えた元藩士の菊池楯衛は、弘前で初めて林檎の苗木の配布および試植した人物としても知られている。青森県内で西洋果樹の苗が試験的に植えられたのが明治8年(1875年)。菊池は明治10年(1877年)に北海道初の農業研究所であった七重官園(七重農業試験場)で林檎栽培を学び苗木の生産・販売を始めた。
この試験場は明治政府による近代化のなかで重要な役割を果たすものと位置づけられた。函館はすでに日本最初の国際貿易港として開港した函館港の発展によって、異国との交流が深い都市として成長し、「開拓使十年計画では、アメリカ合衆国の農務局長ホーレス・ケプロンが招かれ、北海道全体の開拓について詳細な調査を開始され、その構想の一つに、農業試験所の設置と農業の育成が掲げられていた」のだ。(参考:開拓の歴史 - 北海道最初の試験農園「七重官園」 |函館開発建設部)
それとは対照的に青森県における林檎栽培は簡単な道のりではなかった。『青森県デジタルアーカイブス/19_青森県史資料編近現代2』によれば、
りんご栽培は明治20年代に定着し、30年代に隆盛を迎えるが、それは同時に病虫害との戦いの歴史であった。りんご栽培の隆盛の背景には、鉄道網の整備にともなう国内販売の増加とともに、ロシア向けの販売の急増という事情もあった。こうしたりんご販売の増加は、荷造方法や品質保持の改善をめざした販売組合の組織化を促し、りんご行政の拡充につながった。
ともかく、菊池ら先覚者の試行錯誤の末、津軽地域を中心に林檎栽培が広がり、現在は全国の生産高の60パーセントを占めるまでになっている。
私が住んでいるのはこのような街だ。林檎畑がたくさんあるところ。でも、今回はさっき書いたように、立派な綺麗な林檎ではなく、傷のついたのが主人公だ。売り物になれない林檎こそが地元の人たちのつながりを深くしているからだ。人は昔からシェアリングということをしてきた。自分の持っているものをほかの人と共有したり、お裾分けしたり、近所と大事な仲間にあげたりする。

この土地の代表的な贈り物は林檎だが、店に並ぶ商品としての林檎とは別に、地元の人しか知らないもう一つの林檎の世界がある。鳥や虫に開けられた穴のある林檎、色むらのある林檎、傷ついた林檎は商品価値がなく市場に出回ることがない。規格外でも状態が良ければ道の駅などで安く売りさばき、ジュースになることもある。でも大体の場合は誰かの暖かい家に送り届けられている。それも木箱ごと。そこからさらに家から家へ、人から人へと渡されて、シェアされる。
私も調査先で知り合った林檎農家や研究テーマであった獅子舞の調査で出会った大切な方から林檎をいただき、それをさらに周りの友達にも分ける。もらった林檎では子どもが飽きるまでパイやケーキを焼き、それでも残ったものを煮林檎にする。
でもなぜか自分の家だけで食べるのはつまらないと感じる。必ず誰かに分けたくなる。そうして箱に林檎が少なくなったタイミングで、まるでその事実が伝わったかのように新しく林檎の箱が届く。それを食べ、また配る。じつに楽しい。たまに違うところから同時に林檎の箱が届くときもあるけれど、ちゃんと次に配る人がいるので、林檎の命は余ることなく大事にシェアされる。林檎を切って傷の周りを確認するのも好き。小さな傷と黒ずみ、鳥の食べた跡が好き。その傷をさわって、周りを削って、林檎の手術をしているような気分。美味しく食べると林檎も喜ぶ気がする。
漬物でよみがえる、故郷・ルーマニアの記憶
ルーマニアの都会や以前住んでいた東京では見られなかった“お裾分け”の文化に弘前で出会った。
ここに住むと林檎だけではなく、春に山菜、夏に新鮮な野菜、秋にキノコをいただくことは実際よくある話なのだ。その上、一年を通して郷土料理や漬物を獅子舞の調査でお世話になっている女性からいただく。

私は漬物をよく食べる。ルーマニアの田舎で秋から冬にかけて祖母が美味しいピクルスを漬けていた。ルーマニアの農家には必ず地下室がある。地下室というより宝の部屋と呼んだ方がよさそう。お金でいっぱいだからではない。そこは一年中暗く、一定の温度に保たれているため、食品の保存に使われている。
まずは大きなワインの樽が二つ置かれてある。部屋の真ん中に。階段を下りる瞬間からワインの発酵する匂いがする。祖父は冬の間、いつも頬を赤く染めながら、このワインを目当てに地下に降りる。ワインの出来を味見するために毎日、毎食後、何度も降りていく。来客のあるときも、祖父はまた地下室に降り、ワインを大きな陶器のカップに注ぎ、暖かい薪ストーブのある居間で訪ねてきた人に分けてあげる。
畑の野菜のピクルスとその冬に潰した豚の自家製ソーセージも一緒に。
地下室は入って右に大きな棚があって、大きな万華鏡の中に入ったように、色鮮やかな瓶が並んでいる。ピクルスの詰まった瓶だ。緑色の青トマト、真っ赤なパプリカ、カリフラワーの白いピクルス。トマトソース、ルーマニアではザクスカと呼ぶラタトゥイユの瓶がぎっしりと。色んな果実のジャムもある。苺と杏、花梨のジャムが一番好き。
中でも多いのは畑でたくさん採れるキュウリのピクルスの瓶。部屋の奥、ワイン樽の後ろの辺りには鍋が二つ置いてある。子どもの胸の高さぐらいもある大鍋。蓋を取ると雪より真っ白なラードが固まっている。祖母が大きな木のスプーンでその固まったラードの中を掬い取ると、まるで海底に沈む財宝を取り出したかのように、私の目に巨大な豚肉の塊が飛び込んでくる。
あんなに美しく固まった真っ白のラードの中にこんなにも生々しい肉塊が潜んでいるとはとても思えず、幼い私はそのたびに驚いた。だが、この肉こそ人生で味わった最高の肉だと自信をもって言える。冷蔵庫がなかった時代、豚は自分の家で飼育し、その肉はラードに漬けて保存していた。
人間の間だけにとどまらない、分かち合いの心
さて、ワイン、肉、ソーセージの味と香りを惜しみながら、弘前の家の話に戻るとしよう。今年は調査先でお世話になっている林檎農家の女性から彼女の家で畑をやっていいと許しを貰って、林檎畑の脇に野菜を植えた。私の様子を見ていた隣の家に住む90歳のお母さんからは、カボチャの苗をたくさんいただいた。そのカボチャの苗はどんどん大きくなり、ある日久しぶりに畑を見に行ったら、生い茂る雑草の中に大きな白い卵を見つけて驚いた。一体、なんの鳥がこんなに大きな卵を産むのかと一瞬思ったが、よく見ると隣のお母さんが分けてくれた苗からできたカボチャだった。

後でわかったが、白雪姫カボチャという色の白い品種とのこと。醤油煮、ケーキ、カボチャパイなど作ったが、味はメロンにそっくりだった。
こんなに美味しいカボチャを食べたことがない。カボチャはたくさん採れたので、私もシェアすることにした。隣のお母さんはカボチャだけではなく、たくさんのキュウリと朝顔の苗をくれた。夏場には自宅のカーポートの脇に綺麗な朝顔のカーテンができて、東から入る光を鮮やかな青と紫で照らした。
私は畑でできた作物を人間とだけ分かち合ったわけではない。その農薬などを使わずに育てた野菜を食べにくる虫たちとも分かち合っていた。農家の自家消費用のお米も、虫に食べられた黒い跡がついたままでもそのまま食べる。私たちは本当のところ虫や鳥などほかの生物が残したものを食べているのではないか。
虫食いについて農家の方にこう言われた。
「美味しいから食べたんだよ。薬がかかると食べないから」
確かに、誰かが食べたあとに食べるということは分かち合うということである。このような生き方が本来の姿なのかもしれない。
今年の夏、畑に植えたキャベツにたくさんの青虫が出た。一つひとつ手で取って遠くに逃したけど、次に行ったときはさらにたくさんやって来ていた。調べてみると青虫というものは意外に長い距離を歩くことができるそうで、私が植えたキャベツが気に入って戻ってきたらしい。もう一度一つひとつ手で取って大きな葉っぱに乗せて林檎畑の反対側に連れていった。
次に畑を見に来ると、キャベツを守る網の中に何十匹ものモンシロチョウが飛びまわっていた。とても美しくて、私は野菜畑ではなくモンシロチョウの保育園を作ったように思えて、手と頭に止まるモンシロチョウのお母さんになった気分だった。そして、キャベツをモンシロチョウと分かち合えたことにも喜びを感じた。人間が食べる分のキャベツはもちろん十分に残っていたから、友達にもシェアできた。キャベツの収穫がすべて終わったあとでも、畑に戻るたびに必ず私の周りにはモンシロチョウが集まってきて、また母親の気分になる。

玄関先は、果物や野菜が魔法のように現れる場所
この畑についてもう一つのエピソードがある。私が使わせてもらっている畑は元々、その家のお母さんが作物を育てていたところだった。彼女は2年前に突然亡くなったため、畑をやる人がいなくなってそのまま荒れ放題になっていた。ところが、私が畑をやり始めたら、何もしていないのにたくさんのニンニクができて、亡くなったお母さんがあの世からニンニクを分けてくれた気分になった。
弘前というところは、このようにとくに女性の間で贈答の文化が盛んな土地柄だ。若い人でも、今日もママ友から美味しい食パンをいただいて、先週は別のママ友から国産のワイン、この夏はまたもう一人のママ友からたくさんの美味しいピーマンを箱ごとにいただき、さらにまた別のママ友から仕事の帰りに、仕事先で採れた新鮮な野菜と果物を、という風に。そして頂き物はだいたい玄関先に置かれている。なので、弘前に住んでから家の玄関先が特別な場所になった。玄関先とは漬物や果物や野菜が突然魔法のように現れる場所なのだ。

お裾分けという言葉は「裾を分ける」という意味になる。「お裾分け」の語源は諸説あるようだが、私は「自分の身につけたものの一部を分け与えること」と解釈している。お裾分けする人々同士の関係はこのような言葉を超えたコミュニケーションであり、交換される果物と野菜、モノにまつわる物語でもある。
英語のshareという言葉の語源は、古英語では「分割された部分」を指すscearuであり、現代ドイツ語では「群れ」「多数」を意味するscharとなる。シェアすることによって複数になるということだ。1人では生きてはいけないという知恵の源でもある。
それは絡まり合う生をシェアして、増殖させるための物語なのだ。
筆者:イリナ・グリゴレ

文化人類学者。ルーマニア生まれ。2013年東京大学大学院博士課程に入学。青森県内を主なフィールドに獅子舞、女性の身体などをテーマに研究している。また2023年からバヌアツで女性に関するフィールドワークを開始している。著書に『優しい地獄』(亜紀書房、2022)。
X(旧Twitter):@IrinaGRIGORE18
編集:はてな編集部
