著者: 大矢幸世
毎日パソコンにへばりついて文字を叩きこんでいると、果たしてこれは私の望む姿だったのだろうかと思いふける。午前2時。明朝の会議を考えると、ここらへんでキリをつけねばならない。ゾーンに入っていたのもほんのつかの間、シャットダウンを余儀なくされる。
スマートフォンを開くと、Facebookにいくつかの通知が来ていた。タイムラインを少しさかのぼると、馴染みの飲み屋の投稿がある。「まだお客様は全然戻らず暇な日が続いていますが、コロナウイルスの収束が進むと共に皆様が戻って来てくれることを信じ、今日も頑張って営業します」──。
私が一人飲みを覚えたのは、学生時代から数年を過ごした京都だった。友人に連れ出されるまま、立ち飲みやバーを転々としたが、室町仏光寺の串カツ屋に落ち着いた。立ち仕事でむくんだ脚をカウンター下に放り出して、サッカーと野球の話でひとしきり盛り上がってから、とぼとぼと家路に着くような暮らしをしていた。
けれども遠距離恋愛を続けていた彼との結婚を決め、仕事を辞めることにした。そのまま彼のもとへ行けば、「転勤族の妻」としてのキャリアを全うせねばならない。資格なんて何もない私が、地方の行く先々で会社員になるあてはない。私は「手に職をつけたい」とか何とか理由をつけて、彼の住む鹿児島ではなく、地元の福岡に帰ることにした。
未経験歓迎。当然、壁にぶち当たる
「治安が悪いんじゃない?」
心配する母をよそに、春吉と渡辺通の境界にワンルームを借りた。西鉄の天神駅は目と鼻の先だし、近くのバス停からは100円で博多駅行きの路線が出ている。閑静な住宅街を選ぶより、適度に喧騒のある繁華街のほうが安全な気がした。しかも京都の烏丸御池で借りていた部屋よりは家賃も安く済んだ。
ハローワークに通いながら職業訓練を目論んだもののあえなく定員オーバーで弾かれ、あてもなく求人票をあさる日々。販売職と営業職がリストに並ぶなか、ふと目に留まったのは「企画編集職」「未経験者歓迎」「フリーペーパー創刊」の文字だった。
半年の無職期間を経て転がりこんだのは、創刊にあたって新たに福岡へ事務所をかまえた制作会社だ。社員は(出向で数カ月後にはもとの会社へ戻る)営業担当と、私ひとり。上司たる編集長は本社の大阪にいる。他はすべて外部のスタッフを起用する「即席編集部」だ。
中洲川端駅近くの商業施設、博多リバレインの界隈に事務所はあった。博多座の通用口にはいつも出待ちがいて、北島三郎一座の公演月は毎日行列ができていた。にこやかに握手するサブちゃんはさすがにスターだった
入社翌日からは編集長と営業担当と連れだって、さっそくメディアプランでパートナーを組む広告代理店や新聞社への挨拶回りだ。「カンプ」「サムネイル」「ラフを切る」「香盤表」──。飛び交う言葉が何を指すのかさっぱりわからない。無理もない。半年前までは百貨店で服を売っていたのだ。
とはいえ新卒時に撃沈したメディア業界の、ほんの淵の淵に爪先を引っかけることができたのだから、私はもう夢見心地だった。3日でもう1カ月くらい働いたような感覚がした。
ランチはたいていコンビニで済ませたが、たまに川端通商店街を通って「中洲ちんや」へ行き、焼き肉定食を食べるのがささやかな楽しみだった。70年余も続く老舗だったが、2019年7月に閉店してしまった。悲しい
けれどもメッキは早々に剥がれてしまう。「知ったかぶり」「知識はあるけど知恵はない」「プライドが高い」──。営業担当からまっとうな指摘を繰り返される。代理店からも編集長経由で「失格」の烙印を押され、数カ月で担当を外されてしまった。
企画編集とはよくいったもので、実のところはほとんど営業と雑用だ。クライアントを新規開拓し、企画を提案し、広告を獲得する。誌面制作がスタートすれば、ロケハン、リサーチ、スカウト、スタッフの手配、クライアント対応、各所への手続き・申請……。
何をどういう手順で誰に頼めばいいのか、誰に聞けばいいのかもわからないまま、わからないなりに諸先輩方に聞きまくった。デザイナー、フォトグラファー、スタイリストやヘアメイク……みんなそれぞれ手に職を持ったプロフェッショナルだ。
警固公園ではよくスカウトを兼ねたストリートスナップをやっていた。ここで出会った子たちはそれぞれの夢に向かって、なかには驚くほど有名になった人もいる
ほどなくして後輩が入社し、営業担当が出向元に戻ると、編集部はいよいよ素人集団になった。日中は新規開拓すべく営業先をまわり、一段落してから事務所で編集をする。終わらない作業はしばしば深夜0時を回ることもあった。でも言葉と向き合うこの時間が、私にとっては思い描いた未来にいちばん近づけている気がした。
“ギャルの聖地”天神コアでもスナップイベントを開いたが、天神界隈の再開発に伴い2020年3月に閉館してしまった。福岡市は空港が近い。ビルのすぐ上を飛行機がすり抜けていく。
「地域密着型」が売りの媒体だったから、撮影はいつも街なかだった。大名、今泉、大濠公園、福岡県立美術館、福岡タワー。市内はおろか飯塚や小倉まで足を延ばした。旧伊藤伝右衛門邸、小倉駅、旦過市場、魚町銀天街……。
帰ってから自炊する気力もなくて、週の半分は「酒峰」で刺身をつまみに日本酒を飲むか、「Yajinke」でワインか、あるいは「鳳凛」のラーメンなんかで腹を満たした。春吉は昔と違って、それなりに居心地のいい街だった。明け方に一瞬静寂が宿るくらいで、適度な喧騒が寂しさを忘れさせた。仲良くなった常連さんに聞いて、芋づる式に馴染みの店が増えていった。
引き延ばしてきた猶予期間
1号、2号と発行を重ねるごとに、私は少しずつ自分を取り戻していった。幸い、ほかの地方でも媒体が注目されるようになり、新聞社やテレビ局、商業施設など大型の広告案件も増え、それなりに働きがいを感じられるようになってきた。何より編集長やクリエイティブディレクターが、私をライターとして起用してくれることも増えてきた。クリエイター仲間と深夜までこれからの誌面のあり方をめぐって、泣くほど議論することもあった。
天神のファッションビルIMS(イムズ)とタイアップして、全館をジャックしたときには泣きそうなくらい嬉しかった。IMSもまた再開発に伴い、2021年8月末で閉館が予定されている
けれども会社として、私が本来担わなければならない役割は、新規クライアントを獲得し、記事広告として成立させることだ。思うように伸びない売上に、社長からは支店縮小や閉鎖(=解雇)をチラつかせられた。
入社から1年半経ち、怒涛の日々のなかでいつのまにか彼氏からのクラスチェンジを果たした夫も「そろそろ別居婚はもういいんじゃない?」と言いはじめた。福岡に帰ってからもう足かけ3年も待たせている。
頭のもやもやがふくれあがった矢先、予想だにしなかったことが起こった。東日本大震災だ。
博多駅では翌日に九州新幹線開業を控え、記念行事が予定されていたが、全面的に中止になった。福岡では西鉄バスが一大勢力を誇っていて、バスターミナルから続々と路線バスが出発していく
ただ怯え、呆然とモニターを見つめるしかなかった。刻一刻と更新される情報は、時を追うごとに絶望を帯びてくる。Twitterにはセンセーショナルな見出しが躍る。
私はいま、ここにいていいんだろうか。いちばん大切にしなければならない人の時間を、ただ無為に費やしているだけなのではないだろうか。
あれから私は「転勤族の妻」として、鹿児島と福井で過ごした。行った先々でライターとしての仕事を見つけ、どうにかフリーランスとして生き延びることができた。いまは夫の転職に伴い、“転妻”の名は返上して、東京で暮らしている。
当面、転居をする予定はないものの、どこにいても何があっても、なんとか食っていけるだろうと思えるのは、あの福岡での日々があったからだ。営業としてはポンコツだったけど、人と向き合って、言葉と向き合って、私なりの生存戦略を見つけた。
何より人との出会いが、私の推進力となった。行く先々で楽しく過ごせたのは、そこで暮らす人との縁があったからだ。いますぐには会えなくても……またいつか、どこかで酒を酌み交わせたらと思う。
気ままなひとり時間を過ごした福岡のお店たち
■「酒峰」
冒頭に書いたFacebookの投稿は「酒峰」大将の田原さんによるもの。一クセも二クセもあるけど、いまだに私がはじめて頼んだ銘柄を覚えているから、本当に油断ならない。ちなみに「天吹 生酛純米大吟醸 雄町」。帰り道に週1ペースで立ち寄っていた。また、伺います。
■manucoffee 春吉店
「manucoffee 春吉店」にはフリーペーパーをよく置いてもらった。納品した後、カフェラテを飲むのが好きだった。ここでコーヒーにハマり、のちにカフェ本でフリーライターデビューを果たすこととなる。
■梅山鉄平食堂
「身体に良いものが食いたい」と思うときはだいたい「梅山鉄平食堂」に行った。サバの味噌煮、ゴマサバ、チキン南蛮……どれを食べてもうまい。でもってふりかけが最高にうまい。すっかり人気店になってしまった。
■牧のうどん
くったくたになるまで煮込んだネギと牛肉、すぐに溶けるごぼ天。ウソみたいにどんどんつゆがなくなっていく。飲んだ後の「弥太郎うどん」も「ウエスト」の安定感も捨てがたいけど、父が糸島出身なので「牧のうどん」はソウルフードなのだ。しかたない。今は博多駅で食べられるのがうれしい。
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編集:Huuuu inc.