ショートショートという短くて不思議な小説を専門に書く「ショートショート作家」を名乗り活動している。職業柄か、取材などをしていただく際、作家としてのルーツはどこにあるかと聞かれることがある。そういうとき、ぼくはこう即答する。自分のルーツは故郷・愛媛県にある、と。もっというと、松山市にある海の町・三津(みつ)にある、と。
両親が共働きだったぼくは、小さいころ、祖父母の仕事場に預けられることが多かった。自営業で船の造船関係の仕事をしていた祖父母の仕事場があったのが、三津という町だった。
三津はかつて主に漁業で栄えた漁師町だ。ぼくが育った20年以上前の三津もまた、その面影をまだまだ残した場所だった。
よく、リヤカーを引いた魚屋の老婆が回ってきていた。ぼくはリヤカーを見つけると駆け寄って、覗きこむのが好きだった。ぎっしり氷の詰められた白い発泡スチロールには、アジやサバ、タチウオやハギが所せましと並べられていた。祖母と一緒に魚を選び、袋に入れて持ち帰る。ぼくは魚を主食に育ったようなものだ。
当時の三津の町は、最後の輝きを放っていたのかもしれないなと、いまになって思う。
漁業の衰退と共に、町からは次第ににぎわいが消えていった。漁師さんたちは減り、彼らのつくりだす活気はなくなった。住む人々も高齢化し、祖父母の知人の訃報を耳にすることが多くなった。気づけば、魚屋のリヤカーを見かけることもなくなった。
三津の商店街は、シャッター街へと変わり果てた。風紀が乱れ、商店街には割れた瓶が散見された。名物だった長いアーケードも取り払われて、往年の姿は見る影もなくなった。
そんな変わり果ててしまったあとでも、三津の町はぼくの心の中で強く強く残っていた。育ちの町を忘れられるはずもない。大学にあがり上京してからも、帰省するたびに三津へ足を運んで散歩した。記憶の中のにぎやかだった町を楽しみながらも、もうあのころに戻ることはないのだなと思うと胸が痛んだ。
ところがだ。数年くらい前だろうか、三津が息を吹き返しはじめているという話を両親から聞いた。何でも、道後温泉で有名な「道後」と並び、三津の町の復興計画が持ち上がっているのだという。そのときは、半信半疑で話を聞いた。一度廃れてしまった町が、そう簡単に再生するはずがない。企画倒れで終わるのではないか――。
しかし、それはぼくの侮りに過ぎなかったことが間もなく分かる。三津は本気だったのだ。
仕掛け人のひとりとなっているのが、「ミツハマル」という組織の人たちである。三津に残る古い建物と海の町に住みたいという人とをマッチングする場をつくったり、三津にちなんだイベントを開催したり、古い建物をリノベーションして商業施設化するなど、おもしろい企画を次々と打ち出している。
【画像:ミツハマル公式Facebookページより】
先日、ぼくは改めて三津を楽しんでみようと思い立ち、故郷に帰って久しぶりに町を訪ねてみることにした。ミツハマル作成の「三津お散歩マップ」を手に持って。
【画像:ミツハマル公式サイトより】
三津は漁師町という側面も持つ一方、昔から人々が道後温泉などのある市街地へ入るための玄関口の役割も担ってきた。かつて、あの聖徳太子も三津を経由して道後を訪れたことがあるらしい。だから三津には、当時の商人たちによって蔵などが多く建てられた。そこに七十年前、松山の中心地を焼き尽くした松山大空襲を逃れることができたという幸運も重なって、三津にはいまでも古い蔵や雰囲気のある細い路地がたくさん残っているのだ。
祖父母の仕事場を出発し町を歩きはじめると、若い団体とすれ違った。三津でこんな団体を見かけるなんて初めてのことで、町に芽生えるたしかな息吹をさっそく感じ、期待が高まる。
しばらく歩くと、道端におばちゃんが立っていた。通り過ぎようとすると、急に声を掛けられる。「どこから来たん?オモチがあるけん寄っといき!」。首を傾げつつそちらを向くと、何やらオシャレな建物が。「今日できたとこなんよ」。にこにこ笑うおばちゃんから紅白モチをもらいつつ、建物の中に入ってみる。
中にはレトロな光を放つ照明の吊り下がった、素敵な空間が広がっていた。おじさんがやってきて説明してくれる。それによると、どうやらここは築180年を超える土蔵を修復した建物で、三津めぐりの休憩所として、この日オープンしたということだった。そんな日に偶然立ち会えるなんてと感動を覚えながら、置かれてある品々を見て回る。古びた民芸品や日用生活品なども、きれいに陳列されると荘厳な雰囲気を放ちはじめる。
おじさんが再びやってきた。「これ、今日ついたオモチやけん」。見ると先ほどもらったのと同じオモチが。ぼくはすかさず「あ、さっきもらいましたので……」。おじさんは、にこにこ顔を崩さない。「ええんよ、ええんよ、持っといき!」。三津の人の温かさに直に触れるのなんて、何十年ぶりだろう。
土蔵を出ると、正面には鯛メシ専門のお店「鯛や」がある。ぼくが松山にいたときにはなかったお店で、ずっと気になっている。
ちなみに愛媛の鯛メシには2種類ある。
ひとつが南のほうの地域「南予(なんよ)」で食べられることの多い鯛メシで、これは鯛の刺身にタレをかけて食べる代物だ。
もうひとつ、この「鯛や」でも食べられる一品が、焼いた鯛で炊き込みご飯をつくる鯛メシで、ぼくの実家もこちらのタイプ。ホクホクの鯛にネギやニンジンなどの彩りも添えられて、頬張ると鯛の旨味が口中に広がる。ぼくの祖父母は造船業を営んでいたことから、贅沢にも漁師さんから鯛をいただくことが多く、母がそれをもらってきては鯛メシをつくってくれたものだった。ぼくにとって鯛メシは、母の味ともいえるかもしれない。
【画像:「鯛メシ専門・鯛や」公式サイトより】
ひと昔前まではすっかり寂れていた商店街も、いまではよみがえりの兆候を見せている。アーケードのなくなった商店街を歩いていると、中心部付近にオシャレなカフェが見つかる。「田中戸」だ。
このカフェは、ぼくも個人的に親しくさせていただいているフランス出身、三津在住の翻訳家・ウエス・ジャン=マークさんも御用達の場所らしい。マークさんとは、今年、坊っちゃん文学賞に新設された「ショートショート部門」の審査員としてもご一緒している。
以前、マークさんに、なぜ三津に住むようになったのか尋ねたことがある。すると彼はこう答えた。日本語の美しさに魅了され、日本語を追求したくて全国各地を回ってたどりついたのが、この場所なのだと。松山は俳句と文学の町でも有名だが、そこに住む人々も言葉に対する感度が高く、この場所こそ求めていたところだと、出合ってすぐに移住を決めてしまったらしい。松山の中でも三津に移り住んだのは偶然も重なってのことだったようだけれど、マークさんは、いまでは自身をフランス人ではなく「三津人」だと言い切るほどに三津を愛し、馴染んでいる。
三津でがんばっているのは、何も新しいお店に限った話ではない。昔ながらのお店も、まだまだ負けじとがんばっている。
お好み焼き屋「那須(なす)」は、そのうちのひとつ。お好み焼き屋といっても、このお店で出るものはちょっと違う。「三津浜焼き」と呼ばれる代物だ。
三津浜焼きは広島焼きに近いのだけれど、焼き方や具材に違いがある。一番異なっている点が焼き方で、生地の上に具材を乗せて後で麺に重ねるのが一般的な広島焼きに対し、三津浜焼きは生地を焼き、その上に味付けをした麺を乗せるのが特徴だ。(引用:「三津浜焼き推進プロジェクト」公式サイトより)
ぼくも昔はおやつの代わりに、この那須の三津浜焼きをよく食べさせてもらったものだった。というのが、じつは那須の女店主の旦那さんにあたる人が、祖父母の造船所の一員だったのだ。何十年も変わらず三津に店を構えつづける那須の前を通りがかると、なんだか頭が下がる思いになる。それとともに、ソースの味が口の中によみがえる。
ちなみにこの「三津浜焼き」は近年、地元の「平成船手組」という組織による「三津浜焼き推進プロジェクト」によって全国に向けて強く発信されはじめている。「ふるさと名品オブザイヤー」で入賞したり、「全国こなもんサミット」で優勝したり。いま、三津浜焼きはアツいのだ。
【画像:「三津浜焼き推進プロジェクト」公式サイトより】
三津といえば、渡し船も有名だ。渡し船は、対岸の港山という場所と三津を結ぶ約80mの区間を年中無休、無料で運航している市営の船。「市道高浜2号線」の一部として正式に登録されており、したがってこの海の道はれっきとした「市の道」なのだ。
渡し船に時刻表などは存在しない。人がやってきたときが出発時刻となるのである。もし船が対岸に停まっていたならば、手を振って合図を送ればOKだ。すると操舵室のおじさんが応えてくれて、渡し船は向きを変えてゆっくりこちらへやってくる。自転車も載せてくれる渡し船には小さな座席がついていて、そこから手を伸ばすと海面に届いてしまうほど。瀬戸内の海の穏やかさがあってこそだ。
三津生まれ、三津育ちのぼくの母は、高校に通うために、よくこの船を利用していたと聞いている。対岸にある駅に行く近道をするためだ。
母が高校生だった時代から休まず運航をつづける渡し船。それがどれほどすごいことなのか。想像するだけで呆然となる。渡し船はいまでもしっかり地元民の足の役目を果たしていて、観光客にも人気のスポットとなっている。
三津からは少し外れてしまうが、せっかくなので三津から少し足を延ばして行ける場所、高浜という町の梅津寺(ばいしんじ)のことにも触れておきたい。渡し船で海を渡り、電車で、または歩いて少し行くとたどりつく砂浜だ。駅のすぐそばが海になっているという抜群のロケーションで、何度も映画などのロケ地に使われてきた。
ぼくは昔、ショートショートのコンテストで最優秀賞をいただいたことがある。そのときに書いたのが「海酒」という作品だ。「梅」ではなく「海」という字のお酒「海酒」は、砂浜に転がるガラスのかけら「ビーチグラス」を漬けてつくられる。できた海酒を口に含むと、海の持つ豊かな記憶が頭の中に流れ込んでくるという不思議な設定になっている。
その「海酒」の舞台が、ほかでもない、三津の町だ。そして作中に登場する海のモチーフが、この梅津寺の海である。ぼくは小さいころ、祖父母にこの海へと何度も連れてきてもらっていた。ビーチグラスや貝を拾って遊んだり、砂を集めてお城をつくって遊んだり。そのときの思い出を、「海酒」という作品に閉じこめた。
その後、「海酒」は『海色の壜(びん)』という本に収録され、昨年には個人的にもお世話になっているピースの又吉直樹さん主演で短編映画化までしていただき、カンヌ国際映画祭などで上映された。
その映画「海酒」に、まさしくこの梅津寺の海が登場するのだが、ロケ地としてこの海が選ばれたのは、まったくの偶然だった。撮影に立ち会えることになり、何も知らずに松山入りをしたぼくは、撮影クルーの強い意向でこの海で撮影することが決まったと聞かされて驚愕した。彼らには、原作のモチーフにした海が梅津寺であることを伝えていなかったのだ。ぼくはこの素敵な海が、自分以外の人たちにも選ばれたことが本当にうれしく、誇りに思った。撮影の合間にクルーを三津に無理やり連れていったのは言うまでもない。
さて、どんな町でも、そこに住む地元の人というのは、たいてい自分の住む町のことを「何もない」と半ば本気で、半ば冗談で言ったりする。けれど、地元の人が明るい表情で言う「何もない」は、勉強ができる友人の「勉強してない」という言葉と同じくらい信じてはいけない。
今回のぶらり旅でも、出会った人たちから何度も「なんにもない場所やけん」というセリフを聞いた。たしかに、三津には派手な施設はないし、復興もまだまだ道半ばだろう。けれど、こんなにも濃く、味わい深い「何もない町」は、あまりないのではないだろうか。などと、そう身びいきをしたくなるほど、三津の町は、そこに住む人々は、とても素敵だ。三津は、大切な人を連れていきたくなる場所である。
ちなみに「三津」という町の名には、「海酒」以外にも形を変えて何度も拙作に登場してもらっている。もちろんそれぞれの物語はフィクションなのけれど、現実の三津に少なからずインスパイヤされている。最新刊『インスタント・ジャーニー』収録の「ポートピア」しかり、『ショートショート診療所』収録の「瞳の花火」しかり。児童書『じいちゃんの鉄工所』は、ほぼそのまま三津での思い出や、三津の祖父母とのことをもとにして書いた作品集だ。(「ポートピア」はこちらのサイトで無料公開中)
もし拙作をお手に取っていただく機会があったなら、そして「三津」という言葉と出合うことがあったなら、「あ、出てきたな」と思ってニヤニヤしてもらえればうれしい。
愛媛は遠くてなかなか行けない。そんな方にも、拙作が三津の素敵なエッセンスを体感していただくきっかけになったなら、そんなにうれしいことはない。
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著者:田丸雅智
1987年、愛媛県生まれ。東京大学工学部、同大学院工学系研究科卒。2011年、『物語のルミナリエ』(光文社文庫)に「桜」が掲載され作家デビュー。12年、樹立社ショートショートコンテストで「海酒」が最優秀賞受賞。「海酒」は、ピース・又吉直樹氏主演により短編映画化され、カンヌ国際映画祭などで上映された。15年、ショートショート大賞の立ち上げに尽力し、審査員長を務めるなど、新世代ショートショートの旗手として精力的に活動している。著書に『夢巻』『海色の壜』など多数。
公式サイト:http://masatomotamaru.com/ Twitter:http://twitter.com/star_crew