猫も人も住みやすい、谷間の町〜商店街を中心に栄える戸越銀座〜

著: 皆川典久(東京スリバチ学会 会長)

谷間の町を歩くのが好きだ。

坂を下りると隠れ里のような町と出会えることがある。

谷に抱かれたような、意外性のある特別な場所。

周辺とは空気感の異なる魅惑の「谷町」(と私は呼んでいる)。

東京は、そういった町が点在する摩訶不思議な大都会だ。しかし「そんな町、どこにあるの?」と疑問を抱く人も多いと思う。今回はひとつの事例として、自分も大好きな品川区の戸越銀座を紹介したい。

商店街を歩く「ウキウキ感」は坂の効果?

最近は「食べ歩きの町」や「下町グルメロケの聖地」としてメディアで紹介されることが多い戸越銀座は、まさに谷間の町だ。まずは戸越銀座周辺の地形図を見てほしい。東西に細長い谷地形に沿って続いているのは、戸越銀座商店街だ。

カシミール3Dで作成した戸越銀座周辺の段彩地形図*1

戸越銀座という町を語るとき、戸越銀座商店街の存在は避けて通れない。最寄駅である東急池上線の戸越銀座駅、あるいは都営浅草線の戸越駅で下車し、戸越銀座商店街を東に向かって歩く場合、傾斜した谷筋をゆっくりと下ることになる。駅を出て、商店街を歩くときに足取りが軽やかになるのは、商店街に誘われるウキウキ気分もあるけど、物理的に下り坂を下りているからに過ぎない。

そして戸越銀座商店街は全長約1.3kmのまっすぐな商店街で、関東有数の長さを誇っている。

どこまでもまっすぐな戸越銀座商店街

直線状の商店街の道筋がほぼ谷の底なので、交差点で左右を見てみると、どちらも上り坂になっていることが分かると思う。坂の上は商店街とは対照的な静かな住宅地。地元の人が戸越銀座商店街に行くときは、坂を下りれば済むわけだ。家路につくときは、逆に上り坂となる。

かつては水田が広がる、のどかな農村地帯だった

商店街ができる前、この谷筋には川が流れ、坂下一帯は実り豊かな水田だった。明治の地図を見てみると、水田の広がる谷間を見下ろすように、戸越村の集落が点在していた様子が分かる。

農研機構農業環境変動研究センターの迅速測図を元に、カシミール3Dで作成した明治20年ごろの戸越銀座周辺

のどかな農村地帯が商店街に変わったのは、関東大震災後だった。被災した都心から、多くの人が被害が軽微だった郊外へ移り住んだ。爆発的な人口増加に伴い、水田だった土地を整地し、川を暗渠*2(あんきょ)化して新しい商店街がつくられた。

しかし、かつては水田が広がっていた水の豊かな土地。道路をつくる際、水はけの悪さに苦労したらしい。そんな悩みを抱えていたところ「関東大震災で被災した銀座で、壊れたレンガ造りの建物のガレキ処分に困っている」という話が聞こえてきた。商店街の人々は、早速このレンガのガレキを譲り受け、リヤカーで往復してこの地に運び、道路の整備に活用した。そんな町を挙げての一大イベントをきっかけに、商店街の名にも「銀座」を譲り受けた、というわけだ。

「銀座」と名のつく商店街は都内にたくさんあるし、全国でも300を超えるといわれる。「銀座」の名はご当地商店街の代名詞になっているが、「戸越銀座」こそ元祖、本家からその名を譲り受けた由緒正しい商店街だ。

町を彩る個性的な商店街

ウンチクはこのくらいにして、戸越銀座商店街を実際に歩いてみよう。老舗やチェーン店、最近オープンしたと思われる店など、約400もの個性的な店が軒を連ね、ぶらぶら歩きが楽しめる商店街が延々と続いている。大きなスーパーは少なく、個人商店が多いので、通りに面したお店を眺めるだけでも楽しい。ベビーカーを押す主婦や、手をつないで仲良く歩く老夫婦など、みんな自分のペースで通りを歩いている。

時おり車が入ってはくるけど「人」優先を心得ているようで、遠慮がちにゆっくりと通り過ぎてゆく。店先に並べられたテーブルでは、店で買った唐揚げや焼き鳥を食べている人たちもいる。交差点で左右の坂道を眺め、谷にいることを実感していると、のんびりと坂を上ってゆく猫ちゃんがこちらを振り返った。どこからともなくカレーの香りや蚊取り線香の匂いが漂ってくる。

坂を上る猫

懐かしい金物屋さんや履物屋さんが現役で営業している。リサイクルショップやマッサージ店などが多い気がする。リサイクルショップが多いのは、銀座のレンガを再利用した町の歴史が引き継がれているみたいで面白い。

こだわりのオーナーが始めた珈琲屋さん、素材にこだわったお総菜屋さん、おしゃれなベーカリーなどもあり、女性や一人暮らしの人たちにも人気がありそうだ。店先には「戸越銀次郎」と呼ばれている町のマスコットキャラクターが、所々でこちらを見ている。元気いっぱいで無邪気な笑顔に一瞬戸惑う。よく見ると、手に持つアイテムがお店によって違うようだ。なんか微笑ましい。

町に彩を添える「戸越銀次郎」、通称「銀ちゃん」

焼鳥屋さんの前のテーブルでは、仕事帰りの会社員らしき人たちが、まだ明るいのにビール片手に盛り上がっていた。商店街を進んでゆくと、プラモデル専門店があることに驚いた。店の中をのぞいてみると、1/700スケールの艦船プラモデル「ウォーターラインシリーズ」の箱が積まれている。高校生のころ、受験勉強もせずに、日本帝国海軍の戦艦や航空母艦・巡洋艦をつくり続けていたことを思い出した。捨てられずに故郷の実家に置いてきた自慢の軍艦たちは、今も健在なのだろうか?

夕暮れ時の戸越銀座商店街

懐かしい気分に浸り、先ほど見かけた焼鳥屋さんに入ってみた。中ジョッキとねぎまを注文する。焼きたての鶏肉はジューシーでアツアツ、炭火で焼いたネギの香りが食欲をそそる。

ビールで喉を潤し、縁日のようににぎわう町並みをぼんやり眺めながら、大好きだったプラモデルづくりのことを思い出す。勉強部屋にこもりながら、よくも飽きずに大量の軍艦類を組み立てたものだ。あの情熱を勉学に注ぎ込んだら人生が変わっていたかもしれないな。金剛型戦艦の両舷にずらりと並んだ副砲の仰角をカスタマイズしたり、航空母艦の高射砲の砲身を熱で伸ばしたランナーでつくり直したり。

でも長い時間を費やして完成させた自慢の連合艦隊を、友達はあまり喜んではくれなかった。こだわりの部位にも全く気づいてくれなかった。しょせんは個人的な趣味に、誰もが共感してくれるとは限らないのだ。となりで盛り上がっている会社員たちも、上司の悪口を言い合っているだけだった。長居するのも野暮だと思い、席を立とうとしたところ、通りかかった長身の女性に声をかけられた。

「あれ、会長じゃないですか。お久しぶりです。でもどうしてここにいるんですか?」

「ここが谷だからさ」

意表を突かれたように、その女性は大きな瞳でこちらを見ている。そうそう、自分が主催したマニアックな町歩きイベントに何度か参加してくれた女性だ。会うのは5年ぶりくらいかな。数年前に結婚をしたのはSNSで知っていたけど、言葉をつなげてみた。

「これから食事に行くのだけど、一緒にどう?」

住みやすい谷間の町は、猫をよく見かける

夜の帳(とばり)が下りた商店街をちょっとだけ歩き、目に留まった中華料理屋さんに入ってみた。

家族連れや一人で食事をする人、円卓を囲んでの宴会など、ほぼ満席のお店はとてもにぎやかだった。中華料理が小皿でオーダーができるので、いろいろな料理が楽しめるのもうれしかった。地元では有名なお店らしい。2人でも、たくさんの皿がテーブルを彩り、宴会みたいで何か楽しい。

中華料理を囲んで

彼女は、結婚をしてからここ戸越銀座に越してきたとのこと。商店街を東に行ったマンションに住んでいるらしい。戸越公園から流れ出た支流との合流地点辺りかな、と地形図を頭に思い浮かべてしまうのは、いつもの悪いクセだ。

「猫と暮らせるユニークな賃貸マンションがある、ということで戸越銀座に引越してきたんです。猫専用の小さな扉が部屋についていたり、猫が爪を壁で研いでも壁紙が張り替えられたりと、いろいろと気の利いた建物なんですよ」

そういえば戸越銀座では猫をたびたび見かけたことを思い出す。猫は居心地のよい谷間に多いのだ。

「部屋の中には、猫が自由に飛びまわることのできる棚がたくさんついているんです」

と、ユニークな部屋の写真を見せてくれた。確かに猫がジャンプしたり走り回ったりするには、いい仕掛けかもしれない。部屋の中を自由に飛びまわる猫を想像したら、容赦ない猫によって、自分が精魂込めてつくり上げた1/700ウォーターラインシリーズの艦船群が無残に破壊されるシーンを思い浮かべてしまった。何よりも大切な空母4隻からなる自慢の機動部隊が、猫パンチによって、いとも簡単に壊滅的打撃を被る悪夢が脳裏をよぎる。甲板で出撃命令を待つ、丹精込めて塗装した艦載機も全滅だ。

自分が暗い顔をしたからだろうか。彼女が明るい声で話しかけてきた。

「戸越銀次郎って、猫がモデルなんですよ!」

「へぇー」

「ネコ目ネコ科の野良猫で学名はホシネコです!」

「ふぅーん。虎かと思ったよ。頭に柄があるし、黄色いし」

商店街のキャラが虎では無理があるよな、と思いつつ「谷間のキャラが猫」という発想に納得した。

戸越銀座に限らず、谷間にある町では猫をよく見かける。道路がさほど広くはなく、車も入りにくい狭い路地や街路は猫にとって居心地のよい場所に違いない。そして谷間にある商店街の多くは、猫に限らず人にとっても歩いて楽しめる優しさがある。丘の上の住宅地とセットになって、隠れ里のような谷町のいくつかが昭和の雰囲気を残し今でも健在だ。それは自分が谷間の町を巡り続ける理由のひとつでもある。戸越銀座はその典型的な町なのだ。

でも惹かれる理由はノスタルジーだけでは語れない、住みたくなる町の本質的な条件がそこにあると思う。

歩きながらのんびりと時間を過ごせる町。

一人でも自分の居場所が見つけられる町。

過去の記憶が折り重なり、歴史が継承されている町。

そして、住民みんなに愛されている町。

戸越銀座って、それらの多くが当てはまるように思う。そして東京の場合、「谷間」という地形条件とも重なっている場合が多いのだ。

「さっきから何を考えているんですか?」

「あっ、谷間のことを……」

と言いかけ、彼女の胸元を見ないよう中華料理に視線を落とした。


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著者:皆川典久(東京スリバチ学会 会長)

皆川典久

上州の田舎町から憧れの東京に就職で上京し、「東京人」にバカにされないようにと歩き回っていたら、都心には谷間や窪地が多いことに気づく。自分にとっては不思議に思えた谷間や窪地をその第一印象から「スリバチ」と勝手に名付け、東京スリバチ学会を設立したのが2003年。以来、地形好きな変人たちを誘ってフィールドワークと記録を続けている。
2012年に『凹凸を楽しむ東京「スリバチ」地形散歩』(洋泉社)を上梓。自分と同類の地形マニアが意外にも多いことに勇気づけられ現在に至る。合言葉は「下を向いて歩こう」。

編集:はてな編集部

*1:この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の基盤地図情報及び電子地形図(タイル)を使用した(承認番号 平29情使、 第330号)。

*2:水路を地下に設けたり、水路の上部を覆ったりすること