江戸時代から連綿と続く東京の歴史。
何気なく歩いているような場所も、歴史をひもといてみれば、
かつて偉人といわれる人々が暮らしていたことがある、なんてことも珍しくない。
そんな数々のエピソードは、今、同じ場所に住む人々の財産であり、
土地を知るという意味で暮らしに潤いを与えてくれる。
そこで今回は、東京23区のなかから6区をピックアップ、
その場所を愛した歴史上の人物とそのエピソードを集めてみた。
明治の文豪・夏目漱石は、現在の新宿区喜久井町で生まれた。生家は牛込周辺を治める名主の家である。漱石が職業作家として生きていくことを決意した後、本拠に選んだのは生家に近い現在の新宿区早稲田南町の家。漱石が生まれたころの新宿・早稲田周辺は、牛込から続く住宅街の外れで農村の色合いも濃かったが、明治に入り、早稲田大の前身である東京専門学校が開校して以降は文教エリアとしても発展していく。作家たる漱石にとって、早稲田一帯は懐かしさと落ち着いて執筆に励める空気があったのだろう。この家は、いつしか「漱石山房」と呼ばれ、作家たちのサロン的場所にもなった。漱石は『こころ』のなかで主要登場人物である「先生」に「故郷は懐かしく、空気の色が違う。土地の匂いも格別だ。そこで過ごすのは温かいよい心地である」という意の言葉を吐かせている。その言葉が漱石の実感だったのならば、新宿を「終の棲家」としたのは、必然のように思えてくる。
軍・徳川吉宗がよく出向いていたのが、幕府直轄領で御鷹場(鷹狩りの場)のひとつであった小松川、現在の江戸川区小松川である。ある時、吉宗はその鷹狩りの途中、休憩で口にした小松川の名産品、青菜の味に舌鼓を打ち、この一帯でとれる青菜を「小松菜」と名付けた。つまり小松川は「小松菜」のルーツなのだ。以降、俳人の小林一茶もその人気ぶりを句に詠むなど「小松菜」の名声は高まり、現在も吉宗に小松菜を振る舞った神主の屋敷跡である小松菜屋敷や小松菜神社ともいわれる新小岩香取神社などの史跡が残っている。ただ、この話は口承で伝わっているものであり、信憑性に疑問があるという説も。しかし、エピソードの背景には江戸川のきれいな水は茶の湯に最適と将軍家が重宝していたなど、当時の江戸川区の自然の豊かさ、美しさがあったと思われ、たとえエピソードは伝説であっても環境がよかったことに疑問を挟む余地はないだろう。
鎖国体制にあった江戸時代の後期、新たな時代の到来、新たな知識を求めたのが蘭学(オランダを通じて日本に伝わったヨーロッパの学問や文化の総称)だった。なかでも日本初の本格的な西洋医学翻訳書『解体新書』はその金字塔。この本は現在の中央区湊にあった中津藩の蘭学者・前野良沢邸に杉田玄白、中川淳庵らが集まって翻訳が始まった。前野は日本有数の蘭学者であり『解体新書』の原書である『ターヘル・アナトミア』も彼が長崎で入手したものだった。ちなみに前野の屋敷が湊にあった理由は、前野が仕えた中津藩奥平家の下屋敷と藩士の住まいが現在の中央区明石町・湊一帯にあったため。奥平家は前野ら蘭学者を大事にするなど当時としては珍しく開明的な家風で、後には藩士・福沢諭吉の塾もこの地に開かせている。現在も明石町・湊を含む東京の湾岸エリアはビジネスからカルチャーまで、多くのスポットが集う場所。ここは今も昔も最先端の知識人が集う街だったのだ。
幕末、江戸を戦火から救った幕臣・勝海舟。彼は一時、静岡に転居したものの、江戸時代末期から、76歳で亡くなる明治時代前半まで長く赤坂に住んだ。その間、3度引越しをしているがすべて赤坂エリア内。また、彼の話をまとめた『氷川清話』も、住まいである赤坂氷川町からとったものである。いかにこの土地を愛していたが分かる。その明確な理由は残されていないが、ひとつ象徴的なのは、若き日の勝が師である永井青崖に蘭学を学ぶために通った福岡藩中屋敷が赤坂溜池にあったことだ。赤坂の勝の家には、彼の大局的な見識、頭脳を求めて坂本龍馬ら幕末の志士たちが多く訪れ、明治期には訪れる新聞記者たちに求められ政治批評も行った。勝にとって赤坂は世界への知識を求めて足繁く通った青春の地。赤坂を訪れる大志ある若者に若き日の自分を重ねたのかもしれない。そして赤坂も含めた都心は、今も日本を動かす人が行き来する土地。それは江戸時代から変わらないのだ。
杉並区荻窪は、日本を代表する女流歌人・与謝野晶子が夫・寛(鉄幹)と住んだ家があった場所としても知られている。与謝野夫妻は関東大震災の経験や、子どもの成長に適した家を望んだことから住まいを郊外に移すことを決め、選んだ土地が、当時まで武蔵野の風景を色濃く残していた荻窪だった。関東大震災の被害において特徴的だったのは、住宅密集地における火事で命を落とした人が多かったこと。一方、当時、田んぼが一面に広がり、稲穂や草花の匂いが立ちこめる荻窪は、そうした災害への備えにもなり、また子どもを遊ばせるにももってこいの場所だった。晶子は自ら設計に携わった家を愛し、庭にはさまざまな花や雑木を植えて四季の移り変わりを楽しみ、夫を亡くし子どもたちが成長した後も、生涯、荻窪に住み続けた。その屋敷跡は現在、南荻窪中央公園として整備されている。ちなみにその場所からほど近い杉並区立桃井第二小の校歌は晶子が作詞したものである。
近代文学の名手、横光利一は、自らが過ごす土地にこだわったことでも知られる。例えば妻の故郷であった山形県庄内地方を「これぞ日本の農村」と気に入り、避暑などで長逗留しては作品を執筆した。そんな横光の東京の住まいは下北沢・池の上。当時、モダンな近郊電車であった小田急線が開通したこの街は、都会の香りが残りつつも武蔵野の自然が残る、彼が理想とした場所だったそうである。静かに執筆できる環境でありながら、常に新たな文化の中心であった東京の都心にもすぐに出て行ける。横光が引越したのは小田急線開通の翌年。「新感覚派」と呼ばれた作家に、ある意味ではふさわしい、新しい時代の訪れ、新しい街、流行に敏感な家選びのようにも見える。クリエイターが望む土地の条件は、今も昔も変わらないのかもしれない。以降、下北沢には三好達治や坂口安吾、森茉莉など、多くの作家が移り住み、いわゆる「文士町」という一面を形成していくこととなった。
※人物の歴史は諸説あるうちのひとつを紹介しています
2016年8月23日 SUUMO新築マンション首都圏版より転載