何度も助けられてしまう定食屋がある街、幡ヶ谷

著: 野村由芽 

この街に暮らせる時間は人生のうちできっと長くない。いつか思い出すたびに、幸運な記憶として、こころに街の気配やにおいをうかべるだろう。目をほそめて、かすかに見たことを覚えている夢のようなひとこまを今生きている。わたしにとって幡ヶ谷は、そういう街なんじゃないかと思うことがある。

建物や店の移り変わりが激しい街だとか、若い時分だけに住むのが楽しいたぐいの街だとか、そういうことではない。住民の年齢の幅も広く、商店街を一本入れば、幼稚園やスポーツセンターがあってのどかな雰囲気だ。森や林があるわけではないけれど、街が青々しいのは、季節の訪れを知らせる花が次々に咲く西原緑道の存在も大きいだろう。緑道にブランコがあるのもすきだ。おもちゃのような乗り物がだいすきで、ときどき遊具の値段を調べている。ちなみにブランコは50万円ぐらいで買うことができるらしい。

18歳まで栃木県宇都宮市で育ち、大学入学とともに東京で暮らしはじめた。今年36歳になるので、人生の半分を栃木、もう半分を東京で生きていることになる。この街に住みたくても住み続けることはできないかもしれないと懸念するのは、一体いつまで賃貸で暮らすのか、という疑問に自分が正面から向き合いきれていないからだ。我が家は荷物が多く、広さを求めればそれなりの家賃が毎月出ていく。あと10年払い続けたとしたら……と電卓アプリをたたき呆然とする。やはりこの家に住み続けることはできない、と思う。

この街に家を買う? だけどある夜、ローンのシミュレーションをしながら泣いた。「35年ローン」という表示をみた瞬間、人生にはタイムリミットがあること、その有限の人生の終着点から、見知らぬ誰かによって逆算のカウントダウンをつきつけられたような怖さにどんどん沈み込んでいき朝まで眠れず、ボロボロ泣いた。「ローン組むのにむいてないと思う」と同居人にあきれられながらなぐさめられ、36歳になるというのに全然人生設計できてないし感情がままならなくてうける、と思う。似たようなことに悩む人がいたら本当に話したい。

だけど、ずっと住むことができなくても、この街でもう少し、暮らしたい理由があるのだ。この店がある限りは住み続けたいと願っているある店のこと。

駅前を離れ山手通りに向かう途中に、その「甲田(こうだ)」という店はある。看板には「洋食・中華」と書いてあるが、メニューはジャンルをこえて多岐にわたる。ロースカツ、ヒレカツ、コロッケ、エビフライ、ハンバーグ、カレーライスなどの「丼物と定食」。正油ラーメン、チャンポンメン、とんかつラーメン(いつも気になる存在!)などの「メン類」。サバ塩焼定食、赤ダイ定食などの「魚定食」。ほうれん草のごまあえ、温やっこ、しらす大根おろしなどの「一品物」。定食を食べればおなかが満たされ、ビールと一品物をつまめばたましいが癒やされる。そういうたぐいの店だ。

訪れたきっかけは、今は釣りをしたいからという理由で北海道に引越していった、ある友人の行きつけだと知ったからだった。2年ほど前から行きはじめ、はじめてのれんをくぐった日から忘れられない。まあるい背中を人生の一部にして、少女のようにきびきびと動くおばあちゃんが店をさばいていた。定食を注文した。目をみひらいて、「服がほんとうに素敵ね。よく似合っている」。

その日はたしか、途中でやめるというブランドの花柄のパッチワークのワンピースを着ていて、2020年夏だった。コロナに見舞われた最初の夏だった。思うように外出もできず、気分を晴らしたいという無意識の表れか服がどんどん鮮やかになっていた時期。立ち去る客としてではなく、わたしをちゃんと見てくれた、という感覚がからだに残り、豚肉の薄切りもちょうどよく好みの厚さで舌がほぐれて泣きそうになって、そんなものはないはずの羽がはえたみたいに足取りが軽くなった。

何度も通ううちに、こうだのすきなところが増えていった。わたしはすきな人やもののすきなところを100個言いたい欲望がある。今日はそのなかから少しだけ抜粋する。ひとつめ、生ビールを頼むと、おばあちゃんが「おつかれさまでした」とねぎらいの言葉とともに出してくれること。初めて言われたとき、たったの一言なのに疲れがとれた気がして今魔法にかけられたなと思った。

ふたつめ、マカロニサラダの味つけが少し薄めになっていて、追加でマヨネーズをつけて自分で好みの味を探しながら食べるのが楽しいこと。しかも、サイズを「大」に変更できるのだ。その食べ方を常連さんがしているのを見て、山盛りのマカロニサラダをつまみに生中を飲みながら店内のテレビを見るなんて幸せがだだもれてる〜と感銘を受け、それ以来マネしている。

みっつめ、顔見知りになると、だんだんおまけをつけてくれるようになること。たとえばうさぎのりんごをデザートに。新潟産の野菜をつかったおひたしを小鉢に入れて。恐縮しながらも、おまけという存在はいくつになっても、どんな気分のときでも、どうしたってうれしくなってしまう。

よっつめ、「いらっしゃいませ〜!」と「ありがとうございました〜!」をお店の人全員で目を合わせながら言ってくれること。この店がなぜ居心地がいいのか、活気があると感じるのか、トンカツを揚げていても、ごはんをよそっていても、このお客さんが店にきてくれたのだ、ということを確かめるよう肯定するよう、視線をおくることを欠かさない人たちがいるからだ。今日も生きて、こうだに来てよかったと、ここで思う。

……と、愛は尽きないのだけれど、訪れるたびに、おばあちゃんと、厨房にいる娘さんは、毎回服を褒めてくれるのだった。慣れることなく、新鮮に、さっぱりと心をこめて。わたしをよく見て、「あなたに似合ってる」と言う。この2年は新しい服は、最初にこうだに着ていくというのが自分のなかだけの果たしたい約束のようにもなっていった。

今年はじめてこうだに行った年明けの昼のこと。お会計のとき、おばあちゃんと話しながらお会計をしていると、厨房にいる娘さんの様子がいつもと違う。花束を両手で抱えて待っていた。

「これあげます、わたしたち母娘(おやこ)が大ファンだから。これを育てているのは農家さんで、きれいな花だから、あげたいなと思ってつくったの!」

そうやって手渡された花束には、茎のすっくとのびた植物がひとつになっていて、サニーレタスっぽいひらひらの花やかぼちゃ色の花など、たしかに全体的に野菜っぽい花束だった。包んだセロファンの端が波のかたちにほんのすこしぎこちなくカットされていて、はさみで切ってくれたのかな……と思ったら、もう全然、たまらなくなってしまった。あらゆる種類の料理を厨房で器用につくりわけながら、「いらっしゃいませ」と「ありがとうございます」のたびに一人ひとりにまなざしを送りながら、こっそり花束をつくってくれた母と娘。ここは、そういう店だ。厨房をへだてて向こう側にいる人たちの人生をほとんど知らないのに、交わったひとときだけで、わたしはこの店に何度も助けられてしまう。

ほかの人にとってはたいしたことではないのかもしれない。これで世界は変わらない。でもそんなふうに書きながらもこう問う。大きなものから小さなものへと、逆算するばかりが人生だろうか。終わりから今を逆算して、効率よく生きようとする仕草だけが、心を生かすのだろうか。そうではないと信じたくて、わたしはこういう瞬間がかけがえのない宝物だと思い続けてきたのではなかったか。

「常連のお店はいいものだ」と耳にすることはよくあっても、「定食屋の母娘から花束をもらうことがある」と教わることはないし、おそらく占いで予見されこともたぶんほとんどないぐらいに、一般化しづらいできごとが世界には無数にある。そういう、一人ひとりの個人の人生だけに起きる、くわしくてこまかくてちっぽけで再現性のないできごとが生成されているのを味わうその瞬間に、人のいとしさ、街の豊かさ、生きる不思議を感じて、「明日もちょっとがんばろうかな」と全身でのびをしたみたいに、たましいがしゃきっと磨かれるのではないかと思うのだ。

この日、こうだをあとにしたら、いつも通っている帰り道にはじめて「ご自由にお持ち帰り下さい」の箱があった。金色のチェーンで編まれた小さな小さなバッグが太陽の光を浴びて、眩しく佇んでいた。今日はきっとそういう日なのだろうと思い、そのバッグを手にとり首にかけた。後ろを振り返り「ありがとうございました」と口に出して、明日からもまた、この母と娘がいる定食屋に向き合えるような自分でいられるように過ごそう、と小さく決意した。そう思い続けられる限りは、この街で生きていきたいのだ。小さくたよりない、吹けば飛ぶような、そんな風景が、わたしのこの街で暮らしたい理由なのだ。

(ちなみに花束を花瓶にいけたら、1ヶ月以上ぴんぴんしながら生き延びた。)

著者:野村由芽

野村由芽

編集者。2017年にCINRA同僚の竹中万季と“She is”を立ち上げ、編集長に。2021年、個人と個人の対話を出発点に、遠くの誰かにまで想像や語りを広げるための拠点としてme and you, inc.を設立。個人的な想いや感情を尊重し、社会の構造まで考えていくメディア・コミュニティ「me and you little magazine & club」を運営するほか、性について自分の温度で話しはじめてみる音声番組「わたしたちのスリープオーバー」をJ-WAVEおよびSPINEARで配信中。
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編集:ツドイ