著者: 劔樹人
大阪の曇天に差した「ハロプロ」という光
私は、18歳で大学に進学した1998年から、上京する2007年まで、およそ10年間の青年期を大阪で過ごした。
その中でも、大学を卒業してからの数年間、私の暮らしの中心は大阪の天王寺・阿倍野近辺だった。
当時大学院への進学に失敗し、バンドでの成功を目指しながらアルバイトをする生活を選んだ私は、常に金がなく彼女もいない日々に、将来への不安を募らせ続けていた。
そんな時期にのめり込んだのがモーニング娘。をはじめとするハロー!プロジェクトの応援である。
うまくいかない日々に塞ぎ込んでいた私の心の曇天に、まず松浦亜弥が、そしてモーニング娘。が明るい光を照らした。
私は駆け上がるように(転がり落ちるように)ハロプロのオタクになり、それだけで底辺だったはずの生活が生き生きと輝き出すのを感じた。
オタクとして活動しているうちに、同じくバンドをやりながらハロプロの応援をしているような友人たちと仲良くなった。
彼らは「ハロプロあべの支部」と名乗っており、阿倍野を縄張りとしていたために、私もそこに加わる形になったのだ。
当時、私が一番年下で20代前半。あとはみんな30歳前後であった。
だいたいろくな仕事もしておらず、金もなかった。誰かが就職すると誰かが仕事を辞めるので、無職保存の法則でも働いていたのだろうか。それでも、ハロプロへの情熱で日々を生きていた。
おばちゃんは理不尽で、おっさんは無駄にいかつい
2000年代の天王寺・阿倍野地区といえば、今現在、街の中心となっている阿倍野Hoop、阿倍野ハルカス、あべのキューズモールなどの大きな商業施設ができる前である。
天王寺駅前は、近鉄百貨店や天王寺MIOといったショッピングビルのある、若者向けの大きな街ではあったが、阪堺電車の通る商店街から一歩入ると、そこは区画整理もされていない雑多な路地に古い飲み屋がひしめき合う、所謂ディープOSAKAゾーンになっている。
またさらにその裏には、再開発のために廃墟となった建物が、先に更地にされた寂しい通り沿いに点在し、夜は人通りもなく、近くの高速道路の音だけが響くような、世紀末感漂う場所だった。世紀は始まったばかりだったのに。
なおその周辺には、浪速区の新世界や日本橋、西成区の飛田新地やあいりん地区なども隣接しているわけで、少し出歩けば刺激的なものがたくさん転がっていた。
静かな新潟の田舎から大阪にやってきたころの私にとっては、新世界や西成のただならぬ雰囲気はどうも馴染めないものであった。
大学時代には、友達から新世界の飲み屋に行くことを誘われても、なんとなく遠慮した経験もあった。
しかし、2000年代も半ばに差し掛かるころはそれにもすっかり慣れ、むしろ積極的に好むようになっていた。
飲食店のおばちゃんは理不尽に怒りっぽく、おっさんは無駄にいかついくらいのほうがしっくりくる。客のおっちゃんたちが一様に歯がないのも味わい深く、そういう場所のほうが落ち着くくらいであった。
私の借りていた部屋は、あべのベルタの裏にあった。
窓を開けると、崖の下に飛田新地のピンクの灯りが広がっていた。
表通りからは時折、全く何を言ってるのか分からない男女の喧嘩の声が聞こえてきた。
実はその物件、住所的には西成区だったが、マンションの名前には「あべの」とついていた。
まあ、東京ディズニーランドも千葉にあるわけだし、そういうこともあるだろう。
難波や心斎橋に出るときは、自転車で大阪市大病院の見通しよい道から、颯爽と飛田新地や西成の商店街を抜けてゆく。
遅くなった仕事の帰り道、ゴーストタウンのような寂れた路地から夜空を見上げると、建設中の高層ビルの影が見えた。
阿倍野商店街のほうから漏れてくる、個室ビデオの看板の灯りが眩しかった。
食、衣、文化は阿倍野商店街で事足りた
そんな阿倍野商店街周辺には、思い出がたくさんある。
よく通ったのは、席が数個しかない小さなかすうどん屋。にいちゃんが一人でやっていたから、どうしても食べたい!と思って行っても、気まぐれに閉まっていることが多かった。隣の同じくらい狭い立ち飲みレゲエバーは、昼間から開いていたのに。
若さゆえか、のんびりとした時間が流れていた。
阪神高速の高架下にあった、「十六夜」という創作居酒屋には、イベントの後などにハロヲタ連中でよく集まった。
2000円もあれば十分飲み食いできるリーズナブルさでありながら、料理や店構えも現代の「インスタ映え」に十分対応していたので、私は気になる女の子を誘って二人で訪れた事もあった。
今思えば、どうしてよりによって、厄介な友人たちがかなり頻繁に出入りする店を選んだのか。当時の私は、女の子と行けるような気の利いた店を全く知らなかったのだ。もし見つかっていたら、二人の時間は思いつく限りの最悪な手段により邪魔され、うまく行くものもうまく行かなかっただろう。まあ、結局うまく行かなかったのだが。
はちみつとチーズのピザは、十六夜で生まれて初めて食べて、こんなにうまいピザがこの世にあるのかと感動した記憶がある。てっきりあれは十六夜のオリジナル料理だと思っていた。
裏通りに入れば、いい感じの古着屋がいくつもあった。
阿倍野の古着屋は、アメリカ村の古着屋とちょっと違っていて、センスが自分には合っていた。東京でも好きな古着屋は、阿倍野のころに通った古着屋にちょっと似ていると思う。
当時買った服で、今も着ているものもちゃんとある。
捨ててしまったが、惜しかったなと思い出すものもある。真っ白な革靴とか、デビッドボウイの顔が大きくプリントされたTシャツとか。
ごちゃごちゃした住宅街の路地を適当に進んでゆけば、駅前の大きなTSUTAYAにぶつかる。
食、衣、文化、当時の私は、阿倍野であらゆるものが事足りていた。
ハロプロ仲間で集まった「南和マンション」
そして、阿倍野商店街の外れ、裏通りの住宅街にあったのが「南和マンション」である。
南和マンションは、ハロプロの応援を通じて知り合った仲間の一人であるイトウさんという人が住んでいた古いマンションだ。
エレベーターなんて便利なものはなく、錆びた外階段を上がった4階にあるイトウさんの部屋が我々の溜まり場だった。
埃まみれのCDとプラモ、謎の置物、いつから着ているのかも分からないようなビンテージ感溢れるTシャツなどが万年コタツと渾然一体となったその部屋は、ハウスダストアレルギーの人を招いたら、一夜にして許容量を突破し致命的なダメージを負わせられそうな状況だったが、私にとっては自分の部屋のように居心地がよかった。
仕事が終わった後に、イベントの終わりに、飲み会あとの名残惜しさに、我々は各々コンビニで必要なものを買ってはイトウさんの部屋に集まり、イトウさんが几帳面に録画している「ハロー!モーニング」や昭和の歌謡曲番組、また80年代のロックバンドの映像なんかを見て過ごした。

この古いマンション、イトウさんの部屋の真下には、同じハロプロ仲間で、イトウさんの大学からの先輩である前田さんという大きな体躯をした豪傑が住んでおり、ここもまた、どこから拾ってきたのかという革張りのソファに、西成の泥棒市で買ってきたと思しき鹿の頭や模造刀など、無駄に男のロマン溢れるインテリアが陳列された異様な部屋であった。また、イトウさんが働いていたバーの常連であったヒロポンさんという元引きこもりの人がのちに引越してきたりと、南和マンションはたくさんの思い出がある。
私たちは、たとえ翌日が仕事でしんどかったとしても、いつも夜遅くまでイトウさんの部屋で遊んでいた。

安い酒と缶コーヒーと、翌日になったら全て忘れてしまうであろうどうでもいい会話。ブラウン管の向こうには、キラキラしたハロメンたちの笑顔。
それが、他に特に楽しいこともない、私にとって唯一の明日への活力だった。
イトウさんちのコタツでちょっと寝て、早朝に阿倍野の街に出ると、取り残された時間から現実に帰ってきたような感じがした。
日曜は昼近くまで寝てからハロモニ。の放送を見て、TSUTAYAのカフェでコーヒーを飲んだ。
コツリさんのクリームシチュー
南和マンションから徒歩10分、現在のキューズモールの裏手の分譲マンションには、コツリさんという男が住んでいた。
コツリさんは顔だけ見れば180cmは身長がありそうな昭和の男前なのに、実際は160cmにも満たないという印象的なルックスと、ケチで愚痴っぽく自慢ばかりする性格を持ち合わせたややこしい歳上の友人であったが、そういう器の小ささも含めて愛すべき男だったので、彼の部屋にもよく遊びに行ったものだ。
コツリさんは私を歳下だと思ってよく説教してきたが、彼の説教は全く心に響かないので気楽なものだった。
コツリさんの住むマンションは、正面は2重のオートロックだが、裏の公園からは直で入れるという謎のセキュリティシステムを備えた大きな建物で、ワンルームのくせに玄関から部屋までの廊下が無駄に長かった。
そこには水着の杏さゆりが寝転がったやたら大判のポスターが貼られてあり、このポスターを貼るための長い廊下なのかと思えた。
部屋の中にも、藤本美貴、石川梨華、若槻千夏、小阪由佳(現・小阪有花)といったコツリさんの歴代好きなアイドルのポスターが四方に貼られていた。
女性が踏み込むことを一切考慮していない真の男の部屋ではあるが、コツリさんの几帳面な性格ゆえか、イトウさんの部屋より圧倒的に清潔である。ここはここで居心地がよかった。
ある時、私が以前より気になっていたYちゃんという大学の後輩が、自分から「今度私もあややのコンサートに連れて行ってくださいよ!」と元気いっぱい言ってきたくせに、実際に誘ってみると、当日ギリギリになってお腹が痛いからとドタキャンされる事件が起きた。
Yちゃんのチケットはもったいないので、会場で声をかけてきたダフ屋に売るしかなかった。500円だった。
それを買って席にやってきたのは、声も体もやたらでかい中年男性だった。
図らずも知らない中年男性と連番してコンサートを見て、外に出ると、通りに停めていた私の自転車は、なぜか車にひかれてガタガタになっていた。
あまりに酷い一連の仕打ちにショックを受けてコツリさんに報告すると、うちまで来いという。私は、大阪厚生年金会館(今のオリックス劇場)から、阿倍野まで自転車を引きずって歩いた。
コツリさんの家に着くと、彼は大笑いしながら、私にクリームシチューをつくってくれた。
コツリさんはかつて阿倍野のごちそうビルに入っていた飲食店で働いていたので、よく「俺は元料理人やから」と自慢されたものだったが、その時のクリームシチューは普通だった。
夜中、やけくそになってコツリさんちの裏の公園にある鉄棒で、10年ぶりくらいに逆上がりをした。
中学生のころは得意だったのに、全然できなくなっていた。
少しずつ、歳をとっているんだな、と思った。
それから数年後、コツリさんはガンになり、36歳の若さで亡くなった。
そのころ東京で暮らしていた私は、コツリさんの通夜のために大阪へ帰った。
阿倍野の街は桜の時期だった。
コツリさんが入院していた大阪市大病院の高台から、かつて自分も暮らした阿倍野の街を見下ろすと、この街であったたくさんのことが頭の中を駆け巡った。
金もなく、夢もなく、彼女もいない、それでもどこか愛おしいあのころの自分にはもう戻れないと思うと、涙が出た。
阿倍野はハロプロの来る街になった
それからまた、数年が過ぎて。
阿倍野の再開発は進み、商店街も潰され、大きな商業施設が出来た。
私は、自分の音楽活動や仕事で、あべのキューズモールに度々訪れる機会があったが、あのころとは比べものにならないくらい便利になり、ありとあらゆるものがある。もうすっかり別の街のように思えた。
キューズモールのイベントスペースでは、ハロプロのリリースイベントもよく行われている。あのころ、ここがあったらどんなに楽しかっただろう。そんなことを思いながら歩いてみる。
南和マンションは取り壊され、駐車場になっていた。
イトウさんも、前田さんも、結婚して新しいマンションに住んでいるが、相変わらず阿倍野からは出ていないという。
そういう魅力のある街だ。私も、あのまま大阪にいたのなら、まだ阿倍野に住んでいたのではないか。
コツリさんの住んでいたマンションは今もある。
相変わらず、裏の公園から、普通に入れるのだろうか。
いつしか私は、コツリさんより歳上になってしまった。
また阿倍野を訪れる機会があったら、あの公園の鉄棒で、逆上がりをしてみたいと、ふと思う時がある。
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著者:劔樹人
男の墓場プロ所属。漫画家。「あらかじめ決められた恋人たちへ」のベーシスト。2014年にイラストエッセイストの犬山紙子と結婚、兼業主夫となった生活を描いたコミックエッセイ「今日も妻のくつ下は、片方ない。 妻のほうが稼ぐので僕が主夫になりました」(双葉社)が話題となり、「主夫の友アワード2018」を受賞。2017年に長女が誕生。他、著書に「あの頃。〜男子かしまし物語〜」(イースト・プレス)、「高校生のブルース」(太田出版)。「小説推理」、「MEETIA」「みんなのごはん」などで連載中。
編集:ツドイ