創作しながら暮らす場所として、あえて「東京」以外の場所を選んだクリエイターたち。その土地は彼・彼女らにとってどんな場所で、どのように作品とかかわってきたのでしょうか? クリエイター自身が「場所」と「創作」の関係について語る企画「ここから生み出す私たち」をお届けします。
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今回の「ここから生み出す私たち」に登場いただくのは、福岡のゲーム制作会社・サイバーコネクトツー代表の松山洋さん。松山さんは大学を卒業後、コンクリート業界を経て地元・福岡で会社を設立。以来、25年以上にわたって、福岡からさまざまなコンテンツを生み出し続けてきました。
子どものころは引越しが多く、一時期は長崎県の対馬で暮らしたこともあるという松山さん。『週刊少年ジャンプ』の争奪戦が起こるほど娯楽が少ない環境のなかで、漫画やアニメ、ゲームへの渇望感が生まれていったそう。そんなエンタメに対する原体験からこれまでの歩み、福岡を拠点にすることへのこだわりまで、たっぷりと語っていただきました。
※取材は新型コロナウイルス感染症対策を講じた上で実施しました
エンタメに渇望していた、長崎・対馬での日々
―― 小・中学生のころは九州で転校を繰り返していたそうですね。
松山洋さん(以下、松山):小学1年生から5年生まで長崎県の島原に、小学6年生から中学2年生まで同じ長崎の対馬に住んでいました。
―― 幼少期を過ごした街のなかで、特に思い出深い場所を挙げるとしたら?
松山:3年間暮らした対馬ですね。島原も田舎でしたけど、それ以上に何もないところでした。土地が狭いから畑も少なく、島で捕れるのは魚だけ。米やパン、野菜やお肉は島に2軒しかないスーパーで売られているんですけど、船で運ばれてくるから、賃料が加算されて微妙に高いんです。そのころ、ヤマザキの食パンが1斤150円くらいでしたが、スーパーでは袋に175円の値札シールが貼られていました。子どもながら、希望小売価格の存在や資本主義について学びましたよ(笑)。あと、台風が来ると2軒のスーパーから物が消えるんです。醤油すらなくなる。
あれから何十年もたって、まさかそんな場所がPlayStation4のゲーム『Ghost of Tsushima(ゴースト・オブ・ツシマ)』の舞台として、世界的に注目されるとは思いませんでした……。

―― 何もない。ただ、そのぶん自然環境は素晴らしいですよね。
松山:娯楽といえば釣りでした。子どもはみんなマイ釣竿を持っていて、放課後や日曜に自転車で海へ行く。でも私は釣りエサの虫が大の苦手で、そんなに乗り気じゃなかった。釣り針にミミズを引っ掛けるのがイヤでイヤで。そもそも、私は外で遊ぶよりも家でずっと漫画を読んでいたかったから、けっこう無理して周囲の野生児たちに合わせていましたね。

―― 好きな漫画も手に入りづらい環境でしたか?
松山:そう、『週刊少年ジャンプ』(以下、ジャンプ)ですら本屋に並ぶのが遅いんですよ。ジャンプって今は全国一律で毎週月曜に発売されますけど、当時は福岡で1日遅れ、対馬はさらに遅くて、下手すると1週間も待たなきゃいけない。台風の時は、2週分のジャンプが本屋に並んでいました(笑)。
入荷数も少ないんで、発売日には島内の子どもがみんな、われ先にと本屋へ走るんです。クラスの中で「今週はアイツが買ったらしいぞ」っていう情報が出回って、買えなかったヤツは、そいつに見せてもらうんです。そんな環境だったから、ジャンプの発売日はクラスメイトが狼に見えましたね。
―― 食うか食われるか。
松山:まさに。だから福岡に引越したときは、逆に周りのヤツらが子犬に見えました(笑)。だって、ジャンプの発売日なのに誰も本屋に走らない。オマエら、そんなボーッとしてたらやられるぜ? ここに狼は一匹もおらんのか!と。
―― 漫画だけでなく、ゲームへの渇望感もあったんですよね。
松山:対馬にはおもちゃ屋も当時1軒しかなく、ゲームの入荷数も少なかった。ファミコンは1983年の発売から1年半後に、やっと買えました。もう、うれしくて躍り狂いましたよね。初めて買ってもらった“スーパー”じゃないほうの『マリオブラザーズ』を兄弟でやり込んで。
あとは、ゲームソフトをたくさん持っている裕福な同級生の家に集まって、『ゼビウス』やらなんやら、ひたすら遊び倒したのを覚えています。そこで初めて、「誰かと一緒に遊ぶのって楽しいんだな」と思った気がするなぁ。釣りの時には全く感じなかったんですけどね。
たぶん、対馬での“常に足りない”日常の感覚が、今も私の根っこにあるんでしょうね。いつもノドがカラカラだったあのころの原体験があるからこそ、エンタメに対する渇望感が生まれたんだと思います。
―― そんなノドがカラカラに乾いた少年が、中学3年生になってカルチャーであふれる福岡に引越したんだから、それはもう最高に楽しかったんじゃないですか?
松山:もう大海原に放たれたようで。本屋もただ数が多いだけじゃなく、店ごとに個性やテーマがある。A店は何系に強いとか、B店で売り切れてるものが、C店にしれっと置いてあるとか。だから、特色を分類したマップを自分でつくっていました。
そして、電話帳みたいに分厚い『AKIRA』の単行本や、雑誌『アニメージュ』で連載されている発行部数の少ない漫画が普通に買える。掘れば掘るほど面白いものが出てくる。対馬では実現しなかった出会いの連続に、エンタメへのアンテナをますます高く張るようになりました。

―― 本を買うのはそれなりにお金がかかると思うのですが、購入資金はどう工面していたんですか?
松山:週刊の雑誌類は、友達とアライアンスを組んで回し読みしていましたね。「お前はジャンプ」「お前はマガジン」「お前はサンデー」みたく購入担当を決めて、お互いに買った雑誌をシェアし合うんです。
正々堂々とオタク活動を続けたいから、勉強も部活もちゃんとやる
―― アニメにハマったのはいつごろですか?
松山:本格的に見るようになったのは福岡へ引越してからですね。雑誌『月刊ニュータイプ』が創刊されて、『機動戦士Zガンダム』の放送が始まったくらいのタイミングだったかな。ただ、当時は夕方の放映時間帯が多くて、全部チェックするのに苦労しました。なにせ、バスケ部に入っていたので……。
学校の授業が終わったらいったん部活の練習に合流するんですけど、アニメを見るために途中で抜けて家に走り、見終わったらダッシュで部活に戻るというのを週2〜3回やってました。
―― それ、バレなかったんですか?
松山:バレてたでしょうね。体育館に戻ったら、キャプテンはなんか「マツヤマ〜!!」って大きな声で怒鳴ってて(笑)。私はダッシュしながら「いま〜す!」って叫んで。
でも、うちにはビデオデッキがなかったから、リアルタイムで見る以外に選択肢がないんですよ。だから、他にもいろいろ努力しましたよ。学校の「帰りの会」みたいなのも、先生に仕切りを任せてるといつまでも終わらないから、私が学級委員に立候補してクラスメイト全員をまとめることで終わらせて。学級委員は、そのまま高校まで9年間くらいやってましたね。全てアニメを見るためです。

―― すごい情熱だ。ちなみに、部活をやらないという選択肢はなかったんですか?
松山:好きな漫画やアニメをずっと楽しむためにも、今できることは全部やろうと思ったんです。当時はオタクに対する周囲の目も厳しかったし、同級生も中学・高校と進むにつれて漫画の話をしなくなる。でも、私は好きなものを諦めたくなかった。勉強も部活も頑張ったら、後ろ指を指されることなく正々堂々とオタク活動ができると考えました。
クリエイターになるために、あえて「回り道」を選んだ
―― 大学時代も、当時の一般的なキャンパスライフとオタク活動を両立していたそうですね。著書では「リア充とオタクのハイブリッド」と表現されていました。
松山:九州産業大学(以下、九産大)の漫画研究同好会(以下、漫研)で、漫画を描いて仮面ライダーショーごっこをしながら、バイクに乗り、合コンもしていました。漫研のオタク仲間とも、リーゼントヘアーのヤンキーっぽい連中とも仲良くしていましたよ。無理をしていたわけじゃなく、どっちも楽しかったんです。

―― ちなみに、九産大を選んだ理由はありますか?
松山:やっぱり漫研の存在が大きかったですね。九産大は福岡県内の大学で唯一芸術学部があって、漫画家やアニメーター、映画人、役者、ゲームクリエイターを数多く輩出しています。そんな漫研だから、いろんなことを学べるだろうと。なにせ、あの北条司先生が先輩にいたんですからね。
―― 当時は漫画家志望だったんですか?
松山:ジャンプの連載漫画家になろうと思ってました。でも漫研にいるうちに、視野が広がりましたね。漫研といっても結局のところ『げんしけん』*1で、アニメ、ゲーム、映画など、さまざまなジャンルが好きなヤツらが集まってたんですよ。私は「漫画が一番だ」って思ってましたけど、みんなそういう線引きはなく、面白いもの、楽しいものは全部好きという感じだった。
だから彼らと触れ合う中で、アニメも映画もつくってみたい、バラエティー番組制作も楽しそう、と興味の幅が広がっていきましたね。
―― 漫研の先輩も、やはりクリエイターの道に進む人が多かったと。
松山:大学を中退し、漫画家やアニメーターを目指して上京する人も多かったです。当時は、大学に4年間通うのは「売れ残ったヤツ」とみなされる空気感があって、いかに早くデビューを決めて大学を抜けるかが勝負みたいな風潮がありましたね。私自身も、そこを目指していたんですけど、大学3年生になるころから考えを改めるようになりました。
―― どうしてですか?
松山:上京した先輩たちが、続々と福岡へ戻ってきたからです。ワケを聞くと、業界のグチが出てくる出てくる。「あの業界はとんでもない。非常識だ」と。最初はそういうもんなのかなと思ったんですけど、考えてみたらその人たちも私自身も、社会のことなんて何も知らんなぁと。
で、このままクリエイターの道に進んだら自分も先輩と同じ轍を踏みかねないから、まずは“堅い会社”に入って、しっかり社会人経験を積もうと思いました。それで、大阪のコンクリート会社へ就職しました。官公庁などから工事を請け負う建設会社やゼネコンに、コンクリートを売る仕事ですね。
―― エンタメからはかけ離れた業界ですね。
松山:「社会の壁」を知りたかったんです。従業員1000人以上の会社で歯車として仕事をすると、それが見えてくると思いました。個人の頑張りでどうにかなるのはどこまでなのか、どこからはムダな努力に終わるのか、その境界を体感したかった。
そういう意味では、コンクリート業界はうってつけでした。国や自治体という、これ以上なくガチガチでお堅い相手って、他にいないじゃないですか。実際、3年半くらい働いて、いろんなことに驚かされましたよ。『サラリーマン金太郎』にも載っていないような、大人の不条理な世界や仕組みもたくさん知りました(笑)。

―― 当時住んでいた街についてもお伺いさせてください。大阪のどの辺りにお住まいだったんですか?
松山:梅田にほど近い、豊崎という街です。にぎやかな梅田とは対照的に静かで、住みやすいエリアでしたね。
―― 休日は大阪の街を遊び歩くことも?
松山:そうですね。「心斎橋筋2丁目劇場」*2には通って、お笑い芸人のライブをよく観ていました。大阪という土地から学んだのは「オモロいヤツがモテる」という価値観。芸人さんのネタだけじゃなく、街を歩いている人のおしゃべりや振る舞いからも、エンタメには欠かせない「サービス精神」を感じましたね。
東京にあって福岡にないものは見当たらなかった
―― その後福岡に戻り、1996年に「サイバーコネクト」を設立されます。清濁併せ呑むような経験をして、いよいよエンタメ産業に乗り込む機が熟したという感じだったのでしょうか?
松山:はい。ちょうど大阪で働いていたころ、漫研時代の同級生から連絡があって「一緒にゲーム会社をつくって独立しないか」と誘われました。1994年の初代PlayStationが出たタイミングでしたね。
ただ、その時は正直ピンと来なかった。つくるなら、自分が親しんできた漫画かアニメ、テレビ番組かなと思っていました。ゲームは人並み程度にやってきたけど、コンピューターの知識も全くなかったですしね。

―― では、なぜゲーム業界に飛び込もうと?
松山:業界の成長性を感じたからです。図書館でコンピューターゲームの歴史を調べ、『ファミ通』を毎週購読してみると、ファミコン生誕から10年くらいしかたっていないのに、技術の発展が著しく、業界に地殻変動が起こっていることが分かりました。
それに、キャラクターがいて背景があって、そこにカメラが入って……って、もうこれは映画やアニメだなと。自分がやりたいと思っていたことがゲームなら全部できるじゃないかと。
―― 東京や大阪ではなく、福岡での立ち上げを選んだ理由はありますか?
松山:正直なところ、東京にゲーム会社が集中する理由がよく分からなかったんです。みんな、なんとなく東京にいて、なんとなく歯を食いしばって生きてる。インターネットが普及していくタイミングでしたし、今後ゲームをつくる上で物理的な距離は関係なくなるなと思いました。だったら、私と同級生の地元であり、環境もいい福岡が最適なんじゃないかと。
それに、東京にあって福岡にないものが見当たらなかったんですよね。市街地から電車で15分の場所に福岡空港があるから、東京で打ち合わせがある時にも便利。何より統計的に福岡出身のクリエイターってかなり多いんです。ということは、採用面でも有利だろうと。考えれば考えるほど、こんなにいい立地はないぞと思えてきて、戦略的に福岡に決めました。
―― 当時、福岡にゲーム会社はあったんですか?
松山:リバーヒルソフトとシステムソフトという老舗の2社だけでした。
―― ゲーム会社のほとんどが東京にあった時代ですし、仕事を得るのに苦労したのではないですか?
松山:うちが企画した『テイルコンチェルト』というプロジェクトを始める上で、東京の会社さん3社と打ち合わせた時、そのうち1社の方に「福岡でいい仕事なんかできっこないから、東京に来なさい」と言われて。「そんなメチャクチャなことを……」と思った覚えがありますね。

―― そうして辛酸をなめつつも松山さんたちが地盤を築いたおかげで、その後福岡にはゲーム会社が続々と誕生します。
松山:私らが会社をつくった2年後に、リバーヒルソフトのプログラマーだった日野晃博さんが独立してレベルファイブを立ち上げました。2001年にはガンバリオンが長崎の佐世保から福岡に移ってきました。日野さんやガンバリオンの代表・山倉千賀子さんとは年齢も近かったので、当時から密に交流していました。
―― 松山さんはお二人と切磋琢磨しつつ、共に福岡のゲーム産業を盛り上げています。
松山:独立したばかりの日野さんを訪ねた時、「心の同盟」を結んだんです。「ライバルだけど、困った時はお互い様だから、こまめに情報をシェアして一緒に成功しましょう」って。それから山倉さんもここに加わり、失敗談を積極的に共有してきました。
私も他のお二人も、好きなことさえやれれば貧乏でもいい、会社が有名にならなくてもいいなんてタマじゃないんです。リンゴが3つあったら全部食べたいのが私たち。だから、自分たちだけじゃなく福岡の業界全体も盛り上げたいという思いでやってきました。結果的に福岡県内のゲーム関連企業の数は2021年までに30社を超え、とても感慨深いですね。

福岡出身者がニヤリとできるゲームをつくりたい
―― 最近では、福岡を拠点に活動するクリエイターも増えています。
松山:はい。漫画家でいえば『東京喰種 トーキョーグール』の石田スイ先生、『キングダム』の原泰久先生は福岡在住ですし、プロジェクトスタジオQ、サンジゲン、トリガーといったアニメ制作会社も福岡に拠点を置いています。
「上京」って言葉があるように、東京へ出ないとクリエイターになれないという風潮が、これまではあった。でも、今はものづくりに場所は選ばない。地方にいても良質なコンテンツをつくれることはわれわれが証明してきました。だからこそ、福岡にいるクリエイター志望の若者には、やりたいことをやれる環境が地元にあるんだよって、強くお伝えしたいですね。
―― 松山さんの福岡に対する愛情や誇りが存分に感じられました。今後、そんな福岡を舞台に作品をつくってみたいと思うことはありますか?
松山:以前、『ドットハック セカイの向こうに』という、福岡の柳川を舞台にした映画をつくったのですが、同じようなテイストで今度はゲームをつくってみたいですね。
もちろん、単なる背景として街を登場させるわけではありません。福岡の文化や土地柄、福岡人の性格を踏まえたファンタジー世界のような。パっと見ただけでは分からないけれど、福岡出身者はニヤリとできるような。それは、福岡を拠点とする私らにしかつくれないコンテンツなのかなと思います。
お話を伺った人:松山洋
1970年生まれ、福岡県出身。株式会社サイバーコネクトツー代表取締役。『.hack』シリーズをはじめ、『NARUTO-ナルト- ナルティメット』シリーズ、『ジョジョの奇妙な冒険 アイズオブヘブン』、『ドラゴンボールZ KAKAROT』などの人気タイトルを手がける。著書に『エンターテインメントという薬』(KADOKAWA Game Linkage)、『熱狂する現場の作り方』(星海社)、漫画原作『チェイサーゲーム』(KADOKAWA Game Linkage)など。
note:松山 洋 サイバーコネクトツー|note Twitter:@PIROSHI_CC2
聞き手:榎並紀行(やじろべえ)(えなみ のりゆき)
編集者・ライター。水道橋の編集プロダクション「やじろべえ」代表。「SUUMO」をはじめとする住まい・暮らし系のメディア、グルメ、旅行、ビジネス、マネー系の取材記事・インタビュー記事などを手掛けます。
Twitter:@noriyukienami
WEBサイト:50歳までにしたい100のコト
※記事公開時、『月刊ニュータイプ』の誌名に誤りがございました。6月18日(金)8:00ごろ修正しました。お詫びして訂正いたします。ご指摘ありがとうございました。
編集:はてな編集部