楽園【坂の記憶】

著: TUGBOAT 岡 康道

「都心に住む by SUUMO」で、2009年10月号~2018年1月号まで連載されたTUGBOAT・岡康道氏と麻生哲朗氏による東京の坂道をテーマにした短編小説「坂の記憶」をお届けします。

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 男ばかりの3兄弟、おまけに末っ子ときては、恵まれた環境とはいえない。しかもわが家はおよそ「豊か」とはいいがたい経済状態でもあった。それでも、兄弟全員元気に育ち両親も長生きしている。そうなると今度は「懐かしい時代」として人から聞かれたりすれば、それなりの話はできるようになる。記憶ではなく、解釈の問題だ。

 生まれは築地である。移転問題で揺れるあの築地ではない。新宿区築地町。外堀通りから神楽坂を登って、そのままの方向に今、坂を上った時間ほどを歩いたところがわが築地町だ。

 この辺りは神田川に近く古くから印刷業が盛んである。わが家も祖父の代からの印刷工場。今? 今も父は働いている。従業員は4人とも70以上!

半世紀人の入れ替わりは無し! デジタルの時代になり、ほぼ儲からないが、「会社を畳んでも別にいいことはない」と父は工場を続けている。

 工場兼自宅は、部屋の数が少なくて6畳の子ども部屋を双子の兄たちと3人で寝起きした。兄たちは2段ベッド。3歳下の僕はおびえながら畳に布団を敷いた。兄たちは、しばしば取っ組み合いの喧嘩をして彼らの乳歯のほとんどは殴り合いで抜けた。その様子をなるべく遠くから、といっても6畳だからそう遠くはないが、僕はじっと見ていた。彼らのパワーが自分に向かって来ることが恐ろしかった。実際、向かってきた。僕は双子の共通のおもちゃだった。一方、一卵性双生児の仲の良さは特別なものもあって、専門学校まで2人は同じ学校に通った。

 学校の成績が良かった僕は、そのせいもあって、2人から相当に煙たがられた。「勉強ばっかしやがって」ということだ。兄たちの近くにいるだけでこっちは身の危険を感じることがしばしばあり、逃げるように両親の部屋で予習復習を続けていた。

 兄たちは調理師を目指し専門学校に。同じ春に僕は都立高校に進学した。僕が入学した学校は文京区駒込にある。家からは4㎞ちょっとで、歩くと40分。地下鉄だと乗り換えが多く35分。自転車だと20分を切る。大雨以外は、自転車で通学することとなった。

 その都立高は伝統があり、卒業後は有名大学にほぼ全員が進学する。スポーツが苦手な僕はブラスバンド部に入部。スポーツ推薦で高校に入った兄たちとは、まったくもって趣味が合わない。「ブラバン?」と兄たちはバカにするように驚いてみせた。兄たちのことが嫌いだった。卒業までパーカッションをやった。ブラバンの女子部員はどういうわけか美人ぞろいで、運動部の連中は練習の合間に音楽室にお目当ての子を眺めにやってきた。僕の背は1年に10㎝も伸びた。彼女もできた。1年上のホルンを吹いている子だった。彼女の家は戸山公園の近くで学校には地下鉄が便利だが、帰りは僕の自転車に2人乗りで家まで送っていった。坂を下るとき、彼女の手が僕の腰に回る。この時間がもっと長ければいいのに、といつも思った。

 その坂は、通学時には苦行に変わる。家を出て神田上水を渡ると、伝通院までは安藤坂のカーブが待ち構えている。入学当時の体力のない僕には地獄だ。坂を越えれば、あとは「楽園」が待っているのだが。

 安藤坂を2年間登りきると、いつのまにか息苦しさを感じなくなっていた。身長はまだ伸びていた。僕が大学に入る年には、兄たちはそれぞれ既に修業を始めていた。一人は金沢のイタリアンレストランへ。もう一人もイタリア料理だが大阪のホテルへ。6畳間は突然僕一人のスペースになった。しかし大学のサークル(軽音楽)やバイトで忙しく、広くなった部屋はもはやただ寝るだけの場所になっていった。

 僕が就職して5年たった。兄たちはそれぞれに修業を終えて、2人でレストランを始めようとしている。場所は文京区白山。昔、大きな書店があった場所だ。高校時代、毎日自転車で走った白山通り。よく覚えていた。オープンは12月1日。2人の誕生日だ。

 兄たちに頼まれて、僕は開店の準備を手伝うことになった。ビールメーカーの営業職は、毎晩遅くまで仕事で飲食店を回っている。常に寝不足なのは仕方ないとして、少なくとも休みの午前中は寝ていたい。しかし、容赦のない彼らは僕を土曜日の朝に酷使する。「ビールはお前の会社にするからさあ」と兄たちは言う。その約束は守ってもらうぞ。

 久しぶりの安藤坂。太り始めた僕にとって自転車ダッシュは再びの苦行になっていた。この坂を登れば、この坂を登りきりさえすれば、2016年現在の僕の兄弟の男くさい「楽園」が待っている。

 

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安藤坂
住所:文京区春日、伝通院前交差点から安藤坂交差点まで
アクセス:丸ノ内線後楽園駅徒歩約10分

 

坂下近くの大きなカーブが印象的な安藤坂。古くより都心に住んでいる人にとっては、かつて路面電車が走っていた坂として記憶に残っているかもしれない。また、坂近くに小説家・永井荷風が住んでおり、作品中で坂の改修工事について触れられることもあった。坂の名の「安藤」は、江戸時代、坂の西側に安藤飛彈守の屋敷があったことから名付けられた。ちなみに「網干坂」「網坂」という別名もある。これは坂下の先に流れる神田川でかつて漁が行われ、その網を干していたから、という説や、御鷹掛(将軍の鷹狩りなどの事務を行う)の屋敷があって鳥網を干していたから、など由来には諸説ある。

 

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■坂の記憶 その他の記事
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著者:岡 康道

株式会社TUGBOATクリエイティブディレクター、CMプランナー。早稲田大学法学部卒業後、株式会社電通に入社。1999年、日本初のクリエイティブエージェンシー「TUGBOAT」を設立。主な仕事にTOYOTA「ハリアー」、サントリー「ペプシ」、キヤノン「70D」シリーズ、大和ハウスなど。ADC賞、TCC最高賞など受賞歴多数。また、小説に『夏の果て』(小学館)がある

 

写真:坂口トモユキ

都心に住む by SUUMO」2016年12月号から転載

 

※特別書き下ろしが2編収録された単行本もSPACE SHOWER BOOKsより発売中。

books.spaceshower.jp

僕には八王子という“距離”が必要だ

著: pato

八王子は遠い。遠いのだ。

都心で活動する人の多くがそう感じるだろう。八王子は遠いのである。東京の最果て、ほとんど山梨、そんなイメージを抱いている人もいるんじゃないだろうか。僕の住む八王子はそんな場所である。

概念として遠い街、八王子

友人との飲み会や打ち合わせ、都心で行われるそれらの活動の後に「八王子まで帰る」と宣言すると、その場にいた人に必ずこう返される。

「めちゃくちゃ遠くないですか?」

それは全くもって異論がないところだ。八王子は遠いのである。

中央線の快速なら新宿から37〜47分ほど、京王線の特急なら39~46分ほど。車だったら1時間くらいはかかるだろうか、直線距離で40キロくらいの道のりだ。確かに遠い。ただ、実際の遠さ以上に遠いと感じる人も多いんじゃないだろうか。きっと、八王子は概念として遠いのだ。

「都心に出ることが多いんだから、都内に住めばいいのに」

そんなことをよく言われる。言わせてもらうが、八王子も都内だ。もう一度言う、八王子は都内である。東京都八王子市である。

もっと言わせてもらうと、僕が住んでいる家の近くには、都心からやってきたカップルなんかが、ちょっとアウトドアライフな装いでやってきたりする。そいでもって「やっぱここまでくると空気がオイシイネ」「そうだネ!」と深呼吸である。ふざけないでいただきたい。八王子は都内だ。うちの近所だ。都心とそんなに空気が変わるわけではない。フリスビーとかやりはじめるんじゃない。水筒に入れたホットコーヒーを飲むな。

さらに言わせてもらうと、大雪や台風のときなどの異常気象を東京のニュース番組で扱うとき、必ずといっていいほど八王子インターの定点カメラを「異界の地」のごとく映すのをやめてほしい。確かに八王子が大雪のときに新宿では雪すらないこともあるが、同じ東京なのだ。

そんな扱いを受ける「遠い八王子」だが、僕にはその遠さが必要なのである。

そう、僕には八王子という距離が必要なのだ。

JR八王子駅と京王八王子駅

東京都の西の端に位置する八王子市は広大な市域に約56万人の人口を有する中核市だ。実は東京都唯一の中核市だったりする。

そして八王子には「八王子駅」が2つ存在する。

ひとつはJR八王子駅で、中央本線や横浜線、八高線が乗り入れる大きなターミナル駅だ。南口にはビックカメラや高層タワーマンションなどがあり、北口には多くの店舗が存在する、いわば八王子市の中心的な存在だ。

八王子駅を中心に放射状に延びる2本の道路のうち、北西に延びているのが「ユーロード」だ。周辺には多くの店舗が立ち並ぶ。一部は歩行者道路になっていて、道路上にテントを並べて古本市や骨董市などの催しを行うこともある。そんなにぎやかな通りだ。

北東側は「アイロード」と呼ばれている。京王プラザホテル八王子脇から延びるこの道路は車の往来が激しく、バスなども行き来している。歩道を歩く人も多い。なぜなら、この先にもうひとつの“八王子駅”があるからだ。

JR八王子駅から400メートルほど離れた京王八王子駅は、「K-8(ケイハチ)」と呼ばれるショッピングセンターの地下に存在する。新宿へと続く京王線の始発駅だ。

八王子から新宿へと向かう場合、JR八王子駅を使って中央本線で行く方法と、京王八王子駅を使って京王線で行く方法が選択できる。電車賃は京王のほうが少し安い。定期を持たず、いつも時間に余裕のある僕はどちらを利用するのかその日の気分で選ぶのだ。

この日、新宿で人と会う約束があった僕は、京王線を選択した。どうやら僕はその先に少し気が重い“何か”があるときほど、京王を選択する傾向が強いようだ。JRも京王も選ぶ電車の種別にもよるが、所要時間はそう変わらない。ただ、なんとなく京王線のほうがゆったり向かってくれるような気がするのだ。だから、新宿に気が重くなる“何か”があるときは京王線を選ぶ。

銀色の車体にピンク色のライン、おなじみの車両がホームで待ち構えていた。始発駅なのでだいたい電車がホームにいてくれる。これに乗り込んで出発を待つ。やはり気が重い自分がそこにいた。

気が重いまま京王八王子駅を出発する

いつの間にか電車が発車し、長い地下トンネルの暗闇を走り始めていた。電車が走れば走るほど新宿に近づき距離を縮めているかと思うとまた気が重くなる。車窓の暗闇の中に憂鬱(ゆううつ)な顔をした自分が映り込んでいた。

人に会うことが嫌いだ。


編集部との打ち合わせや仲間との飲み会、気になる子とのデート、僕はそれら全てが等しく嫌いで、できればやりたくないとすら思っている。このあたり少し説明が難しいのだけど、“会う”という行為自体が嫌いなのではない。会えば楽しく過ごすし、饒舌すぎるほどに喋り倒して引かれてしまうことだってある。ただ、そこに至るまでの心の準備が重苦しい、それだけで“会う”という行為が嫌いなのだ。

僕は人に会うとき、人に会う自分になる必要がある。おそらく、その自分になるのに人よりも時間がかかるのだろう。家を出てすぐに新宿アルタ前に到着してしまっては、人に会う自分ではない状態で会わねばならないのだ。それは丸裸を見られることに近い。だから僕は時間をかけてゆっくりと人に会う準備をし、 “人に会う自分”になる必要がある。これは絶対だ。それには八王子から新宿までくらいの時間と距離が必要なのである。


電車はすぐに地下トンネルを抜け、強い日差しと共に一軒家が立ち並ぶ景色が見えはじめた。まるで住宅街の隙間を縫うように電車が走る。ほどなくして電車はスピードを落とす。同時に北野駅へと到着する旨のアナウンスが車内に流れた。

北野駅~高尾山口駅内にある温泉~

京王線の北野駅では、八王子方面へと向かう京王線と高尾山口方面へと向かう高尾線、二つの路線に分岐する。高尾線はそのまま高尾山の登山口へと続いている。

北野駅へ到達すると、登山ウェアに身を包んだご年配の団体がドカッと乗り込んできた。おそらく高尾山登山の帰りなのだろう。皆さん一様に疲れた表情をしていたが、口々に感想を語り合う様子は心底楽しそうだった。やはりこの辺は空気がおいしいわあとか言っていたから厳重に抗議してやろうかと思った。

高尾山は人気のある山だ。年間の登山客数は300万人とのことで、富士山などの有名な山を抑えて世界一だと言われている。ここ八王子市に世界一の山があるのだ。標高599mと手ごろな高さでありながら都心からのアクセスも手軽で、一年中登ることができる、このあたりが人気の秘訣だ。もちろん、高尾山は八王子が誇る有数の観光地であるが、高尾山はひとまず置いておいて、僕は京王高尾山口駅となりにある「京王高尾山温泉/極楽湯」を特に推したい。

サウナに水風呂など完備しているが、なかでも露天風呂が素晴らしい。高尾の自然を眺めながら登山の疲れを癒やすのも良いだろう。ぬる湯とあつ湯が用意されているので、疲れ具合にあわせてどちらか選ぶことができる。

僕も原稿などで疲れたときは、登山すらしていないのにここで癒やされている。今登山してきましたという顔で入浴していると、本当に登山をやり遂げた気持ちになってくるのだ。「いやー、暑かったですね。この時期の山登りはこたえますねぇ」浴槽で隣になったおっさんが話しかけてくる。「ええ、日差しも強くてだいぶ焼けちゃいましたよ(笑)」そう答えた僕の肌は一切日焼けをしてない。山になんて登ってないからだ。

そうだ。今日の新宿での用事が終わったら、そのまま京王線に乗って帰ってこよう。そこで高尾山口駅までいって温泉に入ろう。そう考えると、本当に少しだけど「人に会う」という重い気分が晴れやかになってくる。なかなかに単純なのである。

高幡不動駅〜台風でも人が並ぶ老舗の味〜

新宿へと向かう京王線の中でまた深いため息をついた。北野駅を出た電車はそのままいくつかの駅を通り抜けて高幡不動駅へと滑り込んだ。八王子市を飛び出し、東京都日野市にあるこの駅は、動物園線および多摩モノレールの乗換駅となっている。駅から徒歩数分の場所には、駅名の由来となった関東三大不動にも挙げられる「高幡不動尊(高幡山明王院金剛寺)」がある。

車窓から高幡不動駅周辺の景色を眺めると、思い出すことがある。何年か前にそれこそ高幡不動までやってきて食べた饅頭が妙に美味かったのだ。あれは美味かったなあ、とスマホで調べてみると、松盛堂というお店の「高幡まんじゅう」というらしい。美味しいものの記憶はいつまでも心に残るものだと感心する。よく覚えていた。

ところで、八王子にも有名な饅頭がある。先述した八王子北口、西放射線ユーロードに店舗を構える「つるや製菓」だ。

おそらく、八王子の人なら知らない人はいないんじゃないだろうかというほどの饅頭屋だ。白餡と柔らかい生地、小ぶりな饅頭だがとにかく美味い。この饅頭が大人気で店には常に行列ができている。台風が近づいているときに通りかかったときも、4人ほど並んでいたから脅威だ。「饅頭屋に並ぶ前にやることがあるだろ」と心の中でつっこまずにはいられなかったけど、つくづく、美味しいものの記憶はみんなの心の中に根付いているのだ。

そうか、これから会う人に美味しい饅頭の話をしようか。「台風の中に200人くらい並んでてまんじゅうの取り合いで殴り合いのケンカがはじまった」とか少し盛って話そうか。でもこれ少しじゃねえな。とにかく、人に会うことが苦痛なのは、何か話題を用意しなければならないことも一つの要因だ。美味しいものの話題なら鉄板なので、少しは時間をつなげられるのではないか。

電車が高幡不動駅を出るころにはちょっと気が楽になっていた。提供する話題がひとつ準備できたことは喜ばしいことだ。これならなんとかいけるんじゃないか、そんな気分が高まってくる。いける、きっと会える。

聖蹟桜ヶ丘駅〜ドラマに登場するネットカフェ〜

それでもまだまだ憂鬱な僕を乗せた電車は聖蹟桜ヶ丘駅へと到達した。

この駅は東京都多摩市に属しており、ジブリ映画『耳をすませば』の舞台として有名だ。ファンの間では聖地のような扱いになっているらしい。映画やアニメ、ドラマで登場した場所を実際に見ると興奮するものである。逆によく行く場所がそういった作品に登場したらもっと興奮するのかもしれない。「例のプール」みたいなものか。よく分からないけど。

そういえば、八王子のユーロードにあるドン・キホーテ、その隣にあるビルに「コミック庵ぽらん×ぽらん」というネットカフェがある。僕はよくここでマンガを読んでいるのだけど、結構な頻度で「今日は当店で撮影があります」と掲示されている。ドラマや映画などでのネットカフェのシーンによく使われているらしい。

お、有名な女優がくるのか、それならもうちょっと滞在してすれ違いざまにでも見てみるかな、と心を弾ませてブースにこもるが、宮下あきら先生の『魁!!男塾』を熟読してしまい、いつも女優を見逃す。

それにしても、有名な女優さんたちもネカフェのシーンの撮影のためにわざわざ八王子までやってくるのだ。なんだか妙な親近感みたいなものが湧いてくる。好感度が上がると言ったらいいだろうか。

逆に打ち合わせや飲み会や何かでわざわざ八王子からやってくる僕にだって、相手が親近感みたいなものを抱いてくれる可能性があるのではないか。むしろ、抱くべきである。そうだそうだ。こんな遠くからきているんだから抱くべきである。今日会う相手だって僕に親近感を持つべきだ。だんだん強気になる自分がいた。

分倍河原駅〜最強の立ち食いそばはコロッケそばである〜

聖蹟桜ヶ丘駅を抜けると大きな川に出た。多摩川だ。電車は多摩川にかかる鉄橋を通過していく。川を越えるとすぐに分倍河原(ぶばいがわら)駅へと到着した。JR南武線の乗換駅だ。いよいよ府中市となり、新宿が近づいてきた。

分倍河原という駅名を聞くと思い出すことがある。何年か前、電車に乗っていたら強烈にそばを食べたい欲望に駆られた。その時も新宿に向かっていて、人と会う約束があったはずだ。なかなか憂鬱だった僕は分倍河原に来てまでも“人に会う自分”になれず、なかば逃げるようにそばを欲し、途中下車してそば屋に入ったのだ。新宿で人と会う約束をしているのに、だ。これはもう暴挙である。

もう店名も忘れてしまったが、あの時のそば屋には本当に救われた。逃げだした僕を迎え入れてくれたそばという存在に心底ほっとしたのである。東京は、ほとんどの駅の周辺にそば屋が存在する。まさしく駅のソバ、だ。そういった意味で安心感を得る部分があるのだと思う。

八王子にも、そんな駅のソバ、のそば屋がある。個人的に最強の立ち食いそば屋だと思っているお店だ。

JR八王子駅よりさらにひと駅隣の西八王子駅、その駅前、徒歩1分の場所に「じんそば」がある。まさに駅のソバだ。見落としてしまいそうな小さな店舗に、角という立地でなかなか見つけにくい。

じんそばは全てのメニューが激安で、かけそば・かけうどんはなんと230円だ。おすすめはコロッケそば。夏場は「冷やし(プラス50円)」で頼むと格別で、しっかりと氷が入ってくる。本当に美味しく手軽なのでホッとする。

西八王子のそばに思いを馳せながら分倍河原駅を通り過ぎる。今日は逃亡しなくても良さそうだ。この調子でいけば、きっと新宿までに人に会うモチベーションになっているであろう。なんだかホッとしつつあった。

府中駅〜八王子のコワーキングスペースで締切に追われる〜

電車はあっという間に府中駅へと到着した。府中駅前は長年の再開発が終わったところで、駅から見える景色が近代的なものに変わっている。僕にとってはそんな近代的な街並みも何も関係なく、単に「競馬場がある場所」である。大きなレースがあるときは毎週のように通っている。そんな場所だ。

僕自身、この府中という街にはほろ苦い思い出がある。競馬でしこたま負けた帰りにトボトボと歩いていたら電話がかかってきて、すぐにでも提出しなければならない書類の存在を思い出したことがあった。今すぐにでも提出しなければ危険が危ない。そんな状況で僕はコワーキングスペースを探した。

いつでもパソコンを持ち歩いているので、書類をつくるくらいその辺のカフェでもやろうと思えばできたが、その日はどうしてもコワーキングスペースでやりたい気分だった。死ぬほど探し回ったが、その当時、府中にコワーキングスペースはなかった。今はどうだか分からないが、とにかくなかった。結果、先ほどしこたま負けた競馬場に舞い戻ってスタンドに座って書類を作成した。はたから見たらパソコンを駆使したID馬券師だ。

このように、僕は「どうしてもコワーキングスペースで作業したい!」というよく分からない欲求が湧きだしてくることがある。普段は八王子にいるので、そんなときはユーロード沿いにある「8Beat」を利用している。

値段が安く、なによりも落ち着く雰囲気で集中して作業に取り組むことができる。八王子の中心にあるので、少し外出して食事などに行くのに便利。やよい軒も近い。

よく考えると、この8Beatで作業しているときは締め切りに追われ、「死ぬ~」みたいになっていることが多い。また閉じこもって作業をするので陰鬱な感じになりやすい。そう考えると、いくら気が重いとはいえ人に会うために外出している今のほうがずっと幸せで喜ばしいことではないだろうか。うん、きっとそうだ。きっとそうだ。俄然やる気が出てきた。どんとこい、新宿!

調布駅〜ホルモンを求めて僕らは街をさ迷った。月を見ながら〜

電車は調布駅へと滑り込んだ。もう新宿はすぐそこだ。

どういった経緯だったか忘れてしまったが、この調布でホルモンを求めてゾンビのように街を徘徊した経験がある。調布はPARCOなどの商業施設があるし、都会だからホルモンを食べることなど訳ないと思っていたが、なぜかどの店も満員御礼で全くホルモンにありつけなかった。

なぜあの日の僕らはあんなにもホルモンを欲したのだろうか。なぜあんなにどの店も満員だったのだろうか、今となっては分からないが、確かにホルモンだけを純粋に求めていたのだ。思い出すとずっと月が綺麗だった。

そんなホルモンゾンビのために、八王子において僕がおすすめするお店を紹介しておきたい。西八王子駅からほど近い場所にその名店「祭」はある。

アットホームでレトロな雰囲気がとても落ち着く店だ。夏の熱気が立ち込め、煙が充満する店内から笑い声が聞こえてくる。ここのホルモンが絶品でとにかく美味い。もう一度言うけど、とにかく美味い。

僕自身は気になる女の子とこの店に来て、もちろん絶品のホルモンを食し、結構いい感じで意気投合し、次も来よう! と鏡月のボトルキープまでしたが、紆余曲折を経て、次にその子と来ることはなかった。既読スルーである。クソッ。

なんだか急激にテンションが落ちてきた。ボトルキープまでしたのにどうして、という気分だ。あの鏡月はまだこの店に置かれているのだろうか。キープされているのだろうか。なんだか心配になってきた。

人と人との関わり合いはこういったことがあるから恐ろしいのだ。あんなにも意気投合したのにこうである。なんだか今日の用件も恐ろしくなってきた。結局、人は分かり合えないのである。鏡に映った月のように虚ろであやふやなものなのである。

やはり今日は人に会うべきではない。そんなことを考え始めた。

調布駅と明大前駅のあいだ〜川沿いに残された遺構の紆余曲折とは〜

調布駅の地下ホームを出た電車はいつの間にか住宅街を走っていた。僕の気持ちはかなり重く、陰鬱なものになっていた。やはり人に会うという行為は今日の僕には荷が重い。次の駅、明大前駅で降りて引き返すべきではないだろうか。そんな気持ちが生まれてきた。

国領駅を通過すると、住宅街の隙間を縫って一瞬だけ川と水辺の景色が見えた。住宅が密集するこの辺りの風景に溶け込むようにしてその川の風景がある。僕は川沿いの風景が好きだ。心の底から気持ちが落ち着くので、暇さえあれば川のほとりを歩いている。

特に八王子には川の景色が山ほどあるのだ。川なのに山ほどあるのだ。そのなかでも特に僕が好きな川辺を紹介したい。

浅川へと続く南浅川の風景は心が落ち着く。川の両側に遊歩道が整備され、散歩やランニングにもうってつけだ。

川沿いの道路を歩きながら周囲をキョロキョロしていると、脇の道の民家に溶け込むようにして、巨大なコンクリート造りの建造物が建っている。最初に発見したときは、この家の人が趣味で建てたものかと思ったが、調べてみると「橋脚」だった。

Google ストリートビューでも確認できる

戦前の話ではあるが、この周辺には高尾線の山田駅から分岐する形で京王御陵線という路線があったのだ。戦局の悪化により乗客が減り、不要な路線ということで廃線となっており、ほとんどの線路や橋脚は撤去されたが、写真に写っているものを含む2つの橋脚だけが残されたようなのだ。なんとも歴史の重みを感じる遺構で、八王子のなかでも最も好きな場所だ。

本当に普通の住宅街の中に突如として現れるのが良い。そして、ここに線路があったんだと思うと、急にこの周辺のいびつな形の道路や、意味不明な中央分離帯が持つ意味が理解できるのだ。たぶん鉄道があったのだ。カードが一気にめくれるように全ての謎が解ける、この橋脚にはそんな魔力があるのだ。

そうだ。そういうことなのだ。

この橋脚も最初からここだけ残そうとして残ったわけではない。紆余曲折を経てさまざまな要因が絡んでこうなったのだ。きっとそうだろう。道路に姿を変えた場所や、中央分離帯に姿を変えた場所もある。残らないのもなりゆきだし、残るものもなりゆきなのである。

鏡月をボトルキープしたのに残らなかった関係もなりゆきだ。人との関係なんてなりゆき以外の何物でもない。今日会う人だって、何を話そう、どんな自分で接しよう、そんなことを考えたってしかたがないのだ。なるようになる。なりゆき。それ以上でもそれ以下でもないのだ。

明大前駅〜なりゆきを超えて残されてきたもの〜

人との関わり合いはなりゆきである。そう考えながら車窓を眺めていた。

電車は明大前駅へと滑り込んだ。ここで結構な数の乗客が降りていくが、すぐに結構な数の乗客が乗り込んできた。なかなかの混雑のまま、新宿を目指すことになりそうだ。

明大前駅はその名の通り明治大学の前にある。だからだろうか、周囲には大学生と思しき人たちが多いような気がした。そのなかで一組の男女が目に留まった。大人しそうな女の子と大人しそうな男の子、おそらく大学生だと思う。

あまり会話をしなかった二人だが、突如として女の子が男の子の腕を取り、自分に引き寄せて抱えこんだ。つまり、腕を組むような状態になったのだ。男の子は戸惑いこう言った。

「なんか、勇気あんじゃん」

その言葉に、女の子は視線をそらしながら言った。

「まあね」

しばらく沈黙が続いたが、男の子が少し顔を赤らめながら言った。

「ここじゃまだ見つかるかもしれないし、噂になったら……」

そのセリフで僕は全てを察した。同じサークルだ。隠れて付き合っている。でも何も進展がない。その状況で彼女のほうが勇気を出して腕を組んだのだ。明大前駅というリスキーな位置で腕を組んだのだ! 同じサークルのうざい先輩とかが見てるかもしれないのにだ!

「別に噂になってもいいじゃん」

彼女は残そうとしたのだ。このままではお互いに勇気を出せないまま有耶無耶で終わってしまう可能性もあったのかもしれない。彼女は彼との関係を残したかった。だから腕を組んだ。消えるものは消える、なりゆきだ、人間関係とはそんなものだ。だから畏れる必要はない。けれども、彼女はなりゆきで済ませたくなかった。残したかった。

その強い意志を見ていると、八王子のとある銭湯のことを思い出す。

JR八王子駅と西八王子駅のちょうど中間に「松の湯 *1」という銭湯がある。サウナがあり、庭師が整備したといわれる露天風呂も素晴らしい老舗の銭湯だ。特に、ジェットバスの勢いが凄まじく、殺されるかと思うほどだ。たぶん世界一勢いのあるジェットバスだ。

地元の人に愛されたこの銭湯に「閉店のお知らせ」が貼り出されたのは2016年のことだった。スーパー銭湯の台頭や時代の流れ、後継者不在、そういった要因があったのかもしれない。この銭湯もそういったなりゆきによって消えるはずだった。

しかしながら、「残してほしい」という地域住民の声が数多く寄せられ、有志による投書も数多く集められた。そして後継者が決まり、正式に存続が決まったのだ。

腕を組み照れ臭そうに笑う彼女の笑顔が、この松の湯の姿と重なった。なんだか勇気が湧いてきた。

§


今日の僕は人に会うべきである。きっと会うべきである。そこに可能性があるのだから。

会ったらまずは何の話をしようか、やはり最初は鏡月のボトルキープの話でがっちりと心をつかんでおくか。それから美味しいものの話だ。

そう考えていると、電車はいつの間にか暗闇を走り、駅でもない場所で停まったり徐行したりを繰り返していた。きっと新宿駅が近い。

僕はこうして、新宿で人に会うまでの間、さまざまな精神的葛藤を乗り越えている。それにはやはり、これだけの時間が必要なのだ。これを乗り越えて初めて僕は人に会う自分になるのである。僕には八王子という距離が必要なのだ。そこに可能性があるから。

八王子という街には時間が早く流れる場所とゆっくり流れる場所がある。新しいものと古いものそんな混沌とした価値観が混在するなかを今日も僕は自分のペースで散歩し、自転車で走るのである。そこには考える時間がある。


さあ、人に会う時間だ。


そうつぶやいて京王線新宿駅の長い階段を地上へと登っていった。

 

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著者:pato (id:pato_numeri)

pato

テキストサイト管理人。誕生日プレゼントにもらった1000本のストロングゼロと共に暮らすおっさん。稲村亜美さんが好き。

Twitter:@pato_numeri テキストサイト:Numeri ブログ:多目的トイレ

編集:ヨッピー/はてな編集部

*1:2019年6月から改装のため休業予定

十五夜【坂の記憶】

著: TUGBOAT 麻生哲朗

「都心に住む by SUUMO」で、2009年10月号~2018年1月号まで連載されたTUGBOAT・岡康道氏と麻生哲朗氏による東京の坂道をテーマにした短編小説「坂の記憶」をお届けします。

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 先生が山の上ホテルにいる。いわゆる作家の缶詰というやつ。私は先生の原稿の完成を待っている。汗だくで、ただ待っている。池波や三島、川端が定宿にし、こもって執筆したというこのホテル、檀一雄が愛人と暮らし、そのことすら小説にしたというこのホテル、で缶詰をするというのは先生の希望だ。作家たるもの、山の上にこもるものだと先生は信じ、憧れているのだが、正直うちの先生は、缶詰にならなきゃいけない状況でも、格でもないと思う。そもそも近くに出版社が多かったから、このホテルが缶詰に適していたのであって、私が勤める出版社は中野にある。近くもなんともない。むしろちょっと遠い。先生に依頼している内容も4000字程度の月刊連載の紀行文、長編書き下ろしでもなんでもない。先生が国内を散策し、それを写真とともにまとめるエッセイ。連載は数年続いていて、2冊ほど単行本化されたものの、さほど売れてはいない。が、今のところ連載が終わる気配はない。

 先生は還暦を過ぎ、もう子育てを終えたご婦人。子育て真っ盛りのころ、新聞社にお勤めだった年上の旦那さんの勧めで、子育てにまつわる文章を書いてみたところ、素人目線の、いわゆる等身大の感性と筆致が受けて、コラムニスト、エッセイストの間を行ったり来たりするような人になっていった……私が先生の担当になったときの編集長から聞いた基本情報だ。出始めがそんなだからか、担当になっても、先生の人柄に問題はなく、物腰も穏やかで年齢なりの愛嬌がある。だけど山の上には泊まりたい、らしい。

 滞在はいつも一泊のみ。大人なので自分でチェックインしてもらって構わないのだが、私は自分が手続きをするべく、毎回ホテルで先生と待ち合わせする。先生は小ぶりのバッグ一つで、必ず先に到着していて、ロビーのソファにちょこんと座って私を待っている。宿泊する部屋は毎回違う。毎回変えている訳ではなく、毎回空いている安い部屋を都度予約しているだけだ。先生は、大先生ではないのだ。

 先生は下書きを原稿用紙で、清書を、息子さんからプレゼントされたノートパソコンでというスタイルで執筆をする。どうやら先生の下書きは、ホテルに入る時点で8割がたできている。それを推敲しつつ、よく言えば丁寧に、悪く言えばゆっくりとパソコンで打っていく。その「ゆっくり」には、途中でコーヒーを飲んだり、ベッドに横になったりする時間も含まれる。

 原稿ができ上がると、私はそれをUSBにコピーして、社に戻る。先生がそれらを自宅で行い、メールに添付して送ってくれれば、これらの作業は全て省ける……ことは重々分かっている。先生だって本当は分かっていると思う。しかし私はそれを確認したり修正を試みたりはしない。

 私はいつか作家になりたい……という話は誰にもしたことがない。編集長にも、親にも友達にも、もちろん彼氏にも。そんな私に、先生は時々「あなたも書いてみたら? 絶対書けるわ、私だって書けるんだから」と言う。本気かは微妙だし、私もその場ははぐらかすけれど、正直私も少しそう思う。先生だって書けるんだから、私だって書けるんじゃないかと。先生の文章が下手という訳ではない、むしろ先生の文体は好きな部類だ。

 何の取りえもない、履歴書に特記事項など何もない私だって、書きたい衝動はあって、でも特別じゃない私が書いてもいいのだろうかと、学生時代も、今でもずっと迷ったままだ。私には特別な人の特別な度胸がないからとずっと思ってきた。でも先生を見ていると、そんなことは関係なく、等身大の自分を信じ、構えることなく書いてみていいんだと思えたりする。

 だから私は、いつか自分が何かを書くときのために、先生の原稿を待つというこの退屈なはずの時間も、できるだけ生真面目に、無駄を承知で過ごしたいと思う。なにが思い出になるか分からないのだから。原稿を待つ間、ホテル裏手の錦華坂という、かつて夏目漱石が通った小学校の脇を通る急坂を、何往復もするのもそのひとつだ。原稿完成の電話が鳴るまで、坂の名前の錦華、を単位として、今月は17錦華、先月は12錦華とカウントしてノートに記し続けている。

 15錦華の途中で、先生からの電話が鳴った。原稿はできていなかった。「休憩で一緒にお団子食べない? 十五夜だから」と先生が言う。自宅から持参していたらしい。額の汗を指で拭って、空を見上げたら確かに満月だった。『十五夜の15錦華、先生とお団子』。いつか、遠いいつか、私はどこかにこのことを書こうと思った。

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錦華坂
住所:千代田区神田駿河台1丁目と猿楽町1丁目の境界
アクセス:各線御茶ノ水駅、神保町駅徒歩約7分

錦華坂の名の由来は坂下に明治初期に設立された錦華小学校があったこと。錦華小学校は夏目漱石など著名人を多く輩出したことでも知られる有名な小学校であった。現在は統廃合により猿楽町のお茶の水小学校となったが、坂以外にも周辺の公園や通りに「錦華」の名を残している。ちなみに江戸時代にこの坂を勧学坂(観学坂)と呼んだという説もあるが、錦華坂の坂道(道路)は大正時代につくられたもの、ということで否定されているようだ。勧学坂については、江戸時代、この近くに猿楽の名人、観世太夫が住んでいたことから、当時、どこか別の坂道がその名で呼ばれていたのではないだろうか。

 

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■坂の記憶 その他の記事
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著者:麻生 哲朗

あそう・てつろう/株式会社TUGBOAT CMプランナー。1996年株式会社電通入社(クリエーティブ局)。1999年「TUGBOAT」の設立に参加。主な仕事にライフカード「カードの切り方が人生だ」シリーズ、NTTドコモ「ひとりと、ひとつ。」、モバゲーなど。CM以外にも作詞、小説、脚本などに活躍の場を広げている

 

写真:坂口トモユキ

都心に住む by SUUMO」2016年11月号から転載

下関マグロさんが選ぶ「入谷」の好きなところ〜私がこの街に住む3つの理由~

取材、執筆: 小野 洋平(やじろべえ) 

あなたが、その街に住んでる理由は何ですか? 商店街の雰囲気がいい。すてきなカフェがある。交通アクセスがいい……。きっと、住む人それぞれに“街の好きなところ”があるはず。今回は生活情報サイト「All About」で散歩ガイドを務め、『歩考力』などの著書もある下関マグロさんに、「入谷」の魅力を教えてもらいました。

 

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入谷……東京都台東区北部に位置する街。最寄駅は「入谷駅」(東京メトロ日比谷線)で、観光地の浅草や上野へも徒歩圏内。戦前からの建物など昔ながらの下町の街並みを残しつつも、近年では駅前を中心にマンションが立ち並び、住宅地としても人気のエリアとなっている。

◆◆◆

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「実はまだ入谷に住んで1年ほどしかたっていません。これまでは新宿、四谷、早稲田、荻窪あたりを転々としてきましたが、仕事で台東区の界隈を散歩している内に、少しずつこのあたりの魅力に惹かれていったんです。それで、まずは3年前に北上野に引越しました。その後、入谷で良い物件を見つけたので購入したんですが、台東区の中でも入谷は特に好きなエリアだったので満足しています」

理由その1.歩き甲斐のある街

「散歩は僕にとってライフワーク。以前は体重が120kgを超えていて、ライターという職業柄もあって不健康そのものでした。取材以外は家から一歩も出なかったから、糖尿病にもなっちゃってね。それで、健康のためにいろんな街を歩き始めたんです。そしたら、散歩そのものが楽しくなってきたんですよ。特に入谷は見所が多くて歩き甲斐もあるし、フラットな道が多いのも60歳の身には助かります。坂の上り下りが、そろそろしんどい年ごろなので(笑)」

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夏は雪駄に甚兵衛スタイル

「どんな街も一通り歩けば面白い発見があります。入谷もそうですね。ここだけで何本も記事が書けるくらい、ネタの宝庫でした。例えば、左衛門橋通りや清洲橋通りの間は空襲に遭わなかったので古い建物がたくさん残っています。朝顔で有名な言問通りは、七夕前後に行われる『入谷 朝顔まつり』の時期以外にも、たくさんの朝顔が植えられています。このように、それぞれの通りにさまざまな個性があるんですよ。ちなみに朝顔は台東区が無料で苗をくれるので、うちのベランダでも育ててますよ」

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街のメインストリートである「金美館通り」。かつて、この通りに存在した「金美館」という映画館が名前の由来となっているとのこと

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「入谷鬼子母神」の呼称で知られる真源寺

「『恐れ入谷の鬼子母神』というしゃれを子どものころに聞いていたので、実物を初めて見たときは感動しましたね。今では、何か困ったことやお願いごとするわけでもないですが、前を通る際はお参りしています。やはり普段から手を合わせることが大切だと思うんですよね。ちなみに境内には下谷七福神のひとつ、福禄寿を祀(まつ)っています。こちらは長寿や健康の神様なので、みなさんもしっかりお願いしましょう(笑)」

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続いて、街角のお地蔵さんに手を合わせるマグロさん。聞けばこの「みまもり地蔵」、マグロさんとゆかりが深いのだとか……

「こちらのお地蔵さんは、前に僕が取材したことがきっかけで『みまもり地蔵』という名前が付きました。というのも、管理している方にお地蔵さんの名前を尋ねたら、名前がないって言うんですよ。でも、取材している手前、名前がないと説明のしようがないじゃないですか。だから、僕が名前を付けましょう!って提案して、後に『みまもり地蔵』という名前が付きました。そんなやりとりだけで名前が付けられてしまう“ゆるさ”もまた、入谷らしくて好きです」

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なお、法昌寺の境内に鎮座する「たこ八郎地蔵」もマグロさんのお気に入り。たこ八郎さんのお墓は地元の宮城にあるが、東京でもお参りできるようにと由利徹さん、赤塚不二夫さんらが発起人となり建立したそうだ。地蔵自体もたこ八郎さんを彷彿とさせる前髪や耳の形が再現され、胴体には直筆で「めいわくかけてありがとう。たこ八郎」と刻まれている

理由その2.歩いてもよし!バスや電車でもよし!な交通利便性

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東京スカイツリーとも程よい距離感。タワーが街の風景になじんでいる

「散歩の良さは、地理に詳しくなること。『あそことここがつながっていたんだ』とか、『歩くとこんなに近かったんだ』とか、電車ばかり使っているとなかなか分からないですよね。例えば、入谷から鶯谷までって電車だと大回りになるんですけど、歩くとすぐそこの距離なんですよ。入谷からは上野も浅草も近いし、買い物や飲みに行くのも基本は徒歩。というか、山手線圏内の用事であれば、歩いてしまいますね」

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入谷から徒歩圏内の鶯谷駅前。橋の真下を電車が通過する、大迫力のビュースポット

「ちなみに、歩きたくない人にとっても入谷は便利です。台東区内を循環するコミュニティバス『めぐりん』もあるし、都バスも縦横無尽に走っています。僕、バスも好きなんですよ。前に区内を『めぐりん』でぐるぐる回って記事のネタを探したこともありました。だって、1日300円で乗り放題なんですよ? 安いですよね。あとは坂がないからか、自転車文化も根付いていますね。小さな子ども連れのお母さんお父さんをよく見かけるし、自転車屋さんも入谷には多いんです」

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コミュニティバス「めぐりん」。都内での仕事は徒歩で向かうが、遅刻しそうになった場合に重宝しているそう 

理由その3.商売っ気のない、おいしい飲食店が多い

「あとは、何といっても入谷は飲食店の名店が多いよね。名店といっても、ものすごく評価の高い有名店だったり、行列のできる話題のお店とかではないかもしれないけど、名もなき昔ながらの食堂や喫茶店だらけなんですよ。それで、どの店も本当に安い。330円ラーメンとか、ワンコインカツカレーとか。商売っ気がないというか、自然体というか、大きくしようという野望みたいなものが感じられない。その感じが、僕にとっては心地いいんですよね」

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なかでもマグロさんのお気に入りが「入谷食堂」。大正12年創業の老舗食堂

「ここ、じつは僕が入谷で初めて取材したお店なんですよ。だから、特に思い入れがあります。ここから始まり、入谷のお店はだいたい行きつくしていろんなお店を記事にさせてもらいました。行きつけのお店が僕以外のライターやタレントに取材されていると、ちょっと悔しいですね。鬼子母神前の『のだや』といううなぎ屋さんはアンジャッシュの渡部さんに紹介されて以来、行列ができるようになっちゃいました。くぅ〜」

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ほとんどのメニューを食べ尽くしたというマグロさん。ちなみに、写真は本日の日替わりメニューのイナダ定食(750円)

 

  • 入谷食堂
    • 東京都台東区入谷2-1-4
    • 03-3873-5129
    • 平日11:30~14:00/17:00~21:30 、土曜11:30~21:30
    • 日曜日・祝日


「ただ、個人店が多いので、お店の方に何かあると替えがきかないというか、閉店してしまうリスクがあるんですよ。行きつけだった大衆酒場もすごく良い店だったんだけど、最近閉めちゃった。いつもニコニコしててハイテンションで、気の良いあんちゃんがやってる店でね。ただ、大酒飲みなんですよ。大酒飲みなのに、居酒屋やっちゃってる。それで入院しちゃったのかな?まあ、そういう点も含めて愛すべきお店が多いですよね」

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愛する飲み屋が休業し、悲しむマグロさん

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行きつけのパン屋「スギウラベーカリー」。こちらは今も営業中

「スギウラベーカリーは昭和から時が止まったようなたたずまいがいいですよね。オススメはポークカツパン(230円)。それと、この道沿いにある『肉の石川』にもしょっちゅう行きます。『肉の石川』では毎日、午前と午後の決まった時間に揚げ物タイムがあるので、その時間の揚げたてを狙って行くんです。今、ローラー作戦中でお気に入りを探してるんですけど、結局全部美味しい。初めての方には『入谷メンチカツ』をぜひ食べてほしいですね。ちなみに『肉の石川』のおやじさんはスギウラベーカリーに毎朝、肉を配達しているんですよ。地域で協力し合ってる感じもまた好きなところです」

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「スギウラベーカリー」では人気にもかかわらずあまり量をつくらないため、パンはすぐに売り切れてしまうとか。確かに、商売っ気がない

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入谷南公園で「肉の石川」のメンチカツを。散歩のエネルギーを補給

 

  • スギウラベーカリー
    • 東京都台東区入谷1-1-9
    • 03-3873-0875
    • 7:00~19:00
    • 日曜日・祝日

 

  • 肉の石川
    • 東京都台東区入谷1-3-8
    • 03-3873-4720
    • 8:00~19:00
    • 日曜日・祝日

 

「入谷で長く続いているお店って、特に気負うことなく『粛々と続けてきた』感じがあるんですよ。商売っ気が感じられないのにいまだ健在ということは、昔からの付き合いだったり、安心して食べられるおいしさが地元の人に支持され続けているからなんじゃないかな」

◆◆◆


最後に、マグロさんに「入谷に住んでよかったな」と思ったエピソードを聞いてみると……。


「僕は元々大阪の大学に通っていたので、近所の人やお店の人とコミュニケーションをとるって『普通のこと』だったんです。ところが、東京に出てきた当初はそういうことが全くなくて、やっぱり東京は冷たいんだなって思ってたんですよ。その印象が変わったのは、下町に住み始めてからです。実際、僕がここに引越してくる際に観葉植物を運んでいたら、『いいね〜立派だ。うちの植物も持っていかない?』とか『おじさん、どこ行くの?』とかって、すごく話しかけられたんですよね。全然知らない人とでも、何気ない会話ができる。それを嫌がる人もいるだろうけど、その誰に対しても距離感がフラットな感じ、僕は素晴らしいと思うんです」


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街のシンボル「入谷朝顔発祥之地」の地碑とともに

 


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今回の案内人:下関マグロ

下関マグロフリーライター。生活情報サイト「All About」で散歩ガイドを務めつつ、街のグルメや歴史などの記事を執筆。主な編著書は『まな板の上のマグロ』『昭和が終わる頃、僕たちはライターになった』など。

Twitter

取材、執筆:小野 洋平(やじろべえ)

小野 洋平(やじろべえ)

1991年生まれ。編集プロダクション「やじろべえ」所属。服飾大学を出るも服がつくれず、ライター・編集者を志す。譲れない条件は風呂・トイレ別(温水洗浄便座)。SUUMOなどで執筆しながら自身のサイト、小野便利屋を運営。

Twitter:@onoberkon

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記事公開時、「清洲橋通り」の表記に誤りがありました。9月19日(水)10:20ごろ修正しました。お詫びして訂正いたします。ご指摘ありがとうございました。

「都下」八王子に生まれ育つということ

著:山田たかゆき

 
中央線のほとんど最果ての街でこれを書いている。
東京都八王子市。この街で18歳までを過ごした。

 


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JR八王子駅北口駅前の「東急スクエア」。ファッションセンターしまむら、Right-onなどのテナントが入っている。とうとうここで服を買うことなく街を出てしまった

八王子はPARCOがあるほど都会ではないけれど、AEONがあるほど田舎でもない。文化はTSUTAYAにしかなかった。

 

SupremeもYohji Yamamotoもmiu miuも売っている場所がない。SWIMMERも、ヴィレッジ・ヴァンガードすら当時はなかった。名画座も、サイファーも、抽選販売をやるようなスニーカー店も、特別盛り上がってるスケートスポットもない。

 

これはとてつもない絶望だった。現在カルチャー系のライターとして生計を立てている29歳の自分が、この街に住んでいた18歳までの自分の文化的な飢餓感を思い返すと、絶望なんて物騒な言葉を選べてしまえる。

 

街を出るまで世間の人が中央線沿線の街にサブカルのイメージを抱いているのを知らなかった。中央線のことは、偽物の東京から本物の東京へ繋がる道としか思っていなかったから。


ひどい言い草で申し訳も品もないけれど、ただある1人の少年にとっては、単純に求めているものがほとんど手に入らない街だった。

 


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北口駅前のパチンコ店「PIA八王子」。ここにはかつてマルイがあった

 


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北口のメインストリート。今回寄稿の依頼を受けて困ったのが、紹介できるほど思い入れのある個人経営の喫茶店や料理店の類が1つも思い浮かばなかったことだ。商店街の大部分をチェーン店が占めていることも、東京の外れの街の特徴かもしれない

 

 

都下の同胞たちへ

自分の生まれ育った街と向き合うにあたって役立ったキーワードが3つあって、最初の1つがこの「都下」だ。都下という言葉を知ったとき、自分の生まれ故郷に対する感情がすとんと腹落ちしてふっと息が楽になった。
そうだ、ここは都の「下」なんだ。

 

都下というのは「23区外の東京」を指す言葉だ。
対して都内という言葉は「東京都全体」を指す用法のほかに「23区内」を意味する場合がある。

 

どういうことかというとつまり、「都下」の対義語はなんと「都内」なのだ。
都下は都内なのに都内じゃない。東京以下の東京。

 

そして思ったのは、都下の街に暮らす人のなかには、自分と同じような思いを抱えている同胞がいるはずだということ。
もちろん都下のなかには発展めざましい街もあって、例えばすぐ近くの立川市には、吉祥寺バウスシアター無きあと爆音上映を受け継いだ映画館「立川シネマシティ」や、ロックバンド・赤い公園のホームとして知られるライブハウス「立川Babel」がある。でも、"そうでない”都下もまたたくさんある。

 

"そうでない"都下に生まれ育ち、そのことに名状しがたい思いをもっている人たちに対してはただごとではない同胞意識があって、彼女ら彼らと共有できる何かをつくりたいとずっと考えてきた。今回の寄稿はその機会と捉えている。

 


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北口ロータリー。多摩美・中央・法政と、八王子には大学のキャンパスが多数ある。ここから大学に通っていた学生も少なくないだろう

 

 

認知症老人が書き殴った「人生八王子」

「人生八王子」というたった5文字の現代詩がある。これが2つ目のキーワードだ。これは都築響一の『夜露死苦現代詩』に掲載されている、ある独居老人が日記に書き殴った叫び、呪文、あるいはダイイングメッセージだ。

 

この本は、発した本人すらも詩だとは思っていないようなストリートの言葉、例えばトンネルの落書き、非行少年の特攻服に刺繍された文字列、認知症老人が口走った妄言などを収集し、「これらこそが現代の詩ではないだろうか」と提起・紹介する著作だ。

 

「人生八王子」なんてきっと世間の人にはまったく意味の分からないフレーズだろう。けれど自分には、この老人が何を言いたいのか痛いほど分かった。というか“痛みだけが分かった”のだ。


この老人は自身の70年あまりの冴えない人生と八王子の冴えない街並みを重ねたのだろうか、とか、噛み砕いて読み解くことはできる。できるがそうじゃない。そんな当事者間でしか共有しえない極めて切実な機微がこの詩に詠(うた)われていると感じられてならなかった。

 


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南口の住宅街から見上げる高層ビルは、南口の再開発の要だ。背の低い街並みのなかに唐突に現れるこのビルを見ていると、街が背伸びしているようでどこか心配になる

 

 

和葉が割り振られる程度の街

3つ目は和葉だ。和葉を知っているだろうか?
名著『名探偵コナン』の主人公・江戸川コナンと非常に深い関わりをもつキャラクターに工藤新一というのがいる。彼は作中「東の高校生探偵」と称され名声を得ていて、対して「西の高校生探偵」が服部平次。その恋人が和葉こと遠山和葉であり、作品への登場頻度は年数回ペースのゲストキャラである服部平次よりさらに低い。

 

前置きが長くなったが、いつだったか中央線全駅で『名探偵コナン』のスタンプラリーが実施され、各駅1人ずつキャラクターのスタンプが配置された。そのとき八王子駅に割り振られたのがこの和葉だったのだ。

 

これが実に絶妙なのが分かってもらえるだろうか? 和葉はメインキャラと呼ぶには程遠い。もっとマニアックなキャラはいくらでもいて、そこまでではないが決してコナンや灰原哀が配置されるような駅ではない。八王子というのは「和葉が割り振られる程度の街」なのだ。

 


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筆者が住んでいたころにはなかった南口のペデストリアンデッキ。南口も今では随分活気づいたが、あのころの南口駅前ロータリーで一番若者が集まる場所はCoCo壱番屋だった


「都下」というカテゴライズ、「人生八王子」という現代詩、そして「和葉」のスタンプ。
この3つが八王子という街を端的に表現しているように思えて、ようやく自分の故郷に納得済みでまっすぐ向き合えるようになった気がした。

 


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南口を進んだ先の住宅街。筆者の12年間の通学路だった道だ。今でもこの道は驚くほど変わらない佇まいで迎えてくれたが、終始どこかよそよそしい気持ちで通り過ぎた。思えばここに住んでいた頃もこんな気持ちだった

 

 

絶望とうまくやっていくこと

ダウナーな話ばかり書いてきたが、ただ絶望していた訳じゃない。その話を都下の同胞たちに読んでほしくてこの先の文章を書く。文化に触れるチャンネルが少ない街での戦い方の話だ。

最初のうちは自分の理想を汚されないよう精一杯気取って、必死にもがくことを恥と考えて絶望に浸り、退屈だと街を見下しもした。退屈そうに生まれ故郷を見下していることで外聞を保った気でいた。
ただそうしているうちに、絶望していることのあまりの退屈さに恥も外聞もなくなってしまったのだ。

そこからは浸っていた絶望から上がって、絶望と目線を合わせ、絶望と仲良くなろうと思うようになった。つまり、おもしろくなさそうな物事にも飛び込んで、自力でおもしろさを見出しておもしろがるDIY精神を自分に課したのだ。そうして、使えるチャンネルはすべて使ってもがく決意が固まった。

 


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子安公園。ここで毎日野良猫と世間話をしてから登校した。ごくまれに言葉が通じている確信がもてた。筆者はなかなかキツい少年だったのだ

例えば雑誌だ。当時、休日の大半の時間をTSUTAYA西八王子店で過ごし、立ち読みできる雑誌をすべて読んでいた。すべてだ。音楽・ファッション・芸能・文芸誌はもちろん、マダム向けのライフスタイル誌ではミトンの編み方を学び、ルールも知らないスポーツの専門誌ではアメリカンフットボールなる未知のスポーツの試合風景に思いをはせた。

「マダムはこういう物事に興味をもつのか」とか「アメフトをやっているマッチョにはこういう書き方をすると響くのか」とか、そういう知識が押し寄せてくるのがおもしろくてしょうがなかった。おもしろがれるように自分を鍛えたから。

 


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自分が18歳までに獲得したカルチャーはほとんどすべて、かつてこの場所にあったTSUTAYA西八王子店で学んだものだった。今では冗談みたいに駐車場の広いセブンイレブンが建っていて、少し泣いてしまった

例えばテレビだ。八王子の一部地域では、東京の外れという立地ゆえ隣接する他県のテレビ局の電波を受信できた。
このなかにもおもしろいものは眠っているはずと片っ端からチェックした。あまり期待にかなう番組は見つからなかったが、ごくごく稀にヒット番組もあった。木村カエラがMCを務めていたことでも知られ、00年代当時のサブカルシーンで存在感を示していたtvkの看板番組『saku saku』がその1つだった。
この番組の深夜の再放送を観ている時間は、最前線のカルチャーに触れられている実感がもてる貴重なひとときだった。

 

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例えば音楽だ。TSUTAYA西八王子店では当時、レンタルCDの入荷リクエストを受け付けていて、そこで広めたいバンドのCDを入荷リクエストし、貸出動向をチェックすることでちょっとしたバイヤー気分を味わっていた。
自分のリクエストを受けて入荷されたCDが好評を得てひっきりなしに「貸出中」になっているときの興奮は、間違いなくくすぶっていた1人の少年を支えていた。

 

入荷リクエストしたバンドのなかでも飛び抜けて多くの人に愛されることになったのがチャットモンチーで、そのチャットモンチーをデビュー直後から知っていたのは『saku saku』の番組の合間に流れていた彼女らの初の全国流通盤のCMを観ていたからだし、入荷リクエストしようと思ったのは片っ端から読んでいる雑誌のどれにもまだ彼女らをプッシュした記事が載っておらず、放っておいたら入荷しなさそうだと思ったから。


ある意味、八王子で生まれ育ったからこそ出会い、微力も微力ながらいち早く広めることに貢献できた。そしてそのことが巡り巡って、先日活動休止前最後のインタビューを担当することにも繋がった。

 

紛れもなくあの街で育ったからこそこうなった自分

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あのころ雑誌を読み漁り、テレビを観漁り、音楽を聴き漁っていた少年はその後、雑誌編集者となり、テレビ局に勤務する機会にも恵まれ、音楽ライターとしての仕事にもありついている。
特に、疑似バイヤー活動を経て得られたささやかな成功体験は、音楽の仕事をするうえで恥ずかしながら今でも力強く背中を支えてくれている。

 

あのころ絶望せず、絶望とうまくやっていく道を模索したことが、全部今に繋がっている。おかげでこの絶望とはもう随分仲良くなったつもりだ。絶望のほうもそう思ってくれてたらうれしいんだけど。


今でもこの“パッと見でおもしろがる余地がなさそうな物事を自分からおもしろがりにいくこと”が克明に癖づいている。直近で言えば、ワークマンのアパレル商品のなかからモードに着られそうなアイテムを探したり、100円ショップにある大手メーカーの類似品っぽいスナックをサンプリング元と比較検証したりといったことが最新の趣味だ。

 

ずっと八王子には何もないと思っていた。「ところがそうじゃなかった」という話をしたいんじゃない。何もなくても何かあってもあまり関係ないので、思いつめると本質を見失うということだ。今いる場所で何をおもしろがれるかが自分自身だ。絶望してる場合じゃない。今絶望してる人、たぶんもうそろそろ気づきはじめてると思うけど、絶望してるのって超つまんないよな。 じゃあ、このあとどうする?

 

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 八王子市では、17:00の『夕焼け小焼け』のほか、14:00にこの街出身の歌手・松任谷由実の楽曲『守ってあげたい』のチャイムが流れる。サビで「だから心配ないよ」と繰り返すその「だから」が何を指すのかを考えはじめるといつも、答えが出ないうちに『夕焼け小焼け』が流れはじめた。2つめのチャイムを聴きながら、都会でも田舎でもないこの街と一緒に中央線色の夕日に塗りつぶされていった子どもの自分を思い出す。


その記憶の中の風景は存外悪くなくて、市外の人に笑顔で語れる故郷の話題の1つだ。

 

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著者:山田たかゆき

山田たかゆき

ライター。主に音楽・カルチャー誌で活動。

記事公開時、八王子市のチャイムの説明に誤りがありました。9月15日(土)9:30ごろ修正しました。お詫びして訂正いたします。ご指摘ありがとうございました。

編集:Huuuu inc.

写真:なかむらしんたろう

希望【坂の記憶】

著: TUGBOAT 岡 康道

「都心に住む by SUUMO」で、2009年10月号~2018年1月号まで連載されたTUGBOAT・岡康道氏と麻生哲朗氏による東京の坂道をテーマにした短編小説「坂の記憶」をお届けします。

◆◆◆

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 千鳥ヶ淵の戦没者墓苑には、祖父の魂が眠っている。そういうふうに、祖母は僕に話していた。

 一番町で暮らすわが家は、曽祖父が大分から上京した以前のことは、よく分からない。彼は役人だったらしいが、上級官僚だったわけではないだろうと推察する。貧乏な実家の次男坊で、努力の人が、当時、職を得て上京を果たしただけで曽祖父はよくやったと思われるのだ。

 曽祖父の息子は軍人になった。関東軍の青年将校である。祖母は長男の僕に、縁側でなんども夫の話をしたのだが僕はあまり覚えていない。仏壇の写真でしか見たことのない人物に子どもはそれほどの関心を抱けない。まして、写真の人は「おじいちゃん」というより、まるで「お兄ちゃん」であった。

 ガダルカナル方面での関東軍の玉砕は、最初は政府によって隠蔽されていたが、終戦に向かうにしたがい次第にオープンになった。祖父の遺骨は妻の元へは届かなかった。つまり、妻は夫の骨を持っていない。ひとカケラも。

 一九五九年に「無名戦没者の墓」として、千鳥ヶ淵に墓苑ができた。祖母としては、家の近くに夫が眠っていると信じることで、何やら心が落ち着くのだという。誰だって、不確かな何かを信じて生きているのだ。

 祖母は僕が大学を卒業するころに、この世を去った。あのころ僕は一体何を信じていたのだろうか。たぶん、希望のようなものだ。「自分が何者にもなれるはずだ」という間違いではないが、ちっともリアルではない予測だ。大学時代にバブルがはじけ、日本は静けさに包まれていた。デートも、わざわざ父親のクルマで出かけるより、都内の静かなスポットを僕は好んだ。フェアモントホテルは、アンティークだ。しかも、家から歩いて行ける。内堀通りを渡るのは、日比谷に向かっても、靖国神社に向かっても、どっちみち少し遠回りになるのだけれど、内堀通りから鍋割坂を下ればホテルの真横に出られた。「フェアモントホテルでお茶でも」というのは、僕の常套手段で、思い出すと情けないくらいに貧しい誘い文句だが、そうやって数人の女の子たちを誘い出すことに成功した。

 千鳥ヶ淵の公園は桜の季節には少々混雑するが、それ以外は空いていた。赤坂や新宿にはどんどん新しいホテルが建っていたし、この辺りは東京という街が、この地区を一瞬忘れている感じで、時代から取り残された気分があった。そのマイナーで控えめな気分を僕は利用し、実家がほど近いという卑しいアピールも含めて常用した。港区でも下町でもない、東京のエアポケット。エリアとしては完璧だったが、僕自身に内容がなかったのだろう。数人の女の子たちとは、特段それから仲良くなることもなく、僕は大人になった。

 先週の日曜、娘と千鳥ヶ淵を歩いた。お堀に沿ってゆっくりと歩く。娘はまだ幼稚園の年中だ。妻は美容院に行っている。突然中年のカップルに名前を呼ばれた。僕はその二人が誰だか分からなかったが、近づいてきた女性が、かつてこの近くでお茶を飲んだ女の子の一人だということは思い出した。僕らは同じ大学に通っていた。夫らしき人物も、僕と第二外国語でクラスメートだったとのことだが、まったく記憶にない。差し出された名刺を受け取り、彼が弁護士であることが分かった。彼のことを思い出したフリでもしようかと思ったが、そんなマネはできなかった。子どもの前で姑息な芝居はしたくない。たぶんそういうことだろう。

 自分を思い出せないでいる僕に対して、彼は不機嫌な態度はとらなかった。もちろん、楽しそうにもしていなかった。彼はきわめて真っ当な態度でいた。一方彼女はうれしそうに、娘を見て笑った。それは、この子の母である人生が、自分にもあったのではないか、というあり得ないけれどあり得たかもしれない、もう一つの人生を想像した笑みだったのかもしれない。いやそれは自信過剰だ。単に、幼い少女への先輩としての礼儀なのだろう。

 僕たちは、希望などという言葉を自分に使うのははばかれるような年になった。何にでもなれたはずが、ただ一つの人生を歩き続けるという「ありふれた一生」に帰着しつつあることを知っている。三人と娘は夏の蟬の声が遠くから聞こえる、都心の真ん中でしばらくただずんでいた。そして、話すこともなくなり、互いにさよならを言った。娘の声が一番大きかった。千鳥ヶ淵のホテルはもう跡形もない。しかし、新しいビルがそこにチカラ強く立っている。僕らの希望は、多分娘たちが受け継ぐのだろう。僕たちは鍋割坂を手をつないで上り、家に向かった。妻は夕食の準備にかかっている。たぶん。

 

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鍋割坂
住所:千代田区九段二丁目と三番町の境界
アクセス:東西線九段下駅徒歩約8分

 

「鍋割坂」という名の坂は、全国に複数ある。それらの坂はだいたい鍋を伏せたような台地につくった切り通し(山や丘を掘削してつくった道)の坂であることが名の由来。この内堀通りから千鳥ヶ淵ガーデンロードに下りる鍋割坂も同じである。見逃してしまいそうな小さな坂であるが、坂の北側、現在はマンションがある場所にはかつてフェアモントホテルがあり、坂下には千鳥ヶ淵戦没者墓苑。春になれば周辺は桜の名所としても知られているため人の往来は多い場所。知らず知らずのうちに歩いたことがあるという人もいるのではないだろうか。ちなみに近くの国立劇場のそばにも同名の鍋割坂がある。

 

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著者:岡 康道

株式会社TUGBOATクリエイティブディレクター、CMプランナー。早稲田大学法学部卒業後、株式会社電通に入社。1999年、日本初のクリエイティブエージェンシー「TUGBOAT」を設立。主な仕事にTOYOTA「ハリアー」、サントリー「ペプシ」、キヤノン「70D」シリーズ、大和ハウスなど。ADC賞、TCC最高賞など受賞歴多数。また、小説に『夏の果て』(小学館)がある

 

写真:坂口トモユキ

都心に住む by SUUMO」2016年10月号から転載

 

※特別書き下ろしが2編収録された単行本もSPACE SHOWER BOOKsより発売中。

books.spaceshower.jp

父の上京【坂の記憶】

著: TUGBOAT 麻生哲朗

「都心に住む by SUUMO」で、2009年10月号~2018年1月号まで連載されたTUGBOAT・岡康道氏と麻生哲朗氏による東京の坂道をテーマにした短編小説「坂の記憶」をお届けします。

◆◆◆

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 上の娘が、カナダの大学に留学することになった。短期留学ではない。もちろん親として多少の不安はあったが、娘の本気を信じ、送り出すことになった。そして昨日、娘は無事に成田から出発した。親の不安をよそに涙もなく、実にからりとした見送りであった。

 見送ったのは私、妻、高1の長男、そして私の親父。

 何カ月か前、娘が留学したいと言っている旨を電話で伝えた際、親父は「頼もしい」と、孫のその決断を褒めた。親父にとって、娘は初孫。目に入れても痛くない、いくつになっても可愛くて仕方ない存在なので心配するかとも考えたが、そんなことはなかった。孫を褒める親父の声を聞きながら、まぁそうだろうなと改めて思った。

 一昨日、娘の見送りのために、親父は神戸から新幹線で馳せ参じた。昔からフットワークが軽く、定年退職後はそれにむしろ磨きがかかり、サラリーマン時代より忙しいのではという毎日を、親父は送っている。趣味の写生、短歌では地元の集会の理事を長年務め、健康管理にも余念がない人だ。

 今回も、上京した日にわが家で娘の壮行会をかねた夕食、翌日に娘を見送ったかと思えば、もう明くる日、つまり今日には神戸に戻るという慌ただしさだ。予定が詰まっているとのこと。

 母が他界して10年。母が生きていたころは、定期的にふたりで東京のわが家へ、孫に会いにやってきた。親父が一人になってから(それは孫たちが次第に成長し、それぞれが部活動なり、自分の生活が出来始めたこととも無関係ではないが)その頻度は減ったものの、それでも不定期に、なにか機会があればパッと新幹線に乗ってやってきて、楽しそうに過ごしたかと思えば、パッと帰っていく。孫たちも、いつもどこか豪快でせっかちな親父にはなついていた。愛でる祖父と孫、というよりは年齢差を超えた友人という関係に見える。こちらで一緒に住まないかという打診もしたことはあるが、神戸を離れる気はないと即答された。会いたくなればいつでも会える、と。

 健脚自慢の親父は、新幹線を降りると品川から五反田まで山手線で移動、そこから中原街道をとことこと歩き、桐ヶ谷坂を上って、わが家まで一人でやってくるのが常だ。送り迎えを嫌い、自分のタイミングで動くことを好む。約束の時間に縛られるのが疎ましいらしく、妻は、自分が義父のケアをしない嫁、ということになるのではと、結婚当初は気にしていた様子もあったが、今となっては「うちのおじいちゃんはそんな人」という構えだ。

 私は大学入学を機に、神戸から上京、そのまま東京の企業に就職し、現在に至る。一応関西の企業も受けようかと思っているというようなことを、就職活動のときに親父に話したら、くだらない保険をかけるな、なんのために東京に出たのだと、嗜められ、結局ずっと東京暮らしだ。東京で同僚と結婚し、東京にマンションを買った。本社勤務でおそらく今後も転勤はなく、子どもたちも東京以外の土地を知らない。神戸には時々帰省していたが、母が亡くなってからは、むしろ親父が上京してくることのほうが多くなった。親父曰く「俺が動いたほうが早い」のだそうだ。

 私はもちろん、経済的には自立しているし、一家を養っている自負だってあるのだが、今でも時折心の中で、こういうとき親父はなんと言うだろうか? ということを自分の判断基準にしているところがある。うだうだと迷っていることを、親父の、ある種無責任な、しかし端的な一言で、自分なりに解決できた記憶がいくつかあるからだと思う。そしてそう思いめぐらすことは、若いころよりも、結婚し夫となり、父となり、会社では管理職になりと、自分の人生が多層的になればなるほど、増えた気がする。親父に直接聞くことはないのだが、そう考えてみることで、自分の居住まいというのだろうか、生き方の指針を微修正している自分がいる。

 朝食をすませると、親父はそそくさと準備を始め、それじゃ戻るからと玄関へ向かう。日曜なんだからもう少しゆっくりしたらと妻が引き止めたが、今帰れば向こうで半日あると笑う。親父を見送るために、中原街道まで出るが、そこから先はやはり一人で帰るらしい。「タクシーに乗ったら? このまままっすぐ行けば、品川なんだから」と言うと、その地理的な事実は知らなかったようで「そうなのか?」と珍しく反応したが、少しだけ考えた父は「まだ早いな、それは」と提げたショルダーバッグをポンと叩き、歩き出した。

 坂を下っていく父の背中は、どうしたって幼いころのそれよりは細く小さく見える。あぁ私はまだあの人の息子なんだなと、その背中を見ながら思う。

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桐ヶ谷坂
住所:中原街道、品川区西五反田6丁目付近
アクセス:東急池上線大崎広小路駅より徒歩約8分

中原街道の坂の名だった桐ヶ谷坂。名の由来は周辺の地名「桐ヶ谷」だ。その名は桐の木が多く茂る窪地、または霧の深い谷だったことが命名の理由といわれている。このエリアを中心とする桐ヶ谷村は、1878年(明治11年)の郡区町村編制法施行で隣接した大崎村に吸収合併された。しかし、街には交差点をはじめ名が残っているものが多く、桐ヶ谷坂もそのひとつといえるだろう。といいつつも、現在の中原街道、桐ヶ谷坂は上を走る首都高速2号線の工事によって原形はほとんどとどめていない。ちなみに首都高速完成以前、明治のころの中原街道、桐ヶ谷坂は水田の中を通っている道だったという。

 

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著者:麻生 哲朗

あそう・てつろう/株式会社TUGBOAT CMプランナー。1996年株式会社電通入社(クリエーティブ局)。1999年「TUGBOAT」の設立に参加。主な仕事にライフカード「カードの切り方が人生だ」シリーズ、NTTドコモ「ひとりと、ひとつ。」、モバゲーなど。CM以外にも作詞、小説、脚本などに活躍の場を広げている

 

写真:坂口トモユキ

都心に住む by SUUMO」2016年9月号から転載