ふみのみやこ・文京区で育ち、芸人になった僕。|文・中田和伸(さすらいラビー)

著: 中田和伸(さすらいラビー)

はじめまして。さすらいラビーというコンビでお笑い芸人をしております、中田和伸と申します。御茶ノ水にある順天堂病院にて生を受け、そのまま文京区の実家に約30年住んでおります。

東京都文京区。生まれ育ったこの街、僕を32歳、185cmになるまですくすくと大きくしたこの街を愛しています。

正確に言うと、大学の関係で3年ほど立川にて一人暮らしをしていた時期もございます。「実家を出ていたこともある」という小さな見栄のために補足させていただきますが、どうあれ居心地が良すぎるほどに良すぎるこの文京区にて、人生のほぼ全ての時間を過ごしております。ぜひとも愛を語らせてください。

商業施設も充実 映画館以外はなんでもある程よい街


文京区には坂道が多い。我が家は坂の上、半ば崖の上のようなところに位置している。1日の始まりに意気揚々と坂を駆け降り、1日の終わりに最後の一仕事だとばかりに上り坂を踏み締める。

坂の上には穏やかな住宅街が広がっている。ファミリー層が多く、治安の良さが感じられる。ひとたび坂を下り大通りに出てしまえば、昔懐かしい商店街やら、開発の進んだ商業施設やらが立ち並ぶ。東京ドームシティやラクーアなどのアミューズメント施設も充実している。大抵のものはここで揃う。

小さな頃は「この街には映画館が無い。なんとまあ不十分な街なのだ」と思っていた。映画館がどこにでもあるわけではないと知ってから、この街への印象がどんどんと完璧になっていった。

坂の上で穏やかに過ごし、坂の下でほどほどに賑わう。とてもバランスが良く、なんとも品の良い場所である。ともかくも品が良い。品が良いとは言っても、「上品」という言葉にしてしまうほどギラついてもない。他所者にラグジュアリーなバリケードを張るようなことがない。その反面、所帯じみた感じもなく、オシャレを捨て去ってガハハと笑い飛ばすような下品さもない。

この品の良さ、ブルジョワな会話にもやんちゃな会話にもあまり上がらない隠れた過ごしやすさ、尖りが少なく総合的に優れている点がともかくも素晴らしい。

文京区は文教区? 「ふみのみやこ」たる理由

文京区は教育熱が高いエリアだと言える。2023年の統計で見ると、文京区は東京23区の中で、私立中学校への進学率が最も高い(東京都教育委員会『令和5年度公立学校統計調査報告書』より)。僕が通っていた公立の小学校でも、当時半数以上の同級生が中学受験に臨んでいたように記憶している。ご多分に漏れず、僕も小学4年生から塾に通い、中学受験に挑んだ。

みんなの行く末を見渡すと、医者、弁護士、総合商社、有名外資系企業など錚々たる面々が揃っていた。突然変異的にさながらフリーター同然の僕のような存在が生まれてしまった。

周りが当たり前のように受験に励む環境が地域性によるものだと知ったのはもっと後になってからだった。当たり前のように勉強をしていたが、実は勉強させてもらっていたと気づいたのはもっと後、その有り難みが身に染みたのはもっともっと後だった。

もっと早くに気づいていたら、芸人になるなどと言い出さず、スピーディな親孝行ができていたかもしれない。気づくのがあまりにも遅かった。

我が母(もしくは担任の先生だったかもしれない)が、「文京区はね、文の京(ふみのみやこ)なのよ」とよく言っていた。

「ふみのみやこ」がどういうことを表しているのか全くもってピンと来ていなかった。今になってその響きがどこか誇らしくなってくる。教育に力が入っていて、子どもが聡明にすくすくと育っていく空間が出来上がっている。

地域ぐるみの子育てで大きく育った僕


小学校の頃、母子家庭に育った僕はいわゆる鍵っ子であった。近所の児童館内に組み込まれていた育成室(いわゆる学童保育・学童クラブを僕の地域ではこう呼んでいた)にて、平日17時までめいっぱい遊んでから帰った。ともかく動き回りたい時はドッジボールをし、ゴージャスなマネーゲームに興じたい時はモノポリーを嗜み、一人読書に耽りたい時は全巻揃っていた「地獄先生ぬ〜べ〜」を読んだ。毎日、骨の髄まで遊び尽くした。

母子家庭ながら、全くもって寂しさを感じることがなかった。父親がいないという事実に対し、子供なりにアンニュイな表情を浮かべ、悲劇のヒーローを気取ってみる卑しさも持ち合わせていたが、その実、日々の暮らしの中で寂しさを感じることが一切なかった。毎日が楽しかった。

17時閉館の10分前になると、館内には帰りの時間をお知らせする某テーマパークのパレードでも流れることでおなじみの「バロック・ホウダウン」が響き渡った。これは完全に根拠のない憶測だけれども、友達と離れても寂しくないように、最後までワクワク過ごして帰ろうねという大人たちのメッセージだったのではないかと思う。全く根拠はない。

メリハリの効いた子どもたちはいそいそと片付け、パワフルに児童館を飛び出した。育成室の友達みんなで帰るから安心だった。延長戦のようにお喋りしながらだらだらと歩く帰り道も、今思えばいろんな大人に守られながら過ごしていたんだと気付かされる。

まだまだ膀胱の忍耐力が乏しかった頃、万策尽きて帰り道のさなかにお漏らしをしてしまったことがあった。一緒のコースで帰っていた女の子に「絶対に誰にも言うなよ」と不条理な命令を下していたことを覚えている。「言わないよこんなこと」とドン引きされていたことも覚えている。みっともないことに限って覚えている。


児童館のそばには二つの公園があった。一つは児童館の目と鼻の先、そのまんま「すぐそば公園」と呼ばれていた。もう一つはそのまたすぐそば、象を模した滑り台があることから「ぞうさん公園」と呼ばれていた。 僕たちは児童館の中でドッジボールをし、Sケンをし、ろくむしをした。それぞれの公園で缶蹴りをし、砂のお城を築いた。

エッセイを書くために思い出を巡るにあたり、これらの公園を改めて調べてみた。なんと驚いたことに、「すぐそば公園」の正式名称は「台町児童遊園」であった。さらに「ぞうさん公園」の正式名称は「台町第二児童遊園」であった。

そんなバカな。裏切られたような気持ちだった。台町の一つ目だ二つ目だ、そんな堅苦しい空間で過ごしていたというのか。環境が、地域が、僕たちがのほほんと過ごせるようにやさしく騙してくれていたのだった。

ぞうさん公園の滑り台は無くなっていた。代わりに幾何学的・宇宙的、ガイアの壮大さを思わせるオブジェ(遊具)が陣取っていた。スキージャンプのようにぞうさんの滑り台から飛び上がり、苦労して作り上げた砂のお城を勢いよく破壊するという贅沢も今では叶わないようだ。バイオレンスの代わりにイマジネーションを手に入れた。公園も時勢に即した進化を遂げている。

個人経営の飲食店も魅力的


中田少年は中学受験を経て、茗荷谷にある筑波大学附属中学・高校に進学することになる。受験をした身にしては珍しく、一駅隣のご近所に通うことになった。奇しくも変わらず文京区を主戦場として青春時代を過ごしていくこととなる。

なにを奇しくもなことがあろうか、このエッセイを通して人生を振り返れば振り返るほど、母の教育と誘導の賜物だということに気づく。引き続き文京区への愛を育んでいった。

高校から自転車通学が認められた。台地にある高校から、播磨坂(はりまざか)を下って我が家のある地域へと降りていく。この坂がまた素晴らしい。ベンチに座って読書をするおじいさまや、犬を散歩させるご夫婦など、ゆるやかな時間が流れている。

そして何より、桜が素晴らしい。春先には見事な桜並木となる。しかし、素晴らしいロケーションにいながら、高校時代は桜が最高などと思ったことがなかった。思い出として残るのは坂道を一気に下っていく爽快感だった。男子高校生にとって風情を味わうアンテナはまだまだ未発達、当座の空腹と、部活と、恋愛が凌げればなんでも良かったのだ。またしても、素敵な地域に包まれていたことに後から気づく。


帰り道に、バスケ部の仲間とよくカレーやらラーメンやらを食べた。「クラウンエース」はともかくカレーが安かった。みんな当然のように「エース」と呼んでいたが、よもやクラウンまでひとセットだとは。プレーンなポークカレーなら500円以内で食べることができた。あまりにも安く、そして美味かった。


「きなり屋」は当時、ラーメンにライスが無料でついた。ラーメンを大盛りにしつつ白飯もかっ食らう。ともかくお腹を膨らませたかった我々の力強い味方であった。エースか、きなり屋か、今日はサイゼにするか、マックもあるな、などと吟味する日々がともかく愛おしかった。

運動部としてはへなちょこで、体力にも乏しかった僕にとって、バスケ部の活動は過酷を極めた。練習試合中に監督を怒らせれば、相手高校から我が高校までランニングで戻った。自転車で走り慣れた地域をランニングで味わうのはまた別の風情があった。嘘、当時はひたすらに必死だった。

4泊の夏合宿を終え、自校に戻って来てから解散した。同じく自転車通学だった先輩たちと一緒にミニストップに寄り、アイスをご馳走してもらった。合宿が本当に辛くて辛くて、あまりにも辛い合宿が終わった解放感のあまり、ミニストップの前で涙が溢れてきた。涙を流す僕を見て、先輩がぎゃははと笑ってくれた。

泣いて、笑われて、合宿が終わったのがうれしくてうれしくて、笑われているのもなんだかうれしくて、とてつもなく多幸感のある瞬間として思い出に刻まれている。情けない姿を笑ってもらう愛おしさみたいなものをはっきり感じたのだった。お笑いの美しさみたいなものをこの時感じた、気がする。

実家を出る時が来たとしても、僕はこの土地を愛す

大学生活での一人暮らしを経て、卒業とともに実家に戻ってきた。そして母の大反対を押し切って芸人の道を歩むことになる。すくすくと行儀良く育った僕が主張した数少ないわがままであり、すくすく勉強させてきてもらった人生最大の裏切りであった。壮絶な話し合いを経て、なんとか認めてもらい、「とてつもなく親不孝な道に進むんだな」と覚悟してから歩み出すことになる。

芸人の道を受け入れてくれた母に「どうせ生活も苦しいんだからそのまま家にいなさいよ」と告げられた。勘当されて家を飛び出すような、紋切り型のストーリーを想像していた僕は半ば拍子抜けするように、実家に居座り続けることになった。

母がそう言うのだからそうするかと、わがままは言うまいと、いやわがままもなにも実家を飛び出す覚悟もないじゃないか、どのみち1人で引越しやらなんやらやるのが面倒だものな……と、実に腑抜けた文京区のリスタートであった。

なにより、この街が好きだった。この街に温かく優しく包まれていた以上、そうやすやすと飛び出すことはできなかった。悪く言えばぬるま湯である。しかし、この街以上にどこかを愛せる気がしない。

「売れたら世田谷の一等地でも六本木の高層マンションでもなくて、ともかく文京区に城を構えたい」とよく芸人仲間に話していた。今も変わらない夢である。


芸人になってから、新しく見つけた基地がある。カレーショップ「uraぼなっ」である。もともと飯田橋にあったお店に通っていたがコロナ禍を機に閉店、リニューアルして我が文京区に引越してきた。こんなにうれしいことはない。

穏やかで笑顔が素敵な、マスターと奥様の2人で営まれている。お昼のみ開いていて、15時頃には閉まってしまうので足を運ぶ時は注意してほしい。日替わりのあいがけメニューがどれも美味しく、何度行っても飽きない。そしてなにより店主の2人が素敵な笑顔で包み込んでくれる。

ご夫婦は、僕が芸人をやっていることを知り、こっそり僕たちのライブに足を運んでくれていた。最近では、SNSで僕が紹介した小説を読んでくれたそうだ。この上なく心強い応援団長である。

この街に、まさにすくすくと育ててもらった。教育への意識が高いこの街ですくすくと育ち、ちょっとした突然変異で今芸人をやっている。

いつか人生の岐路で実家を出ることもあろうが(さすがに出なければならない、みっともないから)、必ずやビンビンに帰巣本能を研ぎ澄まし、また戻って来たい。我が魂をこの地に残したい。直接的な概念で言うと子ども、そうじゃなければもっとスピリチュアルななにか、ともかくこの文京区を最後まで愛し遂げたいというのが僕の人生のテーマの一つである。

ぜひともお越しください。文京区代表として穏やかに迎え入れましょう。

書いた人:中田和伸(さすらいラビー)

太田プロ所属のお笑いコンビ「さすらいラビー」の東京都文京区出身、一橋大学商学部卒。2012年の関東大学生漫才グランプリ優勝を皮切りに、お笑い芸人の道を本格的に志す。stand.fmにて『さすらいラビーのオーライパパ』を、毎週月曜日22時から配信中。

編集:ピース株式会社(小沢あや)