著者: 飯田 光平
空気を壊さないよう、周りの人と同じように振る舞いながら生きていくのは、しんどい。だからといって、「自分はこうやって生きていく」という確固たる指針があるわけでもない。
でも僕は、小さなきっかけを手がかりに自分を「型にはめ込む」ことで、自由になれた。
僕が生まれ育ったのは、神奈川県藤沢市。一般に「湘南」と呼ばれる地域だ(長年の論争である「どこまでを『湘南』と呼ぶか」問題は、今回脇に置いておく)。
湘南はご存じのとおり沿岸部の地域で、海岸線を歩いていると潮風が横顔をなでる。気持ちよさそうに波に乗るサーファーたちの姿や、寄せては返す波の音に、爽快感を覚えたものだった。
藤沢駅から江ノ電に乗って15分、僕が通った鎌倉高校も、数分歩けば海に着くような場所にあった。
この鎌倉高校は、かの名作漫画『スラムダンク』に登場する陵南高校のモデルになったと言われており、カメラを構えた観光客や『スラムダンク』ファンで通学路がにぎわっていたのをよく覚えている。
サーファーと一緒に江ノ電に乗り、青く光る海を横目に見ながら登下校する毎日。はたから見れば素敵な「湘南ボーイ」だったと思う。陽気な環境がそうさせるのか、クラスメイトには明るく元気なメンバーがそろっていた。
でも、僕はその環境に対する違和感がずっと拭えず、心のうちは暗かった。
誰かが冗談を言って、教室が笑いに包まれる。僕も同じように笑う。みんなで中庭で弁当を食べよう、と誰かが提案する。僕も中庭で一緒に食べる。クラスメイトの行動に合わせて動くことが、つらかった。みんなのことが嫌いだったわけじゃない。一緒にいて楽しい瞬間も何度もあった。
でも、みんなと一緒にいる空間から生み出された見えない力によって、自分がコントロールさせられている気分が常にあった。透明な手が、僕の頬を引き上げ笑顔をつくり、僕の足を掴んで中庭まで歩かせる。
そして、その透明な手を振り払って生きていくほど、僕は強くはなかった。
僕は鎌倉高校の生徒で、このクラスの一員なんだ。みんなに合わせて行動することは、この空間に自分が存在するためのルールなんだ。
そう思って、「クラスの一員」という型に自分を無理やりはめ込んでいた。
ずる休みして歩いた鎌倉の路地裏
クラスのみんなと歩調を合わせることはできたけれど、ギリギリと僕の体がねじれるような感覚はなくならず、入学と同時に入った部活は3カ月でやめてしまった。
みんなで練習し、みんなで片付けて、みんなで帰る。放課後まで団体行動を続けるほどの気力が、僕にはなかった。顧問の先生に「辞めます」と伝えると、先生は意外そうな顔で「そうか」とだけ言った。
クラスで唯一の帰宅部となった僕は、江ノ電に乗って海岸線や鎌倉の街並みをとぼとぼと散策するのが日課となった。
時折すれ違う通行人は、僕のことなんて知らない他人ばかり。「君は何者なの?」と僕に問うてくることもない。僕を型にはめようとしてこない街を歩くのは、自由で居心地がよかった。
土日ともなれば多くの観光客でにぎわう鎌倉だったけれど、平日はそんなこともなく、意味もなく路地裏を歩いたり、大仏を何の気なしに眺めていた。
授業を終えた放課後、時には学校をずる休みして、ひたすら散歩を続けていた。その間、僕は安心感を覚えながら、さびしい思いもあった。
みんなで笑い、喜び、部活に打ち込み、仲よく並んで帰る。高校生らしく、クラスの一員らしく振る舞う。クラスメイトが当たり前にできていることに違和感を覚える自分は、欠陥品のようにも感じた。
どうして自分は、求められる「型」に自分を落とし込むことが、こんなにも辛いのだろう? どうしたら、僕も自分を何かの「型」にはめて生きていけるのだろう?
無言の街は優しいけれど、僕の問いに答えてくれることはなかった。
そして僕は「サーファー」になることを決めた
みんなと同じように振る舞えない自分は、何者でもない。でも、何者でもないままの、宙ぶらりんの自分でいるのはさみしい。そんな僕の小さな転機となったのが、サーフィンとの出会いだった。
友達の友達のお父さんがサーフィン関連会社の社長で(なんだかスネ夫の自慢みたいだ)、その縁でお下がりのウェットスーツやサーフボードをプレゼントしてもらった。
「これで何者かになれるかも知れない」と思った。なんの枠組みも持たない自分に「サーファー」という型を与えてもらえる気がして、飛びついた。
高校の目の前に海岸はあったけれど、海底の岩で足を切る恐れがあるスポットだったので、少し移動するのが常だった。大きめのボストンバッグにウェットスーツを詰め込み、「鎌倉高校前駅」から江ノ電に乗って「湘南海岸公園駅」で降り、10分ほど歩いて鵠沼海岸へ。
その道すがら、自転車にサーフボードをくくりつけた人が颯爽と僕を追い越していく。おたがい言葉は交わさないけれど、「ああ、あなたもですか」とその背中を見つめるのは、気持ちのいい距離感だった。
いざサーフィンを始めてみたものの、「波乗りが大好きになった」と言うのは語弊があるかもしれない。どちらかというと海から上がり、ボーッと寄せ打つ波を見る時間の方が多いくらいだった。
でも、ひとりで海に入って、ひとりで海から上がるサーフィンは、僕にとって大切な時間だった。誰も僕のことなんて気にしていないけれど、僕は「サーファー」としてここに存在している。僕はいつもひとりで波に乗ったり、のまれたり、夕暮れの海を眺めたりしながら日々を過ごした。
少しずつ、サーファーとしての輪郭を持ち始めた僕の「型作り」をさらに後押ししてくれたのが、多くのサーフブランドを扱う「ムラサキスポーツ」だった。
高校生と言えば、お洒落心がむくむくと湧き上がり、土日には「ちょっと服でも見に行こうぜ」と連れ立って藤沢駅周辺のアパレルショップに繰り出すお年ごろ。
でも、ファッションに対するモチベーションが薄かった自分は、いまいちどれにもピンとこない。ダボダボとしたB系ファッションに身を包むのか、シンプルな白シャツを着こなすのか、それともadidasやNIKEといったスポーツブランド?
興味はないのに、選択肢だけは多様にあって、「自分は何が好きなのか」を決めて選ばないといけない。だからといって、母親が買ってきたものを意志なく着る、というのはやっぱり恥ずかしい。友人たちにとっては楽しい買い物である洋服選びも、僕にとっては嫌でもしなければいけない課題だった。
そんなある日、アパレルショップが詰まった湘南藤沢オーパ店に嫌々足を運ぶと、ふと「ムラサキスポーツ」の看板が僕の目に入り、それと同時に身体に稲妻が走った。
「僕はサーファーなんだ。だったら服は全部ここで買えばいいじゃないか!」
あまりに幼稚な発想で失笑を買うかも知れないけれど、当時の僕にとっては大きな転換点だった。
特別、サーフブランドがカッコよく見えたわけじゃない。でも、たくさんのファッションスタイルから「自分に最適なものは何か」を悩むぐらいなら、藤沢駅の、湘南藤沢オーパ店の6Fの、ムラスポの中でだけで悩めばいいじゃないか。そう思うと、一気に気が楽になった。
ムラスポの中に並べられたサーフブランド。BILLABONG、Quiksilver、VOLCOM、ちょっと大人向けのHurley。ムラスポで調えたサーフブランドに身を包むと、より一層、「僕はサーファーなんだ」と自分を肯定できた。
そして次第に、「サーファーっぽい」振る舞いも増していった。
よく通ったのは、自宅から自転車で行ける「BOOKOFF PLUS 藤沢大庭店」。1階にはBOOKOFFらしく中古本が並んでいるけれど、2階には中古のサーフボードやウェットスーツが所狭しと陳列されていた。サーフボードを触りながら「もしこれに乗れたら」と想像は膨らみ、買うお金はないのに週末になると足を運んでいた。
また、日によって波の状態は変わるので、サーフィン日和の時はすぐに海に繰り出せるよう、教室の隅にウェットスーツを吊るすようになった。クラスでサーフィンに打ち込むのは自分だけだったけれど、クラスメイトは「へー、光平はサーフィンしてるんだ」とすんなり自分を受け入れてくれた。
きっと、自分が感じていたプレッシャーや透明な手なんて、どこにもなかったのだろう。でも、当時の僕にとっては、「自分の型」を最初に用意することが重要だった。
サーフィンに出会い、ムラスポで見つけたのは、サーフブランドの服というよりも「自分の生き方はこれだ、と決めてしまえばいい」という人生哲学だ。
サーフィンが好きで好きでたまらなかったわけじゃない。でも、「クラスの一員」や「部活」とは違う型を見つけて、自分をそこにはめ込むことで、僕は救われた。
型にハマるな。自分らしい生き方を見つけよう。多様な選択肢から一番よいものを選び取ろう。
巷にはそんなメッセージが溢れているけれど、僕は、自分の生き方をなかば無理やり決めつけてしまうことによって、自由になれた。
今でも大切にしている、ムラスポからもらったもの
そんな高校時代から時は流れ、就活が始まる大学3年生、僕はまたみんなと同じことができない違和感に包まれていた。
試しに就活サイトに登録するも、日々飛び込んでくる説明会の案内に耐えられず3日で解除。なんとか出席した説明会では、自分だけがパーカー姿。「だってスーツは苦手で……」と、誰に言うでもない言い訳を抱えながら1時間座っていた。
スーツを「着させられ」、履歴書を「書かされる」ような、強制じみた就活のプレッシャーが、気持ち悪かった。それに、世の中にはこんなにもたくさんの会社があるのに、どこがいいかなんて決められない。
また自分は、みんなと同じように振る舞えないんだろうか。悩み苦しんでいた時、僕はサーフィンとムラスポのことを思い出した。
そうだ、決めてしまえばいいんだ。根拠だって、熱意だって、なくたっていい。自分の「型」を決めてしまって、そこから頑張ればいいんだ。大きく、広く、悩まなくたっていいんだ。
そして僕は、幼いころから親しみ、ひとりで過ごす時間もずっとかたわらにあった「本」の世界に飛び込むことを決めた。「何よりも本が好き!」という気持ちがあったわけではないけれど、サーフィンと同じように自分の型、生きる道を決めてしまえば、悩まず自由になれるはずだと思った。
就活にあまり熱心になれなかった僕にも、気になっていた会社がひとつだけあった。少人数の組織で求人すら出していなかったけれど、「ここだけに応募しよう」と決めて全力でアプローチ。無謀な就活だったと思うが、運よく内定をもらうことができた。
高校生の自分が、なかば直感でサーファーになることを決めたように、大学生の自分もまた、本の業界で生きていく、と自分の道を決め(つけ)た。おかげで、その後も10年近く、時には仕事を変えながら、今日にいたるまでずっと本に関わる仕事を続けてこれている。
今はもう、サーフブランドに身を包んではいない。
でも、「自分をひとつの型に落とし込むことで、前に進んでいける」という発見と実感は、湘南の海とムラスポからの贈り物として今も大切に持ち続けている。
鎌倉の路地裏、住宅街をすり抜ける江ノ電、波打つ湘南の海、そしてムラサキスポーツ。
あの時は、さびしくって、悲しくって、どうすればいいか分からなかった僕に付き合ってくれて、ありがとう。僕を「サーファー」にしてくれて、ありがとう。おかげさまで、自分の道を歩みながら元気に生きています。
積もる思い出話もあるし、帰省したらまた寄るからね。
著者:飯田光平
神奈川県藤沢市生まれ。書店員、本のある空間づくり、編集などの経験を経て、現在は長野県上田市のインターネット古書店、バリューブックスに所属。気がつけば、本にまつわる仕事ばかりしてきました。個人でも編集・執筆活動を行っています。
twitter:@alpino_kou2
編集:Huuuu inc.