著者: 田中馨(Hei Tanaka)
♪「埼玉県 飯能市 小岩井613〜954!!!」
つい先日、ぼくはこの歌を口ずさみながら、久しぶりに自由の森学園へ遊びに行った。
自分たちの学校の住所をそらで言えるように誰かがつくったものが、ぼくの世代まで歌い継がれていたのか、はたまた、その辺でさっき生まれた誰かの鼻歌だったのかは、いまとなってはわからない。だけど、ぼくはこの歌が好きだった。
GoogleMapにこの住所をいれたなら、たちまちぎゅーんと指し示してくれる。車で1時間。歌っているとあっという間だ。
♪「埼玉県 飯能市 小岩井613〜954!!!」
この「954!!!」がなんの数字なのかさっぱり思い出せないけれど、記憶の改竄を臆せずに歌う。なぜなら楽しいから。歌の楽しさを再確認したところで到着。授業中に校内をぶらぶらして、下校の時間をぼんやりと中庭から眺める。いまの自由の森学園の空気を思いっきり吸い込んだ。
自分の中に地図があったとして、そこにはGoogleMapでいう「赤いピン」がたくさん刺さっている。そして、そのピンには細かくその当時の様子や感情が書き込まれている。なかなか壮観な眺め。いろんな場所にいろんな記憶があることに少し誇らしくもある。えらいぞ自分。勇敢だった。
そして、その地図のど真ん中には、埼玉県飯能市にある「自由の森学園」がある。
ユートピア。入間の友達の家と味の民芸
高校2年生のときに、寮生活をやめて通学に切り替えた。
横浜線の始発駅、東神奈川から終点の八王子。八高線に乗って東飯能まで片道2時間、そこからさらにバスで20分。眠りたい盛りの男子高校生にこの距離は、少しだけ長すぎた。自然と週の半分以上は友達の家に泊まるようになる。ジプシーな学校生活を送る中、ついに、飯能の隣町の入間市に最強の家を見つけ出した。
その家にはセガサターンがあったし、紙パックのオレンジジュースが冷蔵庫に敷き詰められていて、飲み放題だった。あたりの日には和食レストラン「味の民芸」に連れていってくれることもあった。高校生にしては渋めのファミレスに、なぜか僕たちは小躍りした。泊まりにいかなかった日に友達から「民芸にいった」と聞くと、「畜生!なんで俺は家に帰っちまったんだ!」と、その場にいなかった自分をひどく責めた。
そして寝坊をしたら、やれやれと言いながら学校まで送り届けてくれる、優しいお母さんがいた。ぶっちぎりの最強だ。
唯一のネックは、3つ上の兄ちゃんという存在。部屋ではしゃぎすぎると、部屋主である友達が呼び出され、あきらかに腫らした顔で「なんでもない」と言いながら帰ってくることも度々だった。(格好よくて、優しくて、ちょっとバイオレンスなお兄さんでした……)
謝ることも、笑い飛ばすこともできない、なんとも言えない空気の中、粛々とゲームをしたり漫画を読んだりするのは、いま思えば「マジックアワー」とおぼしき美しい時間だった。
最強の家を手にしたぼくたちの住みよい街づくりは学校にまで侵食していく。そのころの流行りといえば、DJによるMIXテープで、クボタタケシさんの「CLASSICS」や、須永辰緒さんの「Organ B. SUITE」、MUROさんの「KING OF DIGGIN'」など、魅力的なラインナップが次々にリリースされていた。
そのMIXテープに入っているアーティストや、曲をメモして、レコード屋にいざ出陣。バイヤーよろしく、高速ディグを見よう見まねで実践するも、「レコードを落とさないで」と怒られて、すごすご退散。
金がないぼくたちは、だれかが買ったMIXテープ、雑誌、スケボービデオ、そういった類をシェアするべく、学校にじゃんじゃん持ち込んで、(ポータブルレコードプレイヤーやテレビデオとかの機材も)到底勉学に励む場所とは思えないほどリラックスした空間を校内につくりだし、まさに24時間体制のユートピアをつくりだしていた。
朝日マジリスペクト
自由の森学園は事前に申請さえすれば、いつでもライブを開催できた。ぼくたちはパンクライブを企画して、ライブのために東村山の音楽スタジオ「サウンドスクエア」のオールナイトパックで朝まで練習するのがお決まりのコースだった。
練習が終わり、朝日の差し込むガランとした通りを仲間と一緒に歩く。朝日と、男子高校生の組み合わせは最強だ。漫画の主人公にでもなった気分だ。何にだってなれるし、何度だって生まれ変われるんだ!朝日マジリスペクト。
ある日のスタジオ帰り、朝方の公園で喋っていたら警察が来た。高圧的な態度でぼくたちを睨みつけながら、地面に落ちているタバコの空き箱を指差して「どうせお前らが吸ったんだろ」と、言った。
友達は「頭ごなしに決めつけるのはひどいじゃないですか!」と、憤慨した。「大人はすぐに人を決めつける!」とかなんとかも言っていたかもしれない。ぼくは立ち向かう友達の横顔を見ながら黙ってしょんぼりしていた。
そのたばこはぼくのものだった……。
何度だって生まれ変わろうぜ!
禁断のバーガー。後悔のお姉さん
スタジオがある東村山から一駅の所沢には、プロぺ通りというストリートがある。そこでは、ルーズソックスを履いた女子高生や、こんがり日焼けした男たちが闊歩していた。リトルセンター街。普段山の中の学校ではあまり出会えない人間たちに、ドキドキしながら向かったのをよく覚えている。
かつて象さんマークの『ドムドムハンバーガー』が心のバーガー屋さんだったぼくにとって、プロぺ通りのロッテリアで「プロぺ通り常連っす。うーっす。」の顔で食べるバーガーは、その圧倒的肉汁と心のドムドムへの背徳感に挟まれた、まさに禁断のバーガーだった。ぼくは大人の階段を一つ登った気がした。たかがプロペ通り。されどプロペ通り。
一度、友達とニ人でこの通りを歩いていたら、スラッとした綺麗なお姉さんニ人に、「遊ばない?」と声をかけられたことがある。綺麗なお姉さんが言う「遊ばない?」の意味が一体なんなのか分からず、一瞬でパニックになった。ぼくたちが必死に読んだバイブル「smart」にも「POPEYE」にも、その対処法は書いてなかった。
結局「すごく遊びたいけど予定がある」という煮え切らない対応でその場を後にした。もちろん予定なんてなかった。そして、友達と2人、ひどく後悔した。このときにぼくは学んだ。やるかやらないか。どちらか選択を迫られたなら、やって恥をかく人生を選びたい。
情けなくも美しい、東飯能クルージング
このころはスケボーに夢中で、学校内に勝手にバンクやボックスをつくって遊んでいた。友達が家からビデオカメラを持ってきて、スケボービデオの真似事をした。飯能駅のロータリーには、上手なローカルのスケーターたちがいて「ガキが調子のってんじゃねぇ」と、威嚇されるので、ロータリーを通るときはスケボーを腕に抱えてそそくさとその場を後にする。ジーザスクライスト。情けねぇ。
飯能駅から、徒歩10分ほどのところにある東飯能駅。そこに恐ろしいローカルスケーターたちはいない。ぼくたちは我が物顔でスケートボードに乗る。とたんに街は遊び場になって、どの景色も真新しく輝いて見えた。
東飯能クルージングをかましたあとに、友達と通ったのが「スパゲティハウス NABE」。夫婦が営むこじんまりとしたこのお店がお気に入りだった理由は「贔屓にしているお店がある俺たち」というスパイスが効いていたんだと思う。
赤ギンガムチェックのテーブルで、少し贅沢なスパゲティをすすった。おいしそうに食べる友達に「今日はこっちの味が正解」なんて、くだらない意地を張った。
自分の小ささや情けなさを知ることの連続だった。
何にもならないようなことを、夢中でやっていた。
その一つひとつが、自分で選んで手にした体験の積み重ねだった。
ぼくの世界は少しづつ広がっていった。
小心者も山猿になれば死すら恐れぬ
飯能、入間、所沢近辺で肩をあたためた少年は、いよいよ渋谷に降り立つ。
お年玉を握りしめて、少し興奮しながら肩で風をきって歩く。タワーレコードの先、宮下公園のある横断歩道でお兄さん二人組に声をかけられる。内容は忘れてしまったけど、ほどなくしてぼくは震えながら一万円を差し出していた。怖かった。早く帰って布団の中で泣きたかった。渋谷嫌い。
そして山猿の如く、山の中の学校に帰る。
帰れば肩を寄せ合ってくれる人がいる。
笑い飛ばしてくれる人がいる。
説教してくれる人がいる。
こんなに心強いことはない。
山猿最強!ウキーッ!!!
何度も失敗できるのは、帰る場所があるからだ。
高校三年生の学園祭。締めとなる後夜祭で、司会を務めることになった。普段は学校行事になるべく関わらないように生きていたぼくは、最後の年に何かを残したかったのかもしれない。相方の後輩とぼくは、会場になるグラウンドを見下ろす崖の上に、自転車で二人乗りの形でスタンバイしていた。
用務員さんが飛んでやってきて「やめろ、お前ら本当に死ぬぞ!」と言われた。そのときスピーカーから、ゆずの「夏色」が響き渡った。ぼくたちは用務員さんの制止を振り切り、大声で歌いながら、崖を駆け降りた。
しかし、あっという間にバランスを崩して、ぼくたちは転げ落ちた。「この長い〜」くらいで転げた。あとは重力に身を任せるだけ。残りのサビに混じって悲鳴が聞こえる。ぼくがやり遂げたかったことは、これだ。
ゆずと悲鳴。自由の森学園ありがとう。山猿は死すら恐れない。
卒業。バウムクーヘン。迷わずに帰れる場所
そんなお猿さんたちも卒業を迎えれば、一同解散。めいめいちりぢりに生きていきましょう。ってことにはそうそうならない。
何の気持ちの変化も訪れなかった。好きなことを好きなだけやる。それしか考えられない。相変わらずオールナイトでスタジオに入ってたし、レコードの高速ディグの習得に余念がなかった。
大きな転機といえば、学生時代は決して仲がよかったわけではない星野源くんの家でヘンテコな音楽を聞き合うようになっていた。六畳一間の部屋に、オーディオとギターとこたつ。必ず急須にいれたお茶を出してくれて、由緒正しき中央線の青年を絵に描いたような生活を送る源くんは、ヘンテコな音楽を聴くと弾けるように笑った。それが嬉しくて、あっついお茶をすすりながら、時間を忘れて過ごしてた。
そして2000年にSAKEROCKを結成した。ここから加速度的に新しい人や音楽に出会い、ぼくの中の地図はみるみる広がっていった。同時に、最強の家にはいかなくなっていったし、パンクバンドもやらなくなって、スケボーもしなくなった。飯能は遠い街になって、「スパゲティハウス NABE」よりおいしいパスタをたくさん知った。
谷川俊太郎さんのバウムクーヘンという本の中で好きな言葉がある。「ヒトが木の年輪(バウムクーヘン! )のように精神年齢を重ねていくものだとしたら、現在の自分の魂の中にゼロ歳からいまに至る自分がいてもおかしくありません。」
いまこのときにもぼくの中には、40年分の自分が内包されているなんて誇らしい。
心の地図を広げて書き加えていく。
不安になったり、道に迷ったりもする。
相変わらず、自分の小ささや情けなさを知ることの連続だ。
そんなときに、ど真ん中にある「自由の森学園」を探す。
いつだって迷わずに帰れる場所。
そこには、肩を寄せ合ってくれる人がいる。
笑い飛ばしてくれる人がいる。
説教してくれる人がいる。
こんなに心強いことはない。
行き先がわからなくても、不安はない。
この歌が道しるべ。
♪「埼玉県 飯能市 小岩井613〜954!!!」
<田中馨のプレイリスト>
飯能の街と山の中の学校のなんてことのない景色を思い出しながら、あのころ聞いていた音楽を探していると、不思議といなたい選曲になりました。いなたいけど、明るい音楽たちです。ぼくの自慢の友達です。肩を寄せ、あなたの生活にそっと寄り添ってくれると思います。なんてことのない毎日にささやかでワクワクする音楽をどうぞ。
著者:田中馨
元SAKEROCKのベーシスト
現在は自身のバンド「Hei Tanaka」
赤ちゃんと楽しむ 世界の遊び歌 わらべ歌を演奏する「チリンとドロン」
子どもと一緒にあそびを学ぶ「ロバート・バーロー」を軸に
「オオルタイチ」や「川村亘平斎」をはじめ、数多くのミュージシャンと音楽活動のほか、舞台作品や映像作品の音楽を担当する。
Instagram:heitanaka