ちょうどよくて温かい街。東京での暮らしが始まった「高島平」

著: タナカユウキ 

「高島平」。この街から僕の東京での暮らしが始まった。

東京で過ごした20歳から28歳までの8年間、僕はふたつの街で過ごした。そのうちの前半の4年間を過ごしたのが高島平だ。今回この街について書きたいと思う。

20歳で地元の高専を卒業し、僕は就職のために上京した。20年のあいだ親のもとを離れることなく、ぬくぬくと過ごしてきた僕はただ「自立せねば」というよく分からない焦りに突き動かされて、「とにかく東京で働かせてくれる会社」という条件だけで就活をはじめた。

なぜ東京だったのか。

実家のある岐阜県には何もないわけではないが、その当時好んで読んでいた雑誌「東京グラフィティ」から、僕は異常なほど東京に憧れをもっていた。

「東京には、こんな面白そうな人たちがいるのか」

「東京の人たちは、こんな文化を生んでいるのか」

そんなことを思いながら、就職か大学への編入という進路を考えたときに、焦りから生じた「自立」への想いは「東京で働くこと」を僕に選ばせた。

そうして就職先が決まった。働く場所はもちろん、東京。なぜ「高島平」に住むことになったのかというと、その会社の社員寮がその街にあったからだ。

聞きなれない街の名前であったが、東京に行けるのだという事実だけで、僕はもうすっかり満足していた。正直なところ、初めて高島平を訪れたときには「ここは自分の思っていた東京と違う」と感じたが、今思えばそのときに感じた自分のなかの東京とのギャップが、結果的にこの街を好きになる理由のひとつだった。

高島平という街には都会の喧騒を忘れさせてくれる、背伸びをしていないような良さがある。特に夕暮れどきに見られる胸を打つ風景や、お腹も心も満たしてくれる大好きなお店もそろっている。そんな環境に約4年のあいだ身を置いて、僕は東京での生活を満喫した。ここで出会った大切なひとたちを含めて、高島平という街には今の僕をかたちづくる土台がある。

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高島平というと団地を想像される方も多いかもしれないが、僕が住んでいたのは駅の北側。どちらかというと団地が密集しているエリアとは、反対方向だった。

高島平駅を通る路線は、都営三田線ただひとつであるが、時間帯によっては何本かに一本が高島平駅始発となる。これにより、朝は常に快適に出勤することができていた。山手線沿いの巣鴨駅までは約20分、白金高輪や目黒方面へ向かう車両に乗れば、高島平から目黒までそのまま行けてしまうという便利さも魅力的な駅だ。

もちろん駅の魅力はその便利さだけではなく、駅から眺めることのできる景色についても僕は好きだった。改札を出て、街に出るときに何度も見て通ったこの道は、朝には多くの人が一方向に歩き、夕方には良い光が差し込んでくる。階段を数段のぼった先にある駅のコンコースから、こうやって道を見下ろすのが好きだった。

左手にある八百屋には日中、この街の人たちが買い物と会話を楽しみに訪れていて、その上階にある居酒屋は夜遅くまで、適度なにぎわいを駅前にもたらし、帰宅が遅くなってしまった日にも安心感を与えてくれた。道沿いにはコンビニや薬局、美容院など生活に必要な機能がひととおりそろっており、心だけでなく、日々の暮らしのよりどころにもなっていた。

この道を進んで10分ほど歩いた先に、僕がかつて住んでいた寮があった。「あった」という表現であるのは、今はもう建物の用途が変わってしまい、社員寮ではなくなってしまっているからだ。

もう寮としての建物はそこにないが、思い出はある。

僕の数少ない親友といえる、会社の同期と部屋で語り合った夜。
食堂の自販機で先輩におごってもらった、缶ビールの美味しさ。
同期たちと共同浴場で3時間ひたすら「しりとらず」(通常のしりとりとは異なり、全くしりとっていない言葉つなぎをお互いに肯定しながら延々と繰り返す遊び)をするというクレイジーな夜。

ここで生まれたくだらなくて愛おしい思い出たちは、今もなおこの街に残っている。 

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寮の裏手には、荒川の河川敷が広がっている。東京にきたばかりの僕は「そうか、これがあの金八先生が歩いていた河川敷に続いているのか」と、えらく感動したものだった。夕暮れどきの表情がとても好きで、休日には特別な理由もなく、何度も足を運んだ。

土手沿いの道では、多くの人が走り、たくさんの自転車が行き交う。河川敷の草むらでは、キャッチボールをする親子や、楽器の練習に励む方がいたりと、見ていて飽きない。目と鼻の先で、こういった情景に触れられる素晴らしさが「高島平」にはある。

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荒川を挟んだその先は、埼玉県だ。高島平に住んだことがきっかけで、埼玉の街にも出かけるようになった。高島平からバスで少し行ったところにある浮間舟渡という駅からは特に、埼玉の主要な街へアクセスがしやすい。そのおかげで僕は埼玉の大宮や、埼玉ではないが近くの赤羽にもたくさんの良い居場所を見つけた。

なんとなく自分の肌に合う埼玉の街とも近い「高島平」。都心にもつながりやすい場所でありながら、埼玉の良さにも触れられるという距離感が僕に合っていたのかもしれない。

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高島平駅と荒川河川敷の間には、大きなガスタンクがある。会社に出勤するとき、寮に帰宅するとき、何度となくこの道を通ってはこの光景を眺めた。

仕事でどうしても納得のいかない理不尽なことがあった夜、ひとり泣きながら「今これが爆発して日本が滅びてしまえばいいのに」と想いをぶつけたのも、このガスタンクだった。

住んでいた期間を考えると、この道を往復しながら2000回を超えるほど、このガスタンクを見ていたことになる。そんな歩みのなかで僕はたくさんのことを思い、それが今の糧になっている。

「高島平」がロケ地となっていた映画を同期と2人で観ていたとき、このガスタンクが映り込んだときには愛おしさすら感じた。そんなガスタンク。

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駅前には大好きな店がふたつある。

ひとつめは「珍来」という中華料理屋だ。同期のあいだで「信じられないほど癖になる」と言われていたこのお店には、本当に一度食べればやみつきになってしまう不思議な魔力がある。

会社の寮では晩ご飯が用意される。今思えば心苦しいが、その晩ご飯を無駄にしながらも「珍来」に足を運んでしまった夜もあった。

いつも頼んでいたのは、担々麺と角煮丼のセット。これまた申し訳ない話だが、自分には量が多くて毎回少し残してしまいつつ、でもどうしてもこの2つを一緒に食べたくて、ついつい注文してしまっていた。

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ふたつめは「キッチンたかしま」という洋食屋だ。僕がこの街に住み始めて、2年ほどしたときにこのお店がオープンした。目を引くオレンジの看板が特徴的で、オープンしてからそれほど時間を置くことなく、近所の人たちに愛されるお店になっていたように思う。

ひとりでも、会社の同期とでも毎週のように通っていたその洋食屋には、実家での幸せなご飯を思わせるような優しさがあった。シンプルなオムライスやハンバーグには派手さはないけれど、ついつい通ってしまう不思議な魅力があった。

「普通のメニューが普通に全部美味しい店って貴重だよね」とこのお店のことをよく話していた。たぶんその理由は、盛り付けや味付けに実は細かいひと手間が加えられていることだと思う。普通のものが全て、普通に美味しいというのは、意外と難しい。

この文章を書くために、僕は本当に久しぶりに「キッチンたかしま」へ足を運んだ。豚の生姜焼きの美味しさも、販売元を調べるほど好みだったオレンジジュースの味も、あのときのままだった。

当時は毎週のように通っていたけど、不思議と会話は生まれなかったマスターから「久しぶりだよね、元気?」と声をかけてもらった。あの時もっとお話ししていれば良かった、そう思った。

この街に4年間住んだのち、僕は大切な人との出会いがきっかけで、高島平と同じほど好きな街に引越すことになる。高島平を出る前日にも「キッチンたかしま」で晩ご飯を食べたのだが、せめてその時にでも声をかけていれば良かったと思った。

久しぶりに訪れた高島平には、あの時と変わらない風景も、大好きなお店も、そしてこの街で生まれた思い出も、全てが優しく残っていた。

 

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著者:タナカユウキ (id:tanakarchi

タナカユウキ

1988年生まれ。おなかの弱い一級建築士。建築写真家、ライター。好きなことは、小さな居酒屋で好きな人たちと語り合うこと。2016年12月からしばらくの間、アイルランドのダブリンという街に住んでいます。

ブログ:http://www.archietc.com Twitter:http://twitter.com/y_tanakarchi