二度目の上京は、星野源さんがきっかけだった――てれびのスキマ/戸部田誠さん【上京物語】

インタビューと文章: 柴 那典

進学、就職、結婚、憧れ、変化の追求、夢の実現――。上京する理由は人それぞれで、きっとその一つ一つにドラマがあるはず。今回は、地方から東京に住まいを移した人たちにスポットライトを当てた新しいインタビュー企画「上京物語」をお届けします。

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今回「上京物語」にご登場いただくのは、戸部田誠(てれびのスキマ)さん。『タモリ学』(イースト・プレス)、『1989年のテレビっ子』(双葉社)、『笑福亭鶴瓶論』(新潮社)などテレビやお笑いに関する数々の著書を発表し雑誌やWebでも多数の連載を抱える戸部田さんがライターとして活躍しはじめるきっかけは、福島県いわき市在住の会社員時代に「てれびのスキマ」というブログを始めたことでした。

会社員として働くかたわら執筆活動を始めた戸部田さんは、2013年、ライターとして独立することを決意。そして2015年、37歳のときに東京に“二度目の”引越しをします。

星野源がきっかけだったという上京エピソードについて、今も「テレビっ子」として日夜テレビを見ている戸部田さんの住まいへのこだわりについて、そして30代後半で再び上京した彼だからこそ感じる「東京」と「地方」について、語っていただきました。

東京に進学したのは「格闘技を生で観たかった」から

――最初に東京に住み始めたのは、いつごろでしたか?

戸部田さん(以下、戸部田):大学のときです。小学校の低学年くらいから静岡県浜松市で暮らしてたんですけれど、東京の大学に入ろうと思って。もちろん親元を離れたい気持ちもあったんですけれど、そのときの一番大きな理由は格闘技でした。「パンクラス」とか「修斗」のような総合格闘技が好きで、それを生で観たかったという。

――もともと格闘技ファンだったんですね。

戸部田:はい。当時は『週刊プロレス』とか『格闘技通信』とか、そういう雑誌の編集者になりたいと思ってたんです。

――当時は東京のどのあたりに暮らしていましたか?

戸部田:調布ですね。最寄駅は布田でした。家が貧乏だったので親から「東京の大学に行かせる金はない」と言われていたんですよ。それで新聞奨学生という制度を見つけて。そうすると、住む場所は勝手に決まるんです。大学から通える範囲に適当に振り分けられて、否応なくそこに入れられるという。

――布田の暮らしではどんな記憶が残っていますか。

戸部田:今はだいぶ変わったと思いますが、当時あのあたりって、本当に何もなかったんですよ。田舎と風景が変わらない。住んでたのもほんとにボロアパートだったから、東京って感じはしなかったですね。

そこでは新聞配達をしてたことくらいしか覚えていなくて。配達区域に日活調布撮影所があったんで、「誰か俳優さんに会えるかな」と思ってワクワクしてたけれど結局卒業まで誰にも会えなかった記憶があります。

――――現在の自分につながる最初のターニングポイントは?

戸部田:結婚でしょうね。大学を出てから最初は地元の浜松で会社員をやっていたんですが、相手がいわきの人だったので、異動願を出したらそれが通って。いわきに引越したと同時に所属部署が変わって、比較的時間に余裕ができたので、ブログを本格的に書き始めたんです。

――それが「てれびのスキマ」というブログだった。

戸部田:ブログ自体を始めたのは2005年なんですけど、力を入れて書き始めたのは2007年のころですね。もともと雑誌の編集をやりたかったので、何かしら書きたいという気持ちはあったんです。格闘技でもよかったんですけれど、そのときの自分にとっては書ける対象がテレビだった。「てれびのスキマ」は、自分なりのテレビ雑誌をつくろうという感じで書いていました。

――そこからライターとしての仕事につながってくるわけですね。

戸部田:そうですね。2009年に初めて雑誌でのお仕事をいただいて。そのときはすごくうれしかったです。ただ、当時はブログを書くのは土日だけだったし、ライターとしての仕事も土日だけでやってました。平日は会社で仕事して、家に帰ってきたらテレビを見て寝るという。

――独立を意識したのはいつくらいですか?

戸部田:少しずつ連載が増えてきてたのもあるんですけれど、一番のきっかけは樋口毅宏さんの『タモリ論』(新潮社)の発売がアナウンスされたときですね。

本当に偶然なんですけど、そのときにはもう僕も『タモリ学』を書き始めていたので、本当に焦って。やっぱり土日しか書く時間がないし、連載の締め切りを優先すると本の執筆が本当に進まない。これはもう会社を辞めるしかないと思って。そのこともあって2013年に独立しました。

――その後もいわきで専業ライターとして仕事をしていた。

戸部田:そうですね。なので、生活はそんなに変わらなかったです。変わったことと言えば平日に執筆できるようになったくらいで。で、その後2015年に東京に引越しました。

二度目の上京を決めたきっかけは、星野源さんだった

――再び上京することを決意した理由は何だったんでしょうか?

戸部田:一つは経済的な理由ですね。いわきに住んでたころも、月に1回くらいはお笑いライブとかトークライブを観るために東京に来ていたんです。僕一人だと日帰りとかネットカフェに朝までいればいいんですけど、妻もお笑いが好きなので二人で東京に来るときちんとホテルに泊まったりするから結構な出費になる。そのぶんの費用を家賃に上乗せしてもあんまり生活は変わらないなと。

「だったらそのほうが仕事がやりやすいし、東京に住んでもいいんじゃないか」と思ってなんとなく物件を探し始めた。でも、一番大きなきっかけは星野源さんですね。

――星野源さんが?

戸部田:それまで僕はインタビューのお仕事は断っていたんです。表向きの理由はいわきに住んでいるからだったんですけれど、苦手意識があったし、自分の書き手のスタンスとして、フラットでいるためにも本人にインタビューしないほうがいいかもしれないと思っていました。

でも、星野源さんにインタビューをするという話が来て、「これはやろう」と。やってみたら星野さんが非常によく応えてくれて予想以上に上手くできたし、何よりやっていて楽しかった。それで、東京に引越してそういう仕事もやりたいと思うようになったんですね。

――上京してからの仕事で印象深いものにはどういうものがありますか?

戸部田:星野源さんもそうですけど、笑福亭鶴瓶さんの取材ですね。NHKの『鶴瓶の家族に乾杯』という番組のロケに密着取材をしたんです。

広島県の島に行ったんですけれど、あの番組は事前に行く場所をほとんど誰にも教えないんです。僕も直前まで知らされなかった。事前に筋書きをつくるようなことを一切しないんですね。スタッフも本当に少なくて、鶴瓶さんが全然特別扱いされることもなく狭いタクシーの中で着替えたりする。鶴瓶さんがいるだけで周りがパッと明るくなる。そういうものを間近で見て「すごいなあ」と感じたりして。

――新刊の『笑福亭鶴瓶論』の企画もそのあたりから?

戸部田:構想はずっと前からありました。『タモリ学』を書き終わって、次は鶴瓶さんがいいなと思っていたんです。常に芸能史の重要な局面で名脇役として傍らにいて、あれだけ大御所なのにあまり語られていない感じがしたので。実際に企画が通った2日後くらいにまったく別の出版社から密着取材のオファーの連絡が来た。これも鶴瓶さんとの縁だと思いました。

――『タモリ学』や『笑福亭鶴瓶論』だけでなく、戸部田さんの文章はどれも膨大な引用を元にしていますよね。これはどのようにして書いているんですか?

戸部田:まあ、特にどうってことはなくて。ひたすら集める、それだけです。テレビとかラジオの発言は常々メモしているし、本や雑誌やDVDの資料も大量にあるので。あとは国会図書館に行って昔の雑誌を読んだりもします。

――テレビはどんな風にして見ているんですか?

戸部田:基本は録画ベースですね。「SPIDER」という全録レコーダーを使っています。

東京に住んでいると、地方の人を傷つけてしまうことがある

――今住んでいる街はどこでしょうか。

戸部田:足立区の谷中です。最寄駅は北綾瀬ですね。

――典型的な一日の暮らし方は?

戸部田:朝起きて、午前中は基本的に仕事をしています。午後も仕事をして、夜はテレビを見る、そういう感じです。仕事をすると言っても、録画したテレビを見ながら原稿を書くことが多いんで、やっぱり家にいてテレビを見ている時間が一番長いですね。喫茶店とかで原稿を書く人もいると思うんですけれど、僕の場合はテレビ自体が重要な資料なので無理なんです。

――仕事部屋でテレビを見ている。

戸部田:はい。だから間取りにはこだわりました。物件の必須条件は「仕事部屋とリビングがつながっていて、そこからテレビがちゃんと見られる」でした。仕事机からリモコンで操作できる範囲にテレビがないとダメなんです。そういう間取りの家を探しました。

今住んでいるのは3LDKの部屋なんですけれど、仕事部屋とリビングがつながっていて、そのあいだに仕切りの扉がある。だから扉を閉めれば完全に隔離できて、扉を開ければテレビを見れるという。希望通りの物件だったので、即決しました。

――間取りが住まいを選ぶ決め手だった。

戸部田:そうですね。正直、エリアに関しては僕はどこでもよかったんです。雑誌や本、DVDの資料が部屋一つまるまる埋まるほどあるので、前に住んでた家と同じ広さが必要だった。そのためには郊外じゃないと家賃的に無理だったんです。引越しのときも「二人暮らしの荷物じゃない」って言われました(笑)。

――北綾瀬を選んだのは?

戸部田:妻の希望ですね。いわきからの高速バスが綾瀬に止まるので、その周辺だと交通の便がよいと妻が気に入ったので。

――実際に暮らしてみて、どうですか。

戸部田:取材がないときはずっと家にいるし、行く店もスーパーくらいですが、千代田線は何かと便利ですね。例えば赤坂にはTBSがあって、テレビ局に取材に行くときには使いやすいし、さっき言ったように国立国会図書館に行くことが多いんで、国会議事堂前駅まで一本で行けるのはいいですね。あと、地名でイジってもらいやすいというのもあって、先日、高田文夫先生からお手紙をいただいたんですが「足立区の谷中ってなんだよ」って書いてありました(笑)。

――住みやすい街でしたか?

戸部田:そうですね。足立区って言われてるほどガラ悪くないじゃん、って思いました(笑)。静かなところだし、環七が通る街なので、田舎のわりに大きいレストランやお店が多くて食事や買い物には困らないですね。

――東京という街についてはどんな印象を抱いていますか?

戸部田:よく東京って「冷たい街」と言われるじゃないですか。僕は全然そう思わないんです。受け入れてくれるというか、拒絶をせずに放っておいてくれるような感じがある。「いたけりゃいていいよ」っていう。田舎だと熱烈に受け入れてくれるけど、逆に排除するときもあるんですよ。

マツコ・デラックスさんは「東京って、病気の人は一生病気でいられる街よ」と言っていて。タモリさんは「ほとんどが地方のカケラで作られた巨大都市」と東京を定義している。そういう感じはしますね。

――戸部田さんの人生を振り返ると、大学のときに上京した理由は「格闘技のライブを生で観たかったから」で、30代後半に上京したときは、お仕事の都合もありましたが、お笑いライブが大きかった。観戦や観劇が上京する原動力になっているんですね。

戸部田:そうですね。やっぱり地方の人間には東京のエンターテインメントに対して劣等感があるんです。でも東京に出てくると、地域格差を忘れちゃう。それはダメだなと常々思っていて。

――地域格差を忘れてしまうというと、どういうことですか?

戸部田:ライブにしてもテレビにしても、東京じゃないと観れないものがたくさんある。東京の人はうっかり「愛があればお金をかけてライブに行くべきだ」とか言っちゃいがちなんですよ。でも地方の人間はなかなかライブに行けない。それはお金だけが問題ではなくて、スケジュールも含めて、大きなハードルがある。だから、たとえ「好き」のレベルが同じでも、見れるものが全然違ってきちゃう。それって地方の人を傷つけていると思うんです。

テレビもそうで、いまだに地方じゃ見られない番組があるし、遅れる放送もあったりする。それがすごくイヤだったんですけれど、東京に来ちゃうとそれを忘れちゃうことが多くて。でも、少なくとも自分自身は地方に住んでいたときに「そんなことも知らないの?」みたいな感じのことを言われて傷ついた想いがあったから。そういう目線は大事にしなきゃいけないって思っています。

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お話を伺った人:てれびのスキマ/戸部田誠 (id:LittleBoy)

てれびのスキマ/戸部田誠

テレビっ子。ライター。著書に『タモリ学』(イースト・プレス)、『1989年のテレビっ子』(双葉社)、『人生でムダなことばかり、みんなテレビに教わった』(文春文庫)など。近著に『笑福亭鶴瓶論』(新潮新書)がある。

ブログ:てれびのスキマ Twitter:@u5u

聞き手:柴 那典 (id:shiba-710)

柴 那典

1976年神奈川県生まれ。ライター、編集者。音楽ジャーナリスト。ロッキング・オン社を経て独立。雑誌、WEB、モバイルなど各方面にて編集とライティングを担当し、音楽やサブカルチャー分野を中心に幅広くインタビュー、記事執筆を手がける。

「cakes」にてダイノジ・大谷ノブ彦との対談連載「心のベストテン」、「リアルサウンド」にて「フェス文化論」、「コンフィデンス」にて「ポップミュージック未来論」連載中。著書に『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』(太田出版)がある。

ブログ:日々の音色とことば Twitter:@shiba710

編集:はてな編集部