読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

私だけが知っている、秘密の優しい「湯島」

著: おしり元気 
f:id:oshirigenki:20161016100239j:plain
■都会の真ん中にぽつりとある「優しい街」

私が湯島にある小さな雑貨販売の会社に就職したのは、18歳のときだ。高校を卒業しても特にやりたいことがなかった私は、「立っているより座っている方が好き」というだけの理由で、事務員の求人を探したのだった。

ところで、湯島と聞いて、その場所を正確に思い描くことができる人は少ないような気がする。そういう私も、面接の際に初めて湯島を訪れて、こんなに不思議な場所があったのかととても驚いた。

湯島は、周囲を上野、秋葉原、御茶ノ水といった、JRの主要な駅に囲まれている。そして、そのどこへも徒歩で行くことができるのだ。そのせいで、上野に遊びに来た観光客が、パンダを求めてうろうろと歩いているうちに気づけば湯島に迷い込んでしまうという、トラップのような側面もある。そんな贅沢な場所にある湯島だが、決して「都会的すぎる」という場所ではない。「とても優しい街」なのだ。

■お使いへ行くシンデレラ

f:id:oshirigenki:20161016100352j:plain
舞踏会へと続く道

湯島の会社に入社してみると、想像していたよりもずっと、単調で退屈な毎日が始まった。毎日決まった入力作業をして、毎日決まった書類をつくる。単純作業の数々は、あっという間に何も考えなくてもできるようになってしまった。あまりの退屈さに、時々お金の計算が合わなくなると「考えることができたぞ!」と喜んでしまう程だった。

ある日、そんな生活に変化が訪れた。周囲の信頼を得て、郵便局へお使いに行かせてもらえるようになったのだ。オフィスの薄暗さにいいかげん嫌気がさしていた私にとって、郵便局は憧れの「舞踏会」のようなもので、お使いを頼まれた瞬間、子どものように「やったー!」とその場で叫びたい気持ちになった。

ここから私の「小さなサボり道」の追求が始まったのだ。郵便局へ行くのなら、制限時間は30分という所か。お使いのとき、私は「シンデレラ」になった気分だった。

■湯島の静けさに救われる

f:id:oshirigenki:20161016100338j:plain
のら猫がのんびり過ごしている

経理の人から切手代をもらい、ついでに自分の財布もこっそり持って、会社の入り口を出る。湯島の街はとても静かだ。住宅と小さな会社が立ち並ぶ街である。

歩いていると、小さな医療機器メーカーや、出版社の看板がよく目につく。周囲に医療系の大学が多いからだろうか。ビルの中には沢山の人がいるのだろうが、外から見るといつもひっそりとしていた。

会社とは、中へ入ればいつも電話が鳴っていて、いつも誰かが喋っているので、騒がしい場所である。思えば当たり前のことだが、入社するまでは、事務は「静かにできる仕事」だと勘違いをしていたのだ。元々1人で静かに読書をするのを好む性格なので、会社の騒がしさには頭を抱えたくなるときがあった。

だから、湯島の静けさには何度も救われた。駅から少し離れた会社の周辺は、車通りも少なく、のら猫の鳴き声までよく聞こえた。そんな穏やかな街を、のんびりと歩く。私はそれだけで、うんとリラックスできた。

■路地の宝物を探す

f:id:oshirigenki:20161016101208j:plain
湯島の路地は宝石箱

郵便局へのお使いのときは、わざと通ったことのない路地へ入り込む。すると、本当に隠れ家のように小さなお店がぽつりとあったりするのだ。さすがにお使い中にお店に入る訳にはいかないけれど、宝物を見つけたみたいでうれしかった。

お店を見つけたら、すぐにインターネットで検索してみる。インターネットにも情報がないお店だったら、本物のダイヤモンドだ。しかし、どんなにひっそりとあるお店にも、大抵レビューがついているので、いつも少しがっかりしてしまった。

■湯島天神でりんごジュース

f:id:oshirigenki:20161016100324j:plain
学問の神様として有名な湯島天神

お使いを急いで済ませたら、湯島天神へ向かう。会社から歩いてすぐの場所にあり、ここならば制限時間ギリギリまでサボっていられるからだ。いつも自販機で紙パックのりんごジュースを買った。本当はのんびりと缶コーヒーが飲みたいけれど、そこまでゆっくりしていては会社の人たちに「遅いなあ」と思われてしまうかもしれない。そんな小心者の私だけれど、この小さなジュースをすすっている時間は、自由な気持ちになれた。

f:id:oshirigenki:20161016101512j:plain
よくひなたぼっこをしたベンチ

境内にあるお気に入りのベンチには木漏れ日が注ぎ、気持ちが良い。あまりに気持ちがいいので、うとうとと眠ってしまいそうなこともあった。

■最高のどら焼きのためには、スリルが必要

f:id:oshirigenki:20161016102025j:plain
湯島天神の急な階段を下ると、もう上野だ

お使いの中でも、特にスペシャルなものがある。それが「得意先への商品のお届け」だ。

上野にある得意先に、直接納品に行く事が時々あった。それを任されたときは、本当にうれしくてたまらない。外に出ていられる時間が、郵便局へのお使いのときよりも遥かに長いからだ。

その瞬間が来ると、私の頭はあっという間に「どら焼き」のことでいっぱいになってしまう。正直、得意先なんてどうでもいい。だらだらとお茶を勧めてきたりしないでほしいとさえ思う。だって上野には、大好きで大好きでたまらない「うさぎや」のどら焼きがあるのだ。

f:id:oshirigenki:20161016100253j:plain
創業100年を超える老舗和菓子店「うさぎや」

お使いを済ませると、すぐに「うさぎや」へ飛んでいった。「どら焼き1つ下さい」と言うと、「すぐ食べますか?」と聞かれるのだが、答えはもちろん「はい!」である。なぜなら、ここのどら焼きはいつも出来立てで温かいからだ。薄いビニールに包まれたどら焼きから伝わってくるほんのりとした熱に、私の心はいつもきゅんとする。この温かいどら焼きを冷めるまで置いておくなんてことは絶対にできない。

f:id:oshirigenki:20161016100307j:plain
買ったらすぐに食べちゃいましょう

会社に戻る道をゆっくりと歩きながら、どら焼きを食べた。大きめの小豆と、さっぱりと上品なあんこ、ふかふかの皮。お行儀は良くないけれど、美味しいものは1番美味しい瞬間に食べたいでしょう。

でも、ここは会社へと向かう道である。いつ会社の人に会ってしまうか分からない。しかし、そう思うと、そのスリルがスパイスになってますます美味しく感じられてしまうのだ。今も上野に行ったときには必ず食べるのだけれど、やっぱりちょっと何かが物足りない。すっかり、どら焼きにスリルを求める体質になってしまった。

■サボれなくなってしまった

f:id:SUUMO:20161118190945j:plain
当時実際に食べていたお弁当の写真。料理する気力もなくなって、毎日こういうものをモソモソ食べていた

そんな密かな楽しみを見つけたのもつかの間、しばらくすると、業務時間中の外出が全くできなくなってしまった。安月給だけど、暇なことが取り柄の会社は、安月給であることは変わらないままものすごく忙しくなってしまったのだ。

取り扱っていたとある商品がテレビで紹介され、爆発的な人気を呼んだのだった。毎日問い合わせの電話が絶えず、電話は鳴りっぱなし。小売りもやっていたのだが、注文が殺到して商品が足りず、その処理と謝罪に追われた。商品を待っているお客さんたちからは、毎日のようにまだか、まだか、と怒られた。

私は会社の業績などどうでもよかったので、ただただこの商品が憎たらしく感じた。「そんなにほしいのか!そんなにほしいのかこれがっ!」と、つぶやきながら、手元にある商品サンプルをこっそり殴ったこともある。

待っている人が沢山いるので、何度も製造元をせかさなければいけなかった。それはすごく嫌な仕事だったけれど、やれと言われたらやるしかなかった。その甲斐あってか、ある日、やっと商品が入荷したのだが、そのほとんどが不良品だった。急いでつくったからこうなってしまったのだろう。これまで以上にお客さんから怒られたのは、言うまでもない。謝りながら、あの退屈で単調な日々を懐かしく思った。

■抱きしめて、厚焼きホットケーキ

f:id:oshirigenki:20161016100323j:plain
スタイリッシュな雰囲気だけれど、中では優しいホットケーキが待っている

なんとか年内の作業を終え、心身共に疲れ果てた年内の最終営業日。皆と「よいお年を」と言い合った後、わたしは1人で「自家焙煎珈琲 みじんこ」へ行った。ここは、湯島で大人気のカフェである。

できたばかりのころに、1度訪れたことがある。黒を基調とした内装の、大人っぽいお店だ。そのとき頼んだのはキリッとした苦みの強いコーヒーで、私にはちょっぴり早い味だったのだけれど、大人っぽく振る舞いたくて、平気なふりをして飲んだのだ。

でも今日は、大人を気取りに来たのではない。うんと分厚くて甘いホットケーキに抱きしめてもらいに来たのだ。

f:id:oshirigenki:20161016110128j:plain

店頭の看板にもある「厚焼きホットケーキ」は、この店の人気メニューである。温かい紅茶とホットケーキを頼んだら、目を閉じてしばらく待つ。思い出すのは、もちろんあの辛かった日々である。怒っていたお客さん、いつも泣きそうな声で電話をしてくる製造元の人、その板挟みになっていた自分。怒られるのにも怒るのにも疲れて、会社のお手洗いで泣いたこともあった。けれど、ホットケーキが焼ける甘い香りに包まれていると、全部忘れられそうな気がした。

f:id:oshirigenki:20161016100404j:plain
おふとんみたいに分厚い

運ばれてきたふかふかのホットケーキはシンプルで、とても優しい味だった。しみ込んだシロップが口の中でじゅわっと出てくる。疲れ切った心に、泣き出しそうなくらいその甘さが沁みた。遠足のおにぎりや土曜日の焼きそばと並んで、私にとって忘れられない味である。

事務員をしていた7年間、色んなことを、湯島の街が受け止めてくれたと思う。オフィスから逃げだしたいときに、湯島の穏やかな空気がいつも私をリラックスさせてくれた。会社を辞め、新しい道へと進んだ今も、時々あの優しい街のことを思い出す。

会社は楽しくなかったけれど、湯島は私にとっていつまでも忘れられない大好きな場所になった。この先の人生も、辛いことがあるかもしれない。そのときは思い切って、湯島に引越してみようかな。

賃貸|マンション(新築マンション中古マンション)|新築一戸建て|中古一戸建て|土地

著者:おしり元気

おしり元気

歯科衛生士の学校に行っています。その様子をブログに書いています。出先でまんじゅうやアイスを食べるのが好き。

ブログ:http://oshirigenki.hatenablog.com/Twitter:@oshiri_genki