ライブ&バー「秋葉原ディアステージ」から誕生したアイドルグループ「でんぱ組.inc」。2010年ごろから本格的に活動を開始し、メンバーチェンジも繰り返しながら日本武道館や国立代々木競技場第一体育館で単独ライブを開催しました。精力的に活動を続けてきましたが、2025年にエンディングを迎えることを発表。16年の歴史に幕を閉じます。
結成時からのオリジナルメンバーである古川未鈴(みりん)さんは、秋葉原ディアステージの創立時からキャストとして働き、秋葉原の文化で育ったアイドルです。エンディングを前に、アイドルを目指していた頃の想い出や秋葉原で感じた文化、そして地元である香川に対する気持ちを改めて伺いました。
メイド喫茶の面接で初めて降り立った秋葉原
―― 電気街やアニメ、ゲームの街として有名な秋葉原ですが、古川さんがアイドルになる前は、この街にどんな印象をもっていましたか?
古川:「秋葉原というオタクの街が存在するんだな」くらいの印象でした。もともとなじみはなかったんです。私はインターネットが好きだから、家で完結する生活で、外に出る機会がそもそも少なかったんですよ。
アイドルを志すようになってから「まずはメイド喫茶で働こう」と思って、メイド喫茶の面接の日に初めて秋葉原に降り立ちました。当時は「あっとほぉーむカフェ」を筆頭に、メイド喫茶が話題になり始めた頃でした。10年以上前のことです。
―― 現在の芸名である「未鈴」として接客業を始めたんですよね。生身、本名の自分とのギャップは感じましたか?
古川:なかったですね。未鈴になりきってご主人様とお話をする時間は、とても楽しかったです。「私、接客業向いてるな」と思ったくらい。人見知りすることなく、「この人に楽しんでもらいたいから、接客を頑張ろう」と前向きに考えていました。
―― メイドのお仕事に適正があったんですね。
古川:はい。私にとって、メイドは自信をもってできるお仕事だったんです。秋葉原はすれ違う人同士に何となく仲間意識があって。ゲームの話が聞こえたら、「知ってる!」とうれしくて聞き耳を立てることもあったし。そういう街だからこそ、私でも自信がもてたんでしょうね。
―― 当時の秋葉原は、今ほどは飲食店が多くはなかったように思います。
古川:秋葉原は今や華やかな観光地という感じですけど、もとは問屋やパーツ屋がある電気街だから消灯するのが早かったです。20時以降は真っ暗になるんですよ。デニーズかココスか、ミスドくらいしかお店がないから、夜はメイドやアイドルのたまり場になっていました(笑)。みんな、退勤後やライブ後にそこでごはんを食べたり、おしゃべりして帰るんです。
―― まさに、当時の秋葉原のファミレス内は不思議な空気でした。ごはんを食べていたら、アイドルとばったり遭遇することも多かったです。
古川:そうそう。ご主人様とファミレスで会って、「あの人……」とお互いにわかる瞬間もあるんです(笑)。けど、暗黙の了解で、話しかけたり、声をかけられることもありませんでした。良識のある方が多かったから、身の危険を感じたこともありません。メイドとご主人様の間には、信頼関係があったんです。
アンダーグラウンドな店「秋葉原ディアステージ」の誕生
―― 秋葉原には、2008年までパフォーマンスが盛んな歩行者天国(以降、ホコ天)がありました。とくに心に残っている思い出は?
古川:あの頃の秋葉原では路上のいたるところで撮影会やライブが行われていて、オタク同士の連帯感がありましたよね。私は体育祭とかの行事ごとが苦手でなじめなかったんですけど、ああいうオタクの文化祭みたいなものなら何日でも滞在したいなと思いました。
「秋葉原ディアステージ」に所属してからは、私自身も路上ライブをやりました。今はもうかないませんけど、でんぱ組.incとして当時のホコ天でライブがしたかったです。
―― 2007年に創立したお店「秋葉原ディアステージ」は、ホコ天から生まれた文化を取り入れたそうですが、当時の店内はどんな環境だったんですか?
古川:当時は地下にお店があって、真の意味で「アンダーグラウンド」でしたね。お客さんはみんな会社帰りでスーツ姿。ライブが始まると、お酒を飲みながら上着を脱いでオタ芸を打つんです。そう考えると、私たちしか知らない顔をたくさん見たんですね。
秘密基地じゃないですけど、そういう場所を提供できた自信がありました。お店自体がみるみるうちに人気になって、大行列ができたんですよ。ステージのあるお店の火付け役と言えるかもしれません。
―― オタ芸を打つ方たちは、新曲でもすぐに小道具を持って踊ったりして、適応能力が高いですよね。
古川:野生のプロすぎますよね。ありきたりですけど、「ステージはみんなでつくる」って本当にその通りだなと思います。
オタ芸は古くからあるものですけど、「秋葉原ディアステージでオタ芸を打つのがかっこいい!」と、一種のステータスになっていきました。でんぱ組.incの曲はテンポが速くて、最先端っぽさがありましたから。
―― 当時、古川さんはどんなふうに働いていたんですか?
古川:アイドルというよりキャストとして働いていたんですけど、楽しすぎて休むのが怖かったです。3日もするとオタ芸とかコールが変わって、流行りに乗り遅れちゃうから。休むと、「それ、何のコール?」ってわからなくなっちゃうんですよ。
―― 例えば、どんなコールがあったんですか?
古川:「ファイナルバーゲン」ってコールすると、セール会場のように1人のお客さんの服をはぎ取るコールとか(笑)。あれは一世を風靡(ふうび)しましたね。別のオタクがコールをかぶせて、どちらが盛り上がるか対決していたり、無茶苦茶でしたよ(笑)。それがライブの現場にも流れていったんです。意味がわからないコールもあれば、私のオリジナルのコールもあって。オリジナリティをそこで競うオタクもいて。今のでんぱ組.incの現場にもつながっていますし、さまざまなムーブメントがありました。
―― コール、ファンからの愛を感じます。
古川:オタクはみんな「応援したい」と思ったものに、無償の愛を全力で届けるところがすごいですね。愛の向く先はアイドルや2次元などさまざまですけど、見返りを求めずに声援やお金を使うところには純粋さを感じました。
引きこもりがちだったり、いじめを受けたり、そんな人生を歩んできた私がアイドルになれたのは、秋葉原だからこそだと思うんです。ハロー!プロジェクトに入りたくて応募した時期もあったんですけど、秋葉原でアイドルになって本当によかったなって思います。
秋葉原出身のメジャーアイドルAKB48への想い
―― 2010年ごろにでんぱ組.incの活動が開始しますが、当時はほかにもアイドルがたくさん誕生していますよね。秋葉原にはAKB48もいて、一気にメジャーな存在になりました。古川さんは、どんな気持ちで見ていましたか。
古川:「前田敦子さんみたいになってみたかったな」「神7いいな」と思ったし、憧れたことがないとは言いません(笑)。私、もともとメジャーアイドルに憧れが強かったんです。
でも、メジャーアイドルがでんぱ組.incのライバルかというと、そもそも規模がまったく違うし、あまりそういう気持ちはなかったです。とはいえ、AKB48の皆さんが「秋葉原代表」と紹介されているのを見ると「秋葉原ディアステージもあるんだぞ!」「でんぱ組.incもいるんだぞ!」という気持ちは正直ありました。
―― 秋葉原のアイドルといえば、2人組のFICEも有名でしたね。2022年にでんぱ組.incがFICEの『接吻〜らぶらぶ ちゅ〜』をカバーした時は驚きました。
古川:FICEのカバーをやると聞いたときは、「めちゃくちゃでんぱ組.incっぽい」と思いました。令和にFICEを知っている人って限られるじゃないですか。2010年くらいの秋葉原を知らないと、わからないから。この曲はヒャダインさんが編曲したんですけど、音の使い方が昔のFICEを彷彿とさせる「ダダダダ」というベース音で面白いです。懐かしくて、胸を打たれましたね。
もふくちゃん(でんぱ組.incのプロデューサーである福嶋麻衣子さん)が「当時はサブスクの概念がない時代だったから、今は音源もなかなか再生できない。手軽に聴けるようにわれわれが復活させていただくのは光栄なことだ」って話していたことがあって。本当にその通りだなと思います。でんぱ組.incは、秋葉原のDNAをつくってきた人たちをリスペクトしているんです。
―― まさにでんぱ組.incもそういう存在になりました。当時、秋葉原の街でかなえたかったお仕事はなんですか?
古川:電気街まつりのイメージキャラクターですね。夢がかなった時は、本当にうれしかったです。街頭フラッグやお買い物袋にでんぱ組.incが印刷されて、感動しました。それまで勝手に「秋葉原が拠点」と言ってきたけど、本当に秋葉原の人たちに受け入れてもらえたんだと感じた瞬間でした。秋葉原電気街振興会の方たちにもごあいさつできたし、第二の故郷と言える街を盛り上げられたのがうれしかったです。
あとは、電気街を練り歩きながらライブをしたのも印象的です。コロナ禍で全国ツアーが中止になったタイミングでオンラインライブをすることになって。秋葉原ディアステージから万世橋交差点まで歩きながら『くちづけキボンヌ』を歌ったんです。その時の写真は、『ポジティブ☆ストーリー』のジャケ写としても使われました。秋葉原や秋葉原ディアステージを背負ってライブをして、公式映像に残せたのは何よりでした。
―― ライブやワンマンなどのイベントで印象に残っている場所はありますか?
古川:閉店した石丸電気ですね。アイドルリリースイベントといえば石丸電気。ここでイベントをやるのもずっと夢でした。そして「みりかる★ファンタジー」というソロ作品を出した時に、ついに夢が実現したんです。「古川未鈴さんリリースイベント」という看板をつくってくれて。
石丸電気で歌うと、オタ芸「石丸ミックス」が発生するんですよ。「石丸丸丸、石丸丸丸、CD買うなら石丸石丸電気。でっかいわ、でっかいわ石丸電気!」って。たぶん石丸電気伝統のミックスなんでしょうね。それをやってもらうのがうれしくて、でんぱ組.incのお芝居で取り入れたりしました。
(編集部:高速で動きつつオタ芸「石丸ミックス」を再現しながら語ってくださいました)
―― 夢のオタ芸を耳にしたら感動しちゃいますね。ほかに、古川さんが憧れたことは?
古川:AKB48を卒業する方々の、最後のあいさつです。秋葉原にあるAKB48劇場裏の広場に向かって、バルコニーからファンへのあいさつをするんですよ。あれには憧れましたね。
あっちゃん(前田敦子)が卒業する時は、私もその場にいたんです。夜なのに人だかりがすごくて、みんながあっちゃんのことを待っている。秋葉原に歴史を刻む光景でした。
―― 大きな会場でコンサートをした後、劇場公演で卒業するのもすてきでしたよね。
古川:そうですよね。あとは、ドン・キホーテの裏にあるタワーマンションにも憧れました。「いつか売れたら住むんだ!」って思って、よくSUUMOで物件情報を眺めていました。秋葉原に住みたかったんです。
ファンの「おかえり」で故郷となった香川・高松
―― 古川さんご自身は香川県高松市ご出身で、今は高松市観光大使もされていますよね。
古川:生まれて半年ほどで引越しているので、高松ではほとんど暮らしていないんですよ。だから観光大使のお話をいただいたときは、「そんなに詳しくないですよ?」「いいんですかね?」とお伝えしたんです。でも、「ぜひ!」と言っていただけたので、「じゃあ、みんなと一緒に高松の魅力を勉強していくスタンスでやろう」と決めたんです。今も高松のお仕事を大切にしています。
親の転勤であちこちを転々としていた私には、ずっと「ふるさと」がなかったんです。でんぱ組.incに入ってから、「高松出身なんだ。じゃあ凱旋(がいせん)ライブやろうよ」と言われたんですけど、「いやいや、わたしそんなに思い出ないですよ」って。ふるさとブルーというか、語れることがほかの人と比べて一つ少ないみたいな気持ちがあって、「地元」に憧れていました。
結局、高松では、2014年に凱旋ライブを開催したんです。その時、正直どういうテンションで行くべきか悩んでしまって。でもファンの方が「おかえり」って赤いペンライトを振ってくれたんですね。「おかえり」と声をかけていただけるなら、私は「ただいま」でいいんだなって、導いていただきました。高松を「私の故郷だ」と声を大にして言えるようになったのは、本当にファンの皆さんのおかげなんです。
高松は私にとって思い入れのある場所で、タワーレコード高松丸亀町店では毎回ポスターにサインも書かせていただきました。凱旋ライブができるって本当に奇蹟的なことなんだなと感じます。
「秋葉原で生きてよかった」と思える未来へ
―― 古川さんは2021年にアイドルのままお子さんを出産しました。いつか子どもと行きたい場所は?
古川:通ったゲームセンターとか、アニメイトとか。そういう空間を共有できるってすごいことだなって思っていて、いつかその時の秋葉原を、一緒に感じたいです。手をつないで秋葉原を歩いたら、きっと「秋葉原で生きてきてよかった」と思う瞬間になるんじゃないでしょうか。
子どもがどういうものに興味をもつかはわからないですけど、ゲーム好きになったら一緒にやりたいなと夢を描いています。
―― でんぱ組.incは秋葉原の街で2010年ごろにスタートして、約16年間がたちました。変わった部分と、ずっと変わらないところを聞かせてください。
古川:でんぱ組.incはメンバーチェンジした時期もあったんですけど、私のやりたいこととかスタンスは変わっていないなと思うんです。16年前と考えていることはほぼ同じ。環境は変わったけど、「アイドルをやりたい」「売れたい」という気持ちだけは持っているし、だからこそ腐らずにやってこれたんだなって感じています。
―― エンディングを迎えるにあたって、ファンや秋葉原へ向けて、改めてメッセージをお願いします。
古川:でんぱ組.incを続けてきて変わらなかった部分に「好きなものには貪欲であれ」「オタクはガチ勢であれ」があるんです。自分の「好き」を追求した方が人生は楽しく生きられる。秋葉原は、それがかなう街だと思います。
ちょっと偉そうですけど、ファンの皆さんにも、秋葉原の皆さんにも、自分の好きなものへの気持ちを、年齢を重ねても持ち続けてほしい。絶対に忘れないでほしいなと思います。
お話を伺った人:古川未鈴
9月19日生まれ。香川県高松市出身。2010年ごろ「でんぱ組.inc」として活動開始。古川のキャッチコピーは「歌って踊れるゲーマーアイドル」。2011年にシングル『Future Diver』でTOY'S FACTORY内のレーベルMEME TOKYOからメジャーデビュー。2014年には初の東京・日本武道館単独ライブを成功させた。2019年、漫画家・麻生周一氏との結婚を発表。2021年に第1子となる男児を出産した。2025年3月14日には初の書籍『ツインテールの終わりに、 #未鈴の自伝』を発売予定。
構成:結井ゆき江 撮影:あべあさみ 取材・編集:小沢あや(ピース株式会社)