著者: 田中俊行
プルルルル……
「◯◯不動産でございます。田中さん、契約更新の日が近づいておりますが、いかがなさいますか?」
電話の向こうから聞こえてくる声に、「ああ、もうそんな時期か…」と、僕は一瞬感慨にふけった。東京に引っ越してから、もう四年が経っていた。
「更新のご意志はございますでしょうか?」
「もちろん、更新しますけど…」
だが、話はそこで終わらなかった。
「実は少々問題がございまして…。以前から大家さんにご指摘を受けているのですが、田中さんは共用部分である廊下にたくさんの荷物を置いていらっしゃいますよね? 一度は片付けていただいたものの、年末になってまた増えているようで…。隣人の方から、『ドアが開けづらい』という苦情もいただいております。大家さんからは、今月中に荷物をどかしていただかないと契約更新は難しいと言われておりますが、どうなされますか?」
「なるほど、すぐ片付けますよ。」
即座に答えた。(本当は片付けるのがとても大変)
「それでは、そのように大家さんにお伝えします。」
「はい、お願いします。」
ガチャ。電話が切れる音が静かに響いた。
『やばい、廊下の大量の呪物を片付けなければ!!!!』(大家さんすみません)
気づけば、僕は東京に住んで四年が経っていた。
故郷である兵庫県神戸市を離れるつもりはなかった。しかし、仕事の都合で東京での滞在が増え、「住むつもりはなかったが、いっそ借りたほうがいいのでは」と思うようになった。東京在住の怪談師チビルマ君に相談したところ、「お探ししますよ」と言ってくれ、すぐにこの深川の家に住むことになったのだ。
内見した際、築年数の古さには少し驚いたが、家賃3万円という破格の価格と、東京メトロ半蔵門線、都営地下鉄新宿線、都営地下鉄大江戸線といった複数の路線が使える交通の便の良さに満足した。そして何より、この土地には江戸の文化が色濃く残っており、関西から来た僕にとって興味をそそられる街だった。
深川といえば江戸っ子の下町を越えたところには侍の町が広がり、隅田川を挟む東側は商人たちの街でもあった。そして新大橋から隅田川を渡るとカツ丼の値段が100円上がるといわれているほど文化的な境界を象徴している。
新大橋を森下方面に進んだ橋の袂は、1996年放送の月9ドラマ『ロングバケーション』通称ロンバケの主人公、瀬名が住む「セナマンション」もあった場所だ。あのスーパーボールを投げた場所でもある。さらに新大橋が掛かった隅田川は、即身仏の中で私が最も敬愛する鉄門海上人の目玉が投げられた場所だ。他にも、鶴屋南北、松尾芭蕉など、歴史や文化に彩られた地である。
深川はもともと干潟だった地域でもあり、今でもその名残がある。深川飯が代表するように、あさりご飯が名物となっているのもその地形に由来している。これは徳川家康に命じられた深川八郎右衛門さんによって開拓された歴史の一端でもある。『鬼平犯科帳』の鬼平も食べたと言われる「割烹みや古」など、歴史的な飲食店も多い。
そんな深川エリアの清澄白河。僕が住むこの場所は特に美しく、爽やかな環境に恵まれている。
特にコーヒーが好きな僕は、友人の住倉カオスさんが教えてくれたARiSE(アライズ)によく行く。オーナーの林さんが淹れるコーヒーは格別に美味しく、また新しい出会いの場ともなっている。コーヒーを片手に林さんと深川に住む先輩方に街の最新事情を聞く時間は、僕にとって心地よいひとときだ。喫茶ツカハラ、タバコが吸えるWing、家の向かいのiki Espresso……どの店も魅力的で、日々の生活を彩ってくれる。
そして、この街での生活が本当に自分の一部になったと感じたのは、常盤湯の番台さんとの交流がきっかけだった。清澄白河にある80年の歴史を持つ銭湯、常盤湯。トイレ共同、風呂なしの僕の部屋にとって、この銭湯は生活の一部だった。番台に座っていたのは、齢90歳の元気な番台さん。通ううちに、自然と顔を覚えられ、話すようになった。
「俺も若い頃はよ、やんちゃしてたんだよ」
「ある人と会ったとき、その人が不思議な力を使うんだよな」
そんな話を聞きながら、湯船に浸かるのが日課になった。地元の先輩たちと雑談し、深川の文化や歴史について学びながら、心地よい時間を過ごしていた。しかし、老朽化のため閉鎖が囁かれた後、常盤湯は温泉を掘り当て、見事にリニューアルされた。サウナが付き、連日賑わうようになった。だが、あの番台さんはもういない。
そんなある晩、帰宅途中にコインランドリーで見覚えのある背中を見かけた。
「……番台さん?」
思わず声をかけたが、番台さんは無言で立ち去った。覚えていないのかもしれない。少し寂しさを覚えながら、その場を後にした。
しかし、次の日の夜、また同じ場所で番台さんに出会った。
「おーい!」
「分からなかったよ! みちがえるほど男前になってるからさ!」
そう言って笑顔で肩を叩かれた瞬間、胸が温かくなり、幸せを感じた。
それからも番台さんとは定期的に顔を合わせた。
番台さんに「いいことあった?」と聞かれるたびに、僕は小さな幸せを思い出すようになった。
番台さんが投げかけてくれる「いいことあった?」という言葉は、とてもシンプルだけど、心にじんわりと染みるいい言葉だ。
何か特別な出来事がなくても、その一言を投げかけられるだけで、ふと今日一日を振り返り、ささやかな幸せを探してしまう。美味しいご飯を食べたとか、好きな音楽を聴いたとか、誰かと何気ない会話を交わしたとか。
「いいことあった?」と聞かれるたびに、日常の些細な幸せに気づき、それを大切にしようと思える。そういう言葉をかけてくれる人がいること自体が、もうすでに「いいこと」なんだと思う。
街を愛する理由は、結局そこに暮らす人々への愛情なのだと感じている。
神戸の街も、深川の街も。そこに住む人々と共に生きた思い出があるからこそ、僕はこの街を愛し続けるのだ。
著者: 田中俊行
兵庫県神戸市灘区出身。怪談・呪物収集家。オカルトコレクターの肩書を持つ。稲川淳二の怪談グランプリ2013王者。怪談最恐戦2021優勝、四代目怪談最恐位。YouTubeチャンネル「トシが行く」のほか、TBS系「クレイジージャーニー」に出演するなどメディアやトークイベントなど多方面で活躍中。
X(旧Twitter):@tetsu_gamon
編集:荒田もも(Huuuu)