もう二度と戻らないだろうと思っていた港街・福山に、私はいつか帰ってくる|文・箭内祥太

著: 箭内祥太

 今でもありありと思い描くことのできる光景がある。
 
 1990年代半ば。両親が共働きだったため、幼かった私たち兄弟と、年の近い従兄妹の面倒を見ていたのは祖父や祖母だった。中でも祖母は老体ながら健脚で、さまざまな場所へ孫たちを連れて行ってくれた。ゲームセンターやチェーンのスーパー、玩具屋さん、回転寿司、隣町の公園などいろいろ覚えているが、子どもを4人も連れ歩くのは、さぞ大変だっただろう。

 中でも、母校の校歌にもなっている「高増山」の麓(ふもと)に座って、夕陽を眺めながら聞いた昔話を忘れることができない。私たちの住んでいる小さな町で起きた過去の出来事や、祖父との馴れ初め(家族の馴れ初めはいくつになっても聞きたくないものだ)、戦時中の話、1945年8月6日に起きたこと。それらすべてを、大人になった今でも鮮明に覚えている。

広島の人より愛知の人のほうが仲良くなれそう

 2024年の暮れ。その日は予想以上に寒さが強く、最寄り駅に向かう足取りはいつもより何倍も重かった。地下鉄を東京駅で下車し、事前に予約していたチケットを改札に通す。どうせ長旅になるからと、軽食をいくつか購入し、新幹線に乗り込んだ。乗車時間は約3時間半。もちろん、ドア to ドアではないので、実家に到着するまでの時間を考えれば、総じて5時間ほどかかる。そうして、私は祖母の葬式のため、生まれてから18年を過ごした広島県福山市に帰省したのだった。


 市内の西にある斎場で葬儀に参加したのち、喪主である父の手伝いをしながら参列者を見送り、実家に戻ると、いつの間にか新しくなっていた原付に乗って、福山の街を見てまわることにした。喪服のままでのその突発的な行為は、久しぶりに戻ったこの街の記憶を反芻させたかったのと、なにより祖母との大切な思い出を忘れたくなかったからだった。気が付くと、高増山へ走り出していた。


毎年ではないが、温暖な福山市でもかなりの雪が降る。写真は実家の裏山


 同じ広島ではあるものの、広島市のことを福山市民がほとんど理解していないのと同様に、ほとんどの広島市民は、福山市がどんな街なのかを理解していないように思う(他県の友人から、広島市内の美味しいお好み焼きのお店を聞かれたときは適当に答えている)。

 理由は単純で、広島は東西に長い県であり、東から西まで100km以上ある。福山市は県の東部にあり岡山県に近く、広島市は西部にあって山口県に近い。電車でもバスでも移動に往復約4時間かかるので、頻繁に行くこともできない(新幹線だと約23分ほどだが、県内の移動にはあまり使わなかった、高いし)。よって、あまり理解されていない。

 もちろん方言もかなり異なっていて、「広島弁」と、私たちが使う「備後弁・福山弁」はイントネーションなども含め、大きな違いがある。具体的には、私たちの方言にはなぜか「三河弁」が混ざっている。先日、会社で唯一の広島県出身の上司と方言で話してみたところ、広島市生まれの彼女とは全然噛み合わなかった。

 福山市の方言のルーツついては諸説あるが、江戸時代に徳川家康のいとこであった三河国の水野勝成氏が10万石で入封することとなり、福山藩の初代藩主となった。水野氏は福山城と、現在の福山市の礎である城下町を築くなど、今の福山市をつくり上げた人物だ。*1

 入封後、家臣や三河国の人々を城下町に住まわせたため、もともとあった方言と三河弁がミックスされたという説や、三河との交流が盛んになったからという説など、本当に諸説あるので、ぜひ大学や国立国会図書館などの歴史資料を念入りに調べてほしい(父親から聞かされていたのは前者だったが、定かではない)。ちなみに愛知県岡崎市とは親善友好都市になってから50年以上が経っている。*2


福山駅の真横にある福山城。ライトアップされている

 だから、地元を離れて進学した大学で最初に感じたのは、「広島の人より愛知の人のほうが仲良くなれそう」だった。今でもそう思っている。

 また、福山市は、瀬戸内海と豊かな山々に囲まれ、繁華街などはあまりない。というかほとんどない。商業の中心地でもなく、観光都市でもなく、それでいて、住むにはちょうどいい街だ。自然が多く、娯楽なども限られているため、休日は釣りやドライブ、BBQ、キャンプなどのレクリエーションを行う人が多い。
 のんびり、静かな日常を享受できる、というのが福山についての個人的な感想であるが、言わずもがな異論もあるだろう(ヤンキーも結構いるし、場所によっては治安の悪いところもある。とはいえ、どの都道府県も同じだが)。

 港町である福山市に面している瀬戸内海は、よく知られているようにのどかな海で、このあたりの地域に住む人たちの性質は海に導かれたためか、ゆらゆら、ゆらゆら、あてもなく漂う波のようにどこまでも穏やかだ。そうしたこの街固有の雰囲気を、地元の人たちは愛しているし、著名人がよくお忍びでバカンスにやってくるのも私たちと同じ気持ちだからだと思う。


ドライブコース「グリーンライン」から見た夜明けの鞆の浦

 瀬戸内海を代表する景勝地の一つで、万葉集にも詠まれている「鞆の浦」は江戸時代にタイムスリップしたかのような街並みが現存しており、帰省するたびに訪れているが、朝昼夕、それぞれに違った景色を見ることができるので、何度訪れても飽きることがない。海の「美しさ」に感動を覚えたのも、鞆の浦が初めてだった。


 中学校2年生のときに不登校になった私は、すでにその頃からこの街や海が大好きだった。

尾道に初めて行くんだけどおすすめある?

 穏やかな街は、数多くのマイペースな子どもたちを育むプラットフォームとなる。小学生のとき、「やりたいことがある」と突如、出席のペースを牛歩のごとく落とした弟は、高校に入るまで義務教育をのっそりのっそりと進み(高校もよくサボってはいたが)、今はそのやりたいことを研究する仕事に就いている。親戚、友人たちも多分に漏れず、ゴーイングマイウェイな人たちが多かったので、上記の仮説はあながち間違いではないと思っている。

 かくいう私は、中学2年生になって、突然学校に行くのをやめた。学校が嫌だったのではなく、この時間をもっと別のことに使ってみたいと思ったからだった。ちょっと厨二病もあったかもしれない。

 祖父母や両親も、「気が向いたら学校へ行けばいいよ」というスタンスであり、同時期にダックスフントが我が家の仲間入りをしたので、自宅にいる時間も楽しかった。祖父母とダックスと、よく庭で日向ぼっこをしていた。

 日中は、自転車や電車を駆使して活発に動き回っていた。福山を流れる一級河川・芦田川の土手を散歩したり、福山駅周辺にあった映画館「福山ピカデリー劇場」「大黒座」(現在はいずれも名称が変わっている)で浴びるように映画を観たりした。鞆の浦にも何度も行ったし、父親が船舶免許を持っていたので、どこの海かは覚えていないが海釣りにも行った。このときが一番楽しかったかもしれない。

 読書に没入したのもこの頃からで、日本の小説、海外の小説、その原著、さらに父親が研究職だったので、自宅にあったルソーやニーチェ、サルトルなどの哲学書や、アラン・コルバンなどの歴史書、ゴッフマン、マクルーハン、デュルケム、イリイチ、ベネディクト、ギデンズ、ブルデュー、フーコーなどを(ラインナップは偏ってはいるが)片っ端から読んでいった。

 『こち亀』(集英社)をはじめとして、膨大な量の漫画やライトノベルにもハマり、「深夜アニメ」を覚えたのもこの頃だった。『涼宮ハルヒの憂鬱』『らいむいろ戦奇譚』『HAPPY☆LESSON ADVANCE』などをよく観ていた。間違いなく、これらすべてが今の私を形成しているし、今もそれぞれの文化にはずっと触れている(特に学術書とラノベが書棚を占拠している)。

 福山市内のみならず、隣の尾道市まで足をのばし、フェリーで因島まで行って「ここがポルノグラフィティと東ちづるの生まれた島なんじゃなあ」と感慨に浸ったり、当時熱中していた漫画『ヒカルの碁』(集英社)の作中にも出てくる、本因坊秀策の生家にも行ったことがある(囲碁のタイトルである「本因坊」はこの本因坊家が由来)。

 最寄駅から電車で15分もかからずに行くことのできる尾道市は、福山市をはるかに凌ぐ知名度を持ち、観光客も多い。友人から、尾道に初めて行くんだけどおすすめある? と聞かれたときは、基本的に①尾道ラーメンの店と、居酒屋はどこに行っても美味しいということ、②「からさわ」のアイスクリームと「オオニシのブロイラー(若鶏の手羽先。ビールに合う)」を絶対に買って食べること、③「シネマ尾道」で映画を見ること、④ロープウェイで千光寺に行けば絶対に感動すること、の4点セットを伝えている。これらのほとんどは学校を休んでいた時期に身をもって学び、知ったものだ。

いずれ福山に再び住むことになるだろう

 中学校3年生になると、そろそろ受験もあるしということで、学校に復帰した。ちょくちょく会っていた人たちを除けば、みな容姿がすっかり大人びており、若干のカルチャーショックは受けたものの、内面に大きな変化はなかったようで、幸いなことに交友関係は不登校前よりも広がり、友人も気付けば増えていた。
 
 勉強を教えようか? と揶揄ってきたクラスメイトには、期末テストの平均点98.2点を獲得した答案用紙を見せて、逆に勉強を教えることになった。家族もこの点数には喜んでいたし、空気を読んで尻尾を振っていたダックスフントは、一年でかなり大きくなっていた。学校ではないところに居場所をつくっていた1年間で、失ったものも数多くあるだろうけれども(内申とか)、そのことを残念だとは思わない。そのぶん、自分と、そしてこの街と向き合うことができたからだ。

 内申点が低すぎるあまり、受けられる高校は限られてしまったが、無事に国公立に受かり、入学してみると女子が7割で少し焦ったが、自由な校風だったこともあって、ここでものびのび過ごすことができた。

 部活終わりに学校の近所にあったローカルスーパー「オンリーワン」(今はもうない)で部活のみんなと手羽先を食べながら団欒することもあったし、高3のときにフットサルチームをつくって、毎週、福山市体育館(老朽化のため2024年に解体)を借りて試合をすることもあった。

 近隣の尾道市や岡山県笠岡市のチームとも試合をするようになったはいいが、すぐに大学受験が迫ってきたので、みなそれぞれの道に進んでいった。けれど、数年に一度は飲みの席で会うようにしていて、それぞれの「生活の進捗」を確認し合っている。

 帰省するたびに友人と行っていた馴染みの居酒屋「鳥翔」(名古屋コーチンが食べられる、地元のコアなファンには有名な店)は少し前に閉業してしまったが、この街には美味しい魚介のお店とラーメン屋と居酒屋はまだまだたくさんある。特に、グルメな両親のスマホのリストにはたくさんの美味しい店が載っているので、実家を少しずつリフォームする代わりに、連れていってもらう約束を結んだ。


原付で福山をさまよっていたら広大な自然が現れた

 これから、長男である私は帰省する回数がどんどん増えていくだろう。地方での「長男」の立ち位置は、結構な責任を背負う。誰かの葬式に出たり、誰かの法事に出たり、いずれ必ず来る両親の葬儀も喪主として務めなければならない。町内会の会合に顔を出すこともある。

 約500年前から同じ土地に住んでいる私たち家族にとって、家や土地、田畑、山というのはとても重要かつ守るべきもので、いつかは東京での仕事を辞めて、福山市の実家に戻ることになるだろう。

 20代の頃は到底受け入れられない選択肢であり、戻ることを拒絶していたが(自分の入る墓がどこにあるのか分かっているのは、あまりいい気分ではない)、30代になって親族が次々と逝去し、祖父母も亡くなってしまった今は考え方も少し変わってきて、福山市に帰ることを前向きに考えている。さよならだけが人生ではない。また来る春も、また出会う人たちもいる。

 いずれ子どもが成長し、孫が生まれたときには、祖母と同じようにさまざまなところへ連れていって視野を広げてあげたいと思う。昔行った施設や飲食店はほとんどが閉業して無くなってしまったが、高増山はさすがに存在し続けると思うので、茜色の夕陽の見える麓に座って、私と妻の馴れ初めでも聞かせてあげることにしよう。

著者:箭内祥太

箭内祥太

広島県福山市出身。マーケティング職。ときどき事業開発。海外や日本を旅するのが好きで、近々ドイツに行く予定。

編集:岡本尚之