「浜松」で出会ったのは、夢を追いかけていたころの僕だった

著: 田中嘉人 

「あんたなんかにできっこない。できるわけがない」

 

母親は、まるで口癖のように僕に言い続けた。

 

母親がそう言うのも致し方なかったように思う。高校時代の僕は、ただの落ちこぼれ。なまじ進学校へ入学してしまったばかりに勉強は全くついていけず、赤点を取り続けた。スポーツや芸術の才能もゼロ。母親は、さぞ不安だったと思う。

 

僕が本格的に焦りを感じたのは、高校3年になってからだ。次々と難関大学への合格を決める友人たち。偏差値も足りなけりゃ、やりたいこともない。周囲との圧倒的な差を感じたまま、僕の高校生活は終わった。そして、当然のように浪人生活が始まった。

 

1年後、どうにか滑り込んだのが静岡県浜松市にある静岡文化芸術大学という小さな大学だった。

 

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思い返すと、今僕がライターという道を歩むことになった原点がここにある。僕にとって浜松は、夢を語らせてくれた街だったのだ。

 

“遠州のからっ風”が心の隙間に吹き込んだ。

静岡県浜松市。静岡県の西部に位置する政令指定都市だ。

 

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東京からは東海道新幹線ひかりで約80分、名古屋からは新幹線に乗らなくても約86分でアクセスできる。主要産業は、製造業。SUZUKIのような自動車メーカー、YAMAHAや河合楽器のような楽器メーカーが幅を利かせ、郊外に巨大なショッピングモールが次々に生まれる……典型的な地方都市だ。

 

同じ静岡県でも、僕が生まれた県庁所在地の静岡市と浜松市とはまるで文化や市民性が違う。比較的のんびりした静岡市民と比べ、浜松市民は血気盛ん。誤解を恐れずに言うと、口が悪い。

 

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冬に“遠州のからっ風”と呼ばれる冷たく乾いた風が遠州灘から吹き込むからだろうか。毎年5月連休に開催される浜松まつりに命をかけている人が多いからだろうか。血の気は多いが、情に厚い。そんな人が多い街だった。

 

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僕がこの大学への進学を決めた理由。それは、静岡県民だと学費が安いから、教員の免許を取得できるから、なんとなくアートやデザインについて学べそうだから、の3つだ。

 

僕にとって最も重要だったのが、3つ目。別にアートやデザインに興味があったわけではない。ただ、高校時代に貼られた「勉強ができない」というレッテルは浪人生活を経てさらに熟成され、ただの“勉強嫌い”になっていた。英語や数学を本格的に勉強する気にはさらさらなれない。

 

しかし、アートやデザインは別だった。絵を描くことに苦手意識はなかったし、“これから”でも勝負できそうな気がした。そして何より、好きになれそうだったのだ。「もしかしたら、自分はグラフィックデザイナーになりたいのかも」。大学進学のタイミングで、僕のなかに小さな夢の火が灯った。

 

 

中田島砂丘に、星は流れなかった。

大学進学して、僕が住んだのは大学近くの1R家賃3万8000円のアパートだった。浜松を縦断する遠州鉄道、通称「赤電」の八幡駅からすぐ。JR浜松駅までも赤電に揺られて4分だ。赤電に見守られ、ラブホテルとスナックに囲まれた小さなアパートで、僕の大学生活はスタートした。

 

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しかし、僕は早々に挫折を経験する。理由は、本気でデザイナーを志す同級生たちとの出会いだ。のほほんと19年間生きてきた僕と、高校在学中から遊ぶ時間を削ってデッサンの勉強をしてきた彼らの間には圧倒的な知識・力量の差があったのだ。そもそも僕は文化系の学部で、彼らはデザインを学ぶ学部。当然といえば当然のことだった。

 

「中田島砂丘へ行かない?」

 

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モヤモヤしていた僕を友達が誘ってくれた。しし座流星群を観に行こうよ、と。鳥取砂丘、九十九里浜と並ぶ日本三大砂丘のひとつである中田島砂丘は、市街から自転車で1時間くらいかかったろうか。僕らは月明かりが照らす砂の上に降り立ち、いろんな話をした。勉強のこと、恋愛のこと、バイトのこと、くだらないこと……そして夢のこと。僕はグラフィックデザイナーになりたいけど、周りがすごくて自信を失ったことを白状した。

 

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「やればいいんじゃない? 周りは関係ないでしょ」

友達はそう言った。僕はそうかなと苦笑いし、天を仰いだ。流れ星は見えなかった。

 

 

心を解放できる場所がたくさんある。

中田島砂丘での一件は、僕にとっては大きなターニングポイントだった。言葉にすることでやる気に駆られたし、何より「やりたい」と口にすることが気持ちよかったからだ。僕のなかで押さえつけられていた何かが解き放たれた。

 

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滝沢展望台から望む浜松市街(写真提供:miteco

 

 

浜松のランドマークことアクトシティ、お金を貯めて購入したバイクで出かけた滝沢展望台、夕日に染まる浜名湖……いろんな場所で僕は夢を語った。平地が多い浜松には開放的な場所がたくさんあって、足を運ぶ度に僕は何かが決壊したかのように喋った。付き合ってくれた相手にしたら相当うっとうしかったと思うが、ありがたいことに嫌な顔をする人はいなかった。むしろ応援してくれたし、「じゃあ、こんなことやってみたら?」とアイデアをもらったこともあった。

 

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僕はデザイン学部の授業をこっそり受けたり、デッサン室に忍び込んで絵を描いたりもした。画塾へ通ったこともあった。僕なりに夢への道を切り開こうとしていた。

 

 

奪われた夢。

あっという間に大学3年になり、就職活動が始まった。そのころには、同じく赤電の助信駅近くの家賃4万2000円のアパートに引越していた。金髪を真っ黒に染めて、リクルートスーツに身を包み、エントリーシートを書く同級生たち。

 

僕には就職という選択肢はなかった。今のままではグラフィックデザイナーとして採用してくれる会社がないことは明らかだったからだ。もっともっと勉強して、自分を磨いていきたい。生まれて初めて芽生えた感情を胸に、大学院への進学を決意した。

 

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大学院での生活もとても楽しかった。夜中まで研究室でレポートを書いたり、教授を巻き込んで飲み会をやったり。『青空きっど』で人生初のつけ麺を食べたのも、浜松餃子ブームに乗っかり『福みつ』へ足を運んだのも、このころだった。そして、人並みに恋もして、彼女と『浜松東映劇場(現:シネマイーラ)』へミニシアター系の映画を観に行ったこともあった。

 

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幸せな大学院生活が、唯一僕から奪ったもの。それが“夢”だった。先輩や同級生たちのアートやデザインに関する圧倒的な知識、アウトプット……半ばモラトリアムを抱えて進学した僕とは、まるで違う存在だったのだ。彼らを前に「グラフィックデザイナーになりたい」なんて、とてもじゃないけど口にできない。このとき初めて、母親が発していた「あんたなんかにできっこない」の意味を理解できたような気がした。僕は、君たちとは違うんだ。

 

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「コピーライターはどうなの?」

 

何気なく声をかけてくれたのは、皮肉にも僕から夢を奪った大学院の同級生だった。コピーライターなんて糸井重里以外にいないと思っていた僕にとっては、彼の一言は青天の霹靂。どうって言われても、よく知らない。文章を書くことは嫌いじゃないけど、好きでもない。ただ、いわゆる「広告コピー」というものは好きで、大学の図書館に並ぶ『広告批評』はよく読んでいた。

 

そして、彼のこの言葉が背中を押した。

 

「コピーライターになって、俺がデザイナーになれば一緒に広告の仕事ができるね」

 

意を決して、僕はこれまでデザインの勉強に充てていた時間を全てコピーの勉強をする時間に充てようと思った。そして『宣伝会議』の存在を知った。ここで勉強すれば、コピーライターになれるかもしれない。消えかけた心の火がまた大きくなってくるのを感じながら、僕は申し込んだ。

 

浜松が、東京と僕をつないでくれた。

それからは半年間ほぼ毎週浜松⇔東京を往復した。金曜の夜まで居酒屋でバイトして、土曜の朝イチ浜松駅発の高速バスへ飛び乗る。昼、東京に着いて、夜まで授業。そして、友人の家に泊めてもらい、翌日浜松に帰るという週末を過ごした。

 

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行きのバスは4列シートだったが朝イチなのが幸いし広々と座れた。帰りも、浜松駅行きではなく名古屋行きのスーパーライナー(超特急)に乗れば、4列ではなく3列シートなので足も伸ばせて、東名高速の浜松北というバス停を利用できた。そのあたりの小さなラッキーと若さのおかげで毎週の高速バスもさほど苦に感じなかった。スーパーライナーの2階に乗って、袋井、磐田を越えたあたりでアクトタワーが小さく見えてくる景色が好きだった。

 

「コピーライター職で内定をもらえたよ」

 

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数カ月後、行きつけのホルモン屋『市楽』で、大学院の同級生たちに報告した。『宣伝会議』へ通った効果がどこまであったかは分からないけど、どうにか夢のしっぽを捕まえることはできたみたいだ、と。彼らはものすごく喜んでくれた。

 

僕は最後まで「お前たちのせいで夢を諦めたんだからな」とは言わなかった。彼らと競い合わなくても済むことに安心していたし、「同じ大会に違う種目で出場する」みたいな感覚がうれしかったからだ。その日のお酒は、本当に美味しかった。

 

浜松という場所。

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そうして、僕は6年にも及ぶ浜松での生活に幕を下ろした。

 

無事東京でコピーライターの肩書きを手に入れた僕は、その後Webライター/エディターへとキャリアチェンジし、今に至る。

 

もしコピーライターという選択肢が目の前になかったら、僕はどうなっていたのだろう。それはそれで、のほほんと生きているのかもしれない。

 

僕は社会人になってからも、浜松には何度も立ち寄っている。単純に友達が住んでいるからという理由もあるが、それだけではない。浜松のからっ風が、いつも僕の心の火を燃え盛らせてくれるからだ。街の風景は変われども、吹き抜ける風はあのころのまま。きっと、僕はこれからも足を運ぶだろう。夢を追いかけていたころの自分に会うために。

 

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著者:田中嘉人

田中嘉人

1983年生まれ。静岡県出身。2008年にエン・ジャパン入社。その後CAREER HACKをはじめとするWebメディアの編集・執筆に関わる。2017年5月に独立。

Twitter:@yositotanaka

 

編集:Huuuu inc.