何者にもなれない僕が「荻窪」にいた

著: カツセマサヒコ

東京と千葉を結ぶJR中央・総武線は、中野~吉祥寺間でカルチャー色が強くなり、そうした空気に憧れる若者もまた、多く住んでいる。当時の僕も、そのうちのひとりだった。

「中野ブロードウェイ」をランドマークに展開されるサブカルタウン・中野。

“東京のインド”と呼ぶ人もいたディープな街・高円寺。

アニメ制作会社やミニシアター、ギャラリーなどが点在する阿佐ヶ谷。

個性的かつ味も確かな個人飲食店が並ぶ西荻窪。

ジブリ美術館をはじめアニメーションの聖地として知られる吉祥寺・三鷹。

いずれもいい意味でアクが強く、独特の空気と、ゆったりとした時間が流れている。その空気を吸って暮らせばそのうち自分も何者かになれるのではないかと、多くの若者同様に、当時の僕も錯覚していた。

僕は、東京都杉並区にうまれた。

実家から中央・総武線と東京メトロ丸ノ内線が走る「荻窪」までは自転車でも行ける距離で、幼少期はよく駅直結のショッピングセンター「荻窪タウンセブン」の屋上で遊んだものだった。

 

印象深かった思い出もある。まだ6歳かそこらのころ、学校が休みだった土曜の午前中に、寝室で母が泣いていた。子どもの前では滅多に弱さを見せない母が流す涙は、兄と僕をひどく動揺させた。専業主婦でいつも家にいた母は、僕ら兄弟にとっての精神的な支えであり、その人が泣いていることは、一家全体の危機を意味しているようにも思えたのだった。

どうなることかと思ったが、午後になると母はいつもの調子を取り戻し、いつもどおりの味がする炒飯をいつもどおり僕らに食べさせると、車で荻窪まで連れ出してくれた。

荻窪駅からすぐのボウリング場「荻窪ボウル」に着くと、3人で2ゲーム、子どもたちだけでもう1ゲーム遊び、その間、母はいつもよりたくさん笑った。ボウリングを終えると、今はもうなくなってしまったおもちゃ屋に寄って、兄と僕にひとつずつプラモデルを買ってくれた。

帰りの車で箱を開けてもこの日だけは怒られず、僕と兄はただただはしゃぎ、カーステレオから流れるとんねるずの『ガラガラヘビがやってくる』を、大声で歌って帰った。

あのとき母が涙を流していた理由は、未だによく分からない。ただ、当時の母は、僕らの笑顔で悲しみを乗り越えたかったのだと、今はなんとなく思える。

成人式も、荻窪だった。

駅から徒歩5分ほどのところにある「杉並公会堂」が、成人式会場だった。この年のゲストはブラザートムで、今考えると人選もどこかサブカルの匂いを感じさせた。式が終わるとかつての旧友と吉祥寺まで繰り出し、朝まで飲み明かした。

こうして幼少期から成人式まで、僕の人生には「荻窪」という地名が要所要所で登場した。

そんな思い入れがある荻窪への引越しを決めたのは、2010年1月。社会人になって1年が経とうとしていた、23歳の冬のことだ。

荻窪を選んだのは、当時勤めていたオフィスが総武線沿いにあり、会社の同期も三鷹、西荻窪、高円寺あたりに住み始めた時期でもあったし、当時、浅野いにおの漫画『ソラニン』にハマっていたため、サブカル色の強い街に住みたいと安易に考えていたからだ。

それこそ浅野いにおが『ソラニン』の歌詞で書いたように「たとえばゆるい幸せがだらっと続」くような場所に憧れたのは、ミーハーな僕からすれば至極当然な流れだったのである。(『ソラニン』が多摩川沿いを舞台にしているのは知っていたけれども)

「25になるまでには、家を出ること」という家訓を守るため、また「今日は夕飯いるの?」という母のセリフにいい加減うんざりしていた僕は、新卒で入った会社でコツコツと貯金し、100万円が貯まったタイミングで、ひとり暮らしを始めたのだった。

選んだ物件は、不動産屋と粘りに粘って決めた、新築1K、9.5畳で7万4,000円(共益費込み)。広さと新しさに加えて、駅まで徒歩6分という好立地まで兼ね備えたところだったが、天沼陸橋の真下に位置しており、1階で日当たりは悪く、朝早くから電車の走る音が聞こえ、夜中も青梅街道を走る車の音が絶えない場所だった。しかし、当時の僕にとっては、それがどこか都会らしさを感じさせ、むしろ心地よかった。

引越しをあらかた済ませて、実家から最後の荷物を運び出すとき、母に車で送ってもらった。

当時、親戚にちょっとしたトラブルが続いて疲れていた母は、それでも笑顔だけは絶やさず僕らに接し続けた。きっとそのスタンスは僕が幼少期のころから変わっていない。ただ、23歳にもなると、親といえどひとりの人間であることはとうに気付いているころで、どう見ても無理をしていたその人に、何か声をかけたくもなるものだった。

「大丈夫?」
「え、何が?」
「いろいろ」
「いろいろ?」
「うん、いろいろ」

母は「へんなの」と言って、いつもの笑顔で答えた。

家の近くに車を停めて荷物を降ろし、別れを告げる。まだ新築特有の匂いが残った新居で一息ついたところで、メールが届く。

「あの後、少し車で泣きました。ありがとう」

ガラケーの画面に映る絵文字も顔文字もないメールを見て、僕も少しだけ泣いた。引越しを決めたとき「『25までに出て行け』とは言ったけど、何も23で出て行くことはないのよ」と笑いながら言った母の顔を思い出していた。「まだ教えたいことはいろいろあったんだけどな」ともの寂しげに言う母の顔を、思い出していた。

こうして、人生初めてのひとり暮らしが始まった。

買いそろえたのは、実家には置けなかった大きめのスピーカーと、4〜5人は友人がきても問題ないように買ったソファと、パーティーゲームばかりそろえたWiiおよびコントローラ4つ。仕事には全く使わないけれどなんとなく欲しかったMacBook Airと、真っ赤なデスク、芝生のように見える緑のラグ。いずれも、自分の好みだけを判断基準に購入したものだった。

「ここが、俺の城だ」。自由を手にしたばかりの23歳の僕は、IKEAで買った一番安いベッドに体を沈ませながら、これまたIKEAで買ったオシャレに見える照明をまぶしそうに見つめ、ヴィレッジヴァンガードで買ったJ-POPをボサノヴァ風にアレンジしたCDを聴いて、悦に入っていたのだった。

自分の好きな時間に起きて、好きな時間に風呂に入り、好きなモノを、好きなだけ、好きなときに食べられる。好きな時間に飲みに行き、好きな時間に帰ってきては、好きな時間に遊びにくる彼女と好きな時間にベッドに潜る。実家では得られない魅力のすべてを堪能すると同時に、放置しておくとどんどん溜まっていく洗濯物と食器類に、実家の有難さを痛感していた。

住んで1カ月もしないうちに分かったのは、「荻窪はそこまでカルチャー色が強い街ではない」ということだった。

明治時代に「杉並区で最も古い駅」として誕生し、かつて文化人も多く住んでいたらしいこの街は、現在は駅前に「荻窪タウンセブン」と「西友」というファミリー色全開の大型物件を構え「ラーメンとカレーの激戦区」として名を馳せている。スープのダシと歴史だけがただ深く、カルチャーとしての深さはさほど感じられない。そんな街だった。

しかし、住んでみてから気付く良さもいくつもあった。西友に併設された無印良品は都内でも珍しい24時間営業で、日付をまたいでから彼女と日用品を買いに行き、今はなくなった深夜までやっているラーメン店でぬるい瓶ビールを飲み、そのままカラオケ店「コート・ダジュール」で朝まで歌い、夜が明けるころに帰ってきてはダラダラとセックスをするような土曜を過ごした。

翌日は昼過ぎまで寝て、起きたらサンダルのまま散歩に出かけた。住宅街に突如として現れる「カフェ ストラーダ」でフレンチトーストを食べ、書店や大田黒公園などを散策することが多かった。商店街を抜けた小道にひっそりとたたずむハンバーガーショップ「ヴィレッジヴァンガード ダイナー 荻窪」は店員さんの脱力感が気に入って一日に二度訪れたこともあったし、荻窪の代名詞であるラーメン店「春木屋」でわんたん麺を待っている時間こそが幸福だった。どうしてもオムライスが食べたくて探し歩いた洋食屋「ブルーベル」を見つけたときは彼女とふたりで心底喜びあったし、まさに「だらっと続くゆるい幸せ」を、貪るように食い漁っていたのである。

サブカルチャーに憧れるものの、浸れるほどの知見と度胸はなく、優雅な暮らしをしたくとも金とセンスがない僕らにとって、荻窪は丁度良すぎるほど、丁度良い街だった。

そんな街を出ることになったのは、天沼陸橋の下の家に住んで丸2年が経ち、25歳になったころだった。まだ若く、未熟で、浅はかだった僕と彼女は、隣駅の西荻窪の居酒屋でなんとなく結婚の話をして、お互い同意に至った。彼女の職場は神奈川の方にあり、通勤を考えると荻窪に住むのは難しく、引越さなければならないという結論にも落ち着いた。

西荻窪のオシャレな居酒屋を出ると、総武線に一駅ぶん乗り、家族連れがあふれるオシャレじゃない荻窪に戻った。天沼陸橋を下って細い住宅街を抜け、薄暗い僕の部屋に帰ると、アパートの管理会社の連絡先を探して、退去する旨を伝えた。

そこで、ひとつの青春が終わった。ローンや保険、育児や介護という強敵たちと戦う「オトナ」になる時期が近づいてくることを、僕らはなんとなく悟ったのだった。

天沼陸橋の下に住む僕らが眺める空は、住宅に遮られてとても狭く、手を伸ばしても届かないことを日々実感するほど高かった。それでも、陽の光はときにまぶしく降り注ぎ、僕らは目を細めて日中を過ごした。

「こんな時間が、いつまでも続けばいいのになあ」
「会社やめたいなあ」
「明日めんどくさいなあ」
「将来どうすっかなあ」

『ソラニン』の主人公であり、当時の僕と同世代である種田や芽衣子も、社会人2〜3年目という最高にモヤモヤする時期の休日を、こんな気分で過ごしていたのかもしれない。

何者でもなかった僕は、7年が経ち、30歳になり、親になった。それでも、未だにあの作品を目にするたび、僕は荻窪という街と、あのボサノヴァのCDがかかった薄暗い部屋の暮らしを思い出す。

 

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著者:カツセマサヒコ (id:katsuse_m)

カツセマサヒコ

下北沢のライター・編集者。書く・話す・企画することを中心に活動中。
趣味はツイッターとスマホの充電。

Twitter:@katsuse_m

編集:はてな編集部